最後の航海
正直、もう湖に出るのは嫌だった。
行ってはいけない彼女を行かせてはならないと分かっていた。
だが、智ちゃんはやはり湖に出る事を求め
母親は僕に湖に出る事を命じた。
何日も漕いだだけあって、かなり慣れたはずだが
その日のオールは酷く重かったのだけは覚えている。
「そうそう、こーちゃん右だよ…あ、左か…」
智ちゃんが目指したのは昨日、死体が沈んでいると彼女が言った場所だった。
もちろん死体なんて彼女が思い付いただけの話だ。
そう、そんな話を思い付いて嬉々として語る彼女が怖かった。
既に彼女の眼は緑色の湖面のように表情を失っている。
何度も引き返したい衝動にかられたが
引き返えすなとばかりに売店のベンチに母親は座り
こちらを見ている。
「お母さん、見てる?」
智ちゃんは振り返えると母に向かって手を振った。
母親が売店のベンチから手を振り返したのが見える。
「あの影にボート行けそう?」
死体が沈んでいると言っていた場所を過ぎたが
彼女は忘れてしまったのか気にもせず
湖から取水する用水路の入り口にボートを泊めさせた。
ボートは樹木の影になり湖面の照り返しからも
母親の視線からも解放される。
少し休憩したら戻ろう…戻れば明日から湖に来る事はない。
ホッとする僕に彼女はこう言った。
「ここで泳ごうか?」