二日目のお話し クリックさんの手
すすむうさぎは探検の最中だった。暖かな日差しに、家の中にじっとしていることに耐え切れなかった。目を覚ますとすぐに家を飛び出して、村と森を抜けて来たのである。今日は、ちょっと遠方に、新しい冒険を求めて。
ここは、すすむにとっては未知の土地だった。すすむが周りを見回すと、既に雪は消え去り、辺り一面、明るい未来の夢を刺激する春の景色が広がっている。白一色の静止した景色に変わって、赤や黄色や紫色の花の色彩が、すすむの目を射て、甘い蜜の香りが鼻を
くすぐり、長い耳一杯にミツバチの賑やかな羽音が響いていた。胸わくわくとして跳ね回りたくなるほど楽しい。すすむは、目の前の丸木橋を二跳びで駆け抜けたかと思うと、三跳び目はもっと足に力を込めて飛び跳ねて、そのまま、心地よく全身の力を抜いて落ちるのに身を任せて前方に飛び込んだ。川の向こうに新しく見つけた草原である。
ひんやりした心地よい朝露が細かく舞って、すすむの体を包んだ。目を開けると、朝露の最後の一しずくが草の葉っぱの先に重そうにぶら下がって、すすむの鼻先にある。すすむは鼻先をひくひく動かして香りを嗅いだ。
土の香り、
葉っぱの香り、
蜜の香り、
いろいろな香りが鼻先から喉を通って口の奥に入ってきて、すすむはその香りの一つ一つを味わった。そして最後に滴を鼻先に受けて身震いをするほどに大きなくしゃみをした。何か全身がわくわくするような期待感に満ちている。
後ろ足で立ち上がると、すぐ先に花畑が見える。レンゲ草の畑。柔らかな日の光を無数の赤い花が受け止めて、綿を小さく千切って敷き詰めたような柔らかさを感じさせた。すすむは草むらから跳ねて畑まで跳び込んだ。
花の赤い色で、すすむの白い体に染まりそうだ。すすむは花の1つをかじってみた。花の香りが口の中に広がる。花びらの根元の蜜の玉が弾けて、小さな甘い味がする。
空を見上げると、青い空に丸い雲が3つ浮かんでいる。その横にちゃんと目や鼻や口がついた太陽がいて、すすむに微笑みかけている。すすむは暖かな希望に満ちた興奮に包まれて、花畑を跳ね回った。すすむが跳ね回るたびに、花や葉っぱが飛び散って空
に舞った。青い空、赤い花びらや小さな緑の葉を背景に真っ白なすすむが
躍動した。跳ね回るのに疲れると、全身の妙なむずがゆさを振り払うように大きな身震いをした。
大きな後ろ足で耳の後ろを掻くと、耳が後ろに折れて、誰かの足音を捕らえた。
「こらっ! 」
怒鳴る声に驚いて振り向くと、黒くて大きなクマである。背の高さはすすむの3倍くらい、腕の太さだけでも、すすむの体ぐらいはありそうだ。しかも、黒くて大きな体の回りに、蜜蜂が何匹もぶんぶん飛び回っているのがいっそう恐ろしい。このクマは、すすむに悪意を抱いているに違いなかった。すすむはすっかりそう決め込んだ。すすむは大急ぎで逃げだした。足の早さは兎のすすむの方がずっと早いのだ。
「待ちなさい」
悪いクマは、すすむを呼んだが、すすむはこんなクマに喰い殺されるのはまっぴらだ。
すすむは慌てて家まで駆けて、ドアから家に飛び込んで背中でドアを閉じた。テーブルの前に朝食の皿を並べる春香うさぎがいて、暖炉ではじゃがいもと人参のシチューがことこと音を立てて煮えている。春香うさぎは、柔らかなパンを盛りつけた籠と、甘い蜂蜜がたっぷり入ったポットをテーブルに置いた。
「さあ、朝ご飯にしましょう」春香うさぎは深皿に熱々のシチューをよそって、すすむに手渡した。食欲をそそる香りのシチューをこぼさないように注意深
くテーブルまで運んで、もう一皿、同じ事を繰り返した。春香うさぎの分と自分の分。家族でテーブルで向かい合って朝食を取ると言うことが、すすむには嬉しい。
すすむはここのところ、朝食の席で早朝の探検の成果を春香に報告するのが日課だった。すすむは川の向こうに草むらを見つけたこと、レンゲの花畑を見つけたことなどを話した。
