ひとりぼっちのすすむ
すすむは全てのものに背を向けるように絵本を見つめた。すすむの意志に従う所有物は、すすむの目の前の5冊の絵本だけ。おばあちゃんが部屋を去るのを待って、すすむは5冊の絵本を腕に抱えて部屋の隅に配置して回った。部屋の四隅に一冊づつ。残った一冊は、部屋の中央に。
さきほど、おばあちゃんに絵本を散らかしてはいけないと注意された状況だった。すすむの仕草が少し遠慮がちだったのは、罪悪感と言うよりも、自分の遊びをどう説明して良いかわからなかったからである。そして、すすむが自分の遊びを説明する言葉を持ちたいとも思わなかったのは、大人の言葉が嘘を重ねて塗りつぶされているのを知っているからに違いなかった。
すすむはパンダの絵本を抱えて、部屋の中央からやや窓よりを、背中を丸めてころんっと転がっててみた。続いて、畳の上をごろごろと転がってみた。すすむはつまらない表情のままだ。別に、深い意図はない。すすむがたった一人で退屈をまぎらわせるために考えた遊びの一つだった。この遊びを中断させたのは、さっき、おばあちゃんが持ってきたホットケーキである。この聖域に遮断したい違和感のある雰囲
気を拡散させる。
すすむは転がるのを止めて、うつぶせに寝転がったまま、ホットケーキを眺めた。ホットケーキは二枚重ねで、幼い彼にとってボリュームがありすぎる。すすむはホットケーキから目を逸ら
して、抱えた絵本を開いた。そして、お母さんの口調を再現しながら声に出して読んだ。
「しんしんと こなゆきが そらに まう やまおくの むらのことでした」
すすむは、字が読める年齢ではない。ただ、幼児の素直さで、母親が読み聞かせてくれた語り口を記憶していて、口調を真似て繰り返しているのである。
熱いシチューの香りが漂う丸木小屋の中で、母子のパンダがお父さんパンダの帰りを待つ光景が、絵本のページから溢れるように広がった。すすむはこの描写に、ホットケーキの記憶を重ね合
わせて覚えている。
お母さんはホットケーキを食べるすすむに寄り添って、この絵本を読んでくれたのである。すすむはシロップが滴る一枚目を食べながら、お母さんの声を聞いた。お腹が一杯になったすすむが、二枚目を意味もなくつつき出すと、お母さんは食べ物を粗末にするすすむを叱る。ただ、叱り方は優しく、あらかじめ定められた台本どおりのように、残りのケーキを自分が食べてしまうのだった。すすむは、お腹の脂肪を気にしながら遠慮がちにシロップをかけるお母さんの姿や、ホットケーキの咀嚼のために中断するお母さんの声のリズムが好きだった。
しかし、今、すすむの目の前には冷めかけたホットケーキがあるだけだ。すすむは記憶から目を背けるために、くるくると頭を動かして部屋の中を見回した。おばあちゃんが几帳面に掃除をしていて、僅かにタンスの上には、博多人形や小さな額縁に入った写真や何冊かの本が置いてあるのだが、彼が手を伸ばしても手が届かない。変化があるように見えながら、彼のような幼児には殺風景な空間だった。
ふと、手の届く場所にあった白い毛糸のマフラーが目に入った。すすむはそのマフラーをしてこの部屋から公園に逃げ出すことに決めた。マフラーを外出の目印にして台所へ行くと、おばあちゃんはセーターの上からジャンパーまで着せて、すすむをまん丸にした。風邪をひかないことが、一人で外出させてもらうための条件だった。
「ご飯の準備が終わったら、ついて行ってあげるのに」
「いいの」
すすむは玄関に向かってかけだした。おばあちゃんは、教師の目つきをして鋭く指摘した。
「車には気をつけるのよ」
そして、くどく付け加えた。
「道路に飛び出しちゃダメよ」
「はーい」
すすむはよい子の返事をして、青い小さなプラスチックのバケツの中で、黄色の柄の付いた赤いスコップをカチャカチャ音をさせてアパートの部屋を飛び出した。おばあちゃんはそんな孫を見送りながら、孫の心を考えた。
(今日一日は、平穏に過ごせるかもしれない)
そして、息子と嫁、すすむの父母の関係にため息をついた。




