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春香の誤解

 すすむにとって、最初の兆候は、お母さんにパンダの絵本を買って貰った少し後の事だ。すすむは寝床の中ですすり泣きながら、お父さんとお母さんが怒鳴り合うのを聞いたのだ。

 あくる日の朝から、お父さんもお母さんも笑わなかった。すすむも色々試してみたのだ。幼い頭で考えた、気の利いた冗談も言った、身の回りで起こったおもしろいことを拾い集めて話もした。

 隣の伸ちゃんがおかしな格好で転んだ話。

 門の前におかしな顔の犬がいたこと。

 そんな話の1つ1つを父母は以前なら腹を抱えて笑ったり、真剣に聞いてくれたに違いないのだ。お父さんは居間で新聞を読むだけだ。お母さんは自分の部屋

に引っ込んでアイロンがけや趣味の刺繍をするだけだ。

 お父さんの側に行くと、すすむの日常の事や友達の事を聞いたりしたが、その言葉は虚ろで、何度も同じ質問を繰り返した。

 お母さんの部屋に行くと、以前と同じに絵本を読んでくれたが、突然に意味もなく話を中断して、当たり前のことを聞いた。

「すすむちゃんはお母さんのこと、好きよね? 」

 そして、一人ふさぎ込んでしまうのだった。

 すすむは一つ知った。この家には子供と大人がいるのだ。子供はすすむで、大人はお父さんとお母さんだ。子供は大人の世界には入って行けない。


 すすむは二つ目の変化に気付いた。お父さんやお母さんに、子供部屋に追い払われた後には必ず、お父さんとお母さんが争う不安な音が響くのである。彼はそんな音の一つ一つを布団の裾を握りしめたり、部屋の暗闇の中で意味もなく立ち尽くしたりして聞いた。

そのあと、怒鳴り合う声や、お母さんの泣き声や、食器が床で割れる音が何日か続いたが、すすむはそれを数えることを止めてしまった。

 そんなある夜、すすむは仰向けに布団を被ったまま不安な物音が治まったのに気付いた。何か不安な感じがする、そんな静けさだ。

 すすむは耳だけを澄ませて次の物音を待った。神経を耳に集中させて、肌で危険な雰囲気を嗅ぎ取る子ネズミのよう。しばらくして子供部屋の戸が開く音がしたので、すすむは布団の中で体を縮めた。人の気配がした。布団の上から優しくすすむを撫でる手つきから

、お母さんだと分かる。すすむはじっと唇を噛みしめていたが、自分でも知らない内にすすり泣いていたのかも知れなかった。お母さんは布団の上からすすむを抱いていたが、やがてそっとささやくように言った。

「すすむちゃん、ゴメンね」

 お母さんの足音が子ども部屋から遠ざかり、そして、玄関のド

アが開閉する音がして、お母さんの足音が外に小さく消えた。その時のすすむの記憶は、そこまでだ。

 あくる朝、すすむが台所に起き出すと、お母さんがいなかった。ただ、お父さんが台所のテーブルの前に惚けたように座っている。すすむはお母さんの部屋に行って、お父さんの部屋に行って、トイレのドアもノックして、台所に戻ってお父さんをそっと見上

げた。お父さんは、彼に気付いたように瞬きして、やがて、すすむの顔をのぞき込んで、ぼそっと聞いた。

「ちょっと、おじいちゃんちに行くか? 」

 すすむは黙ったまま、お父さんの傍らに立っていた。お父さんが長い電話をしているときに、彼はパンダの絵本を抱えたまま、お父さんを見上げて、電話の相手はおじいちゃんだろうと考えていた。

 その日の内に、すすむは一番いい服を着て、お気に入りの玩具を幾つかと、絵本を持っておじいちゃんちにやってきた。おばあちゃんは彼にお母さんが病気になったこと、遠い病院に入院したこと、お父さんは仕事が忙しいこと、お母さんの病気も彼がよい子にしていればすぐに治って帰って来るかもしれないこと等を話してくれた。

 おじいちゃんはただ、すすむに玩具を買ってやろうと約束した。すすむは黙って絵本を読むふりをしながら、おばあちゃんの話やおじいちゃんの約束を聞いた。

 それから、お父さんは二回、すすむを訪ねてきた。最初、部屋の中で話をしたが、笑っている割に元気がなかった。二度目は手をつないで近所の公園を散歩したが、すすむの手を曵くお父さんの手に力がなかった。大人は気付いていないのだろうが、すすむはそういう些細な出来事から全てを察していた。

 お父さんはすすむを見る度に、口癖のように仕事が忙しいのだと言った。そして、何もかもお父さんが悪いのだと言ったが、お母さんのことは何も言わなかった。

 だから……、

 すすむもお父さんには何も聞かなかった。すすむはそのままおじいちゃんちに捨てられた。


 春香はため息をついた。ため息の理由はいくつもある。その一つは、自分の単純な勘違いに付いてである。あの子が寂しそうにしているのは、お母さんが病気だということではなかった。あの子のお父さんとお母さんの仲が悪くて、家族が崩れてバラバラになってしまったと言うことだ。そして、あの子が孤独感を深めているのは、周囲の人々が事実を隠していることだろう。多感な幼児は事実に気付いている。周囲の大人が事実を隠して自分を仲間はずれにしていることも知っている。

 春香はふと思った。この世界で彼女の居場所を失わせる能力が、すすむとの関係においてのみ、存在価値を持っている。


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