春香うさぎはいちいちうなづきながら微笑んで子ウサギの話を聞いていたが、すすむがクマに会った話をすると
「まあ、クリックさんの花畑を荒したのね」
春香うさぎは、すすむを非難する口調で言葉を続けた。
「クリックさんはね、お花畑で蜜を採るのが仕事なの。あなたはその花畑を荒したのよ」
「違う、違うよ。あの悪いクマは、ボクを虐めようとしたんだ。大きな口を開いてボクをぼりぼり食べようとしたんだ」
すすむはクリックさんが歯をむき出す真似をしてそう主張したが、春香はすすむの鼻づらを指でつついて命じた。
「いいこと。今度クリックさんに会ったら、ちゃんと謝っておくのよ」
すすむは不満だ。
それから何度か、すすむは探検の途中、クリックさんを見かけることがある。すすむの長い耳がクリックさんの足音を遠くから聞きつけるので、すすむが先にクリックさんに気付いて、こっそりクリックさんの様子を覗ったが、遠距離から覗き見るだけで近寄ろうとはしなかった。あの太い腕で叩かれたら、すすむなんかいっぺんに死んでしまう。あの太い足でふんづけられたら、すすむなんかぺっちゃんこだ。それにあの大きな口なら、すすむなんか一口でぼりぼり骨までかじられる。
クリックは、すすむを見かけるたびに彼を呼んだが、すすむが寄ってこないとがっかりしたポーズをした。少し悲しそうにも見えた。でも、すすむはそんな手には乗らない。あれは、きっと、すすむを騙して捕まえようとしているに違いない。
ある日のこと、すすむはいつもより遠方まで探検した。彼の大きな耳は水音を捉えたのだ。彼はその音に引かれて森の奥まで入った。彼はそこで水音の正体を見つけた。大きな滝だった。
(ボクが最初の発見者かもしれない)
すすむは嬉しくなった。
春香に報告しようと考えたすすむは、日が落ちかかっているのに気づいた。森の日暮れは早い。すぐに、すすむの回りは真っ暗になってしまった。彼は道を見失い、木々の間に方角も失った。時々、木立に頭をぶつけて、すすむはなきべそをかいてあちこち跳ね回った。
ようやく、すすむは明かりを見つけた。誰かの手の下で揺れるランプの光だ。すすむは泣きたいくらいうれしくなってランプの光に駆けていった。そして、勢いよくランプの持ち主に飛びついた。ランプの持ち主は、太い右腕で、すすむを抱き上げると、もう一方の手で、ランプの明かりをかざして、迷子の子うさぎの顔を確認した。すすむは両方の長い耳が、ぴんと空を向くほどにたてて驚いた。
いま、すすむがいる場所、クリックの胸である。クリックもなきべそをかいて垂れ下がっていた子うさぎの耳が急に目の前に林立したのに驚いて、小さな目を倍の大きさにした。しかし、すぐに元の優しい目をして
「道に迷ったな……」
クリックは有無を言わせずに、すすむを肩の上に乗せた。すすむは恐怖に凍り付いたままだ。クリックは彼の性格を表すようにのんびりと言った。
「すまないな。初めて会ったときには驚かしてしまったな」
クリックを家に迎えた春香は、彼に熱いお茶を出した。すすむは、おいしそうにお茶をすするクリックを眺めていた。黒くて大きな背中だ。その背中から、しっとりやわらくて暖かい雰囲気が伝わってきた。すすむはその雰囲気をしばらく味わっていた。
やっぱり、悪いことをしたのかもしれない。
突然に、すすむは黙ってクリックの前に行くと、ぴょこんと1つお辞儀をした。お詫びとお礼のお辞儀だ。そのすすむの頭にクリックの手が伸びてきた。
(太くて大きなクマさんの手、でも、とっても温かなクマさんの手)
すすむはクリックに頭を撫でてもらってそう思った。心の底から温かい気持ちがわいてきた。暖炉でぱちぱち薪が燃えている。子ウサギは暖かな家の中でクリックと春香の笑顔に包まれた。




