引き金を描く手
僕は好きですよ。転生系とか転移系!
私は転生系や転移系というジャンルを嫌っているわけではない。むしろ好んで読んでいるし、物語としての快楽や想像力の飛躍には強く惹かれる。だが、読み進めるうちにどうしても拭えない違和感にぶつかることがある。それは、主人公が得たスキルや魔法によって、あまりにも容易く他人の命を奪ってしまう場面だ。
多くの場合、主人公は高校生か、あるいは現代日本の社会で生きてきたごく普通の社会人として描かれる。そんな人物が、異世界に行った途端「敵だから」という理由だけで人を殺す。その描写を目にするたび、私は立ち止まって考えてしまう。本当に、それは可能なのだろうか、と。
なぜなら私は自衛官だからだ。銃を持ち、祖国に仇なす存在を「敵」と定義し、その敵を殺すための訓練を受けてきた。殺す可能性を前提とした職業に就き、時間をかけて心の準備をし、命令系統と責任の所在が明確な環境の中に身を置いている。だからこそ、私は引き金を引ける。
裏を返せば、それだけの準備と構造がなければ、人は人を殺せないということでもある。敵とは自然に生まれる概念ではない。それは教育され、刷り込まれ、共有されて初めて成立する。正当化の枠組みがあり、個人の判断を超えた理由があるからこそ、人は引き金に指をかけることができる。
そんな私でさえ、条件が揃っているから引けるのだ。もしそれらが欠けていれば、あるいは曖昧であれば、躊躇は避けられないだろう。殺すという行為は、決して単純な操作や能力の発動ではない。それは構造であり、積み重ねであり、覚悟の結果だ。
だからこそ、何の訓練もなく、思想的な準備もなく、責任の所在も曖昧なまま、現代日本人である主人公が簡単に人を殺す物語に、私は強い違和感を覚える。それは倫理的な潔癖さからではない。現実を知っているからこその、感覚のズレなのだ。
本来、殺しには重さがある。その重さを背負うまでの過程があり、背負った後の変化がある。そこが省略されたとき、物語は確かに軽快になるが、人間の描写としては薄くなる。
この違和感は、転生や転移というジャンルそのものへの否定ではない。むしろ、人間を人間として描こうとするなら、そこにあるはずの重さを忘れてほしくない、という願いに近い。引き金は、誰にとっても軽いものではない。その事実だけは、どんな世界に行っても変わらないのだから。
そして最近、私はこうも思う。それは自衛官だからという理由だけではなく、小説を書く人間だからこその違和感なのかもしれない、と。人を殺す指で、私は人を描いている。命を奪う可能性を知っている手で、紙の上に命を書き起こしている。その距離の近さが、物語の中であまりにも軽く扱われる「殺し」に、小さく、しかし確かな引っかかりを生むのだ。




