片目を贈る
朝日が昇り、木々で眠っていた鳥たちが羽ばたくと、ざわめきが森に響き渡った。せわしない鳥の影は連なって、渦を描くように最奥の塔へと向かい、やがてその頂上にたたずむ魔女の元へと集まる。
隻眼の魔女は火傷の痕の残った手を伸ばして鳥たちを迎え、挨拶をする。鳥たちはめいめいの方角へと飛び立っていく。竜が棲むと言われる蓮の葉の池、人の子を生んだ白狐の棲む森、舞が奉納される神殿、水晶が採掘される森、尖塔の大きな修道院、時計の文字盤のような街、かつて魔女狩りの行われた広場……魔女はゆっくりとお茶を飲みながら、鳥たちの目を通して世界を見渡した。
暖炉の前でうたた寝していた黒猫がのびをして「ねぇ、あなた」と退屈そうに話しかけた。
「鳥の目を通して世界を見るくらいなら、街に下りたら? 片目を差し上げたあの方の安否を気にしているくせに」
黒猫がこまっしゃくれた童女のようなたどたどしい口調で言うもので、隻眼の魔女はふと片頬に笑みを刻んだ。
「私はあの方の幸せを望んでいたのだよ」
「あの方もおいでと言ってくださったのでしょ? だったら行けばいいのじゃなくって」
「あの方の周りには異端審問官が大勢いるから、殺されてしまう」
「守ると言ってくださったのに?」
「鳥たちの目をご覧。私が隠遁してなお、石を投げるのに熱心な輩がこんなに沢山。あの方は放任主義だからね。守るというのも、おおかた誰かの差し金じゃないのかね。気にするなと言われるのが関の山で、真実守られることはなかろうて。口説き文句の一つのようなものさ」
「異端審問官なんか片っ端から噛み殺してしまえばいいのに」
黒猫は大あくびをして、自慢の牙を見せた。
「口さがない連中にも語る自由はあるだろうよ。……まったく、困ったことだよ」
「最初に牙をむいたのは彼らよ! 大嘘でっちあげて濡れ衣をさんざんに着せて、あなたをひどい目に遭わせて追い出した! 噛み殺されても文句は言えないわ!」
「そうだねぇ。報復は連鎖するものだから、好きではなかったが……。母や子にまで災禍が及ぶとなれば、そうも言うておられぬ」
「奴らがいたぶりたいだけ、あなたがひどい目に遭う謂れなんかないのよ」
隻眼の魔女が指で文字を書くように黒猫の額を撫でると、黒猫はかぶりを振って拒絶した。前足で頬の毛を整えると、ふさふさとした尻尾を床に叩きつけ、憤懣やる方なしといった風情で鼻息を荒くする。魔女は黒猫の仕草を見て、額と頬の毛では違うのではないかしらと、肩を揺らして笑った。
「奴らはあなたが退いた分、わがまま放題するだけよ。あなたは何度も『あなた方と私は違うのだから、そっとしておいて』と言っていたのに、ずんずん踏み込んで、踏みにじりつづけたじゃない。わたし、何度奴らの肉を噛みちぎって、はらわたを引きずり出してやろうと思ったかしれないわ! そんな連中のために、あの方を悲しませる意味があって?」
「どうあっても、私はあの方の傍にあることはできない。私が近くにあって殺されるのを、あの方も見たくはなかろうよ。……もっとも、私が遠くで生きているのも呪いのようなものだろうがね」
「そんなのってないわ!」
「そうだね。だから連中は、幸せを壊した咎を負うべきだ。私は決して許さない。この呪いは私が生きている限り続く」
「あの人たちが呪いなんて理解するもんですか! 理解できるなら、あんなことはしないわ! あなたが魔女だからって、あなたのせいにされるだけよ!」
「これはあの方の孤独と、私の深い絶望で織りあげる呪いだよ。私が生きている限り、まとわりつく呪い。……彼らは何度でも大義名分を掲げて気に入らないものを槍玉にあげるだろう。だから私は隠遁した」
「知らないわそんなこと! 今のことを考えたらどうなの! 一番傷ついたのはあなたでしょ!」
「……お前は、あの方をずいぶん大切に思うのだね。私もだよ」
なんと言ったところで黒猫は納得しないだろう。守ると言いながら壊しつづけ、遂には魔女裁判にまで至った。理不尽を誰のせいにもするなと壊した者たちから言われる理不尽。人を信じるのに疲れ果てた魔女の心は揺るがない。
すっかりおかんむりで背中の毛を逆立てた黒猫が、絨毯の端にがぶがぶと噛みつく。後ろ足をじたばたさせる音に混じって、暖炉の炎が爆ぜた。
隻眼の魔女は困ったようにため息をつくと黒猫に背を向け、棺に頬を寄せた。
「だから、あの方に片目を預けたのだよ。あの方が好きだと言ってくれた、私の目を。あの方ただ一人だけに」
隻眼の魔女は、かつての想い人の元に残した眼球に思いを馳せる。贈った片目の見る景色が、彼を少しでも支えることができればいい。そうして己のそばから失われたものを知り、海の底より深く後悔すればいい。後悔こそが、未来を作るだろう。
次こそは間違えるでないよと、魔女は残った片目をゆっくりと閉じる。隻眼の魔女は鳥の視界の中に、かつての想い人を見た。
青い空に、くらげのような白い月がふわりと浮かんでいた。
「忘れるまでは、覚えておいで。次に愛する人こそは、きちんと守って差し上げるといい。私の影が、それを見届ける。さようなら、愛しいあなた」




