メイドと箒―前編
この物語は、ドラゴンのう〇こというテーマに統一された、短編集です。なので、前編、後編の順序さえ守っていただければ、どこからでも読めます。
ドラゴン。
この世界で最も恐れられている存在だ。
およそ百年に一度、この世に厄災をもたらし、人々の絶望を喰らうとされている。
その巨体を動かすのは、糖質でも脂質でもなく、ひとえに”絶望”のみ。まさに、存在そのものが悪だ。
しかし、その汚穢―――すなわちう〇こには、人知を超えた、とんでもないご利益があるという。
◇ ◇ ◇
「また怒られちゃったよぉ…」
サティアは、落ち込んでいた。
サティアは新人メイドだ。
11歳という異例の若さで奉公に出され、今は研修の真っ最中。実務経験はまだない。
サティアは物覚えが同い年の中でも悪いほうで、いわゆるドジっ子だった。そのため、今日も今日とて、メイド長からこっぴどく叱られたのであった。
「箒の握り方がなってない!」
メイド長の言葉を自分の中で反芻する。何度も注意されてきたことだ。
もちろん、サティアなりに改善の努力はしたつもりだが、なにぶん能力が付いてこない。
メイド長はいつも、サティアが掃除した廊下に目を光らせ、ほこりの一かけら、髪の毛の一本、食べかすの一くずでも落ちていればこっぴどく叱るのだ。
「ああ、なんで私だけこんな目に…」
叱られる度にサティアは、そんな愚痴をこぼした。
そもそも同い年の子たちの大半は、まだ働きに出てなどいない。
どうして私だけ…。
サティアは何度も、自分の不運を呪った。
今サティアは、中庭の掃き掃除をしている。
植え込みから飛んできた土や落ち葉を、通路の外に追いやる作業だ。
ここの掃除は、風が吹く度に新たな土と落ち葉が増えていくので、多少雑にしても目くじらを立てられることはない。一生ここの掃除を当番していたいと、サティアは思うのだった。
サティアは、大人が使う用の大きなサイズの箒を、一生懸命動かしていた。頑張ってはいるが、体格とサイズがあっておらず、どうしてもぎこちない動きになってしまう。
「いたっ!」
不意に痛みが走る。
手にできた二つのまめの片方が、潰れてしまったようだった。
サティアは思わず痛みに顔をしかめ、箒を落としてしまう。
早く拾って作業に戻らなきゃ。またメイド長に怒られちゃう。
そんなことを思いながらも、サティアは箒を拾いなおす気力すら起こらず、途方に暮れて空を見上げた。
ああ、何か特別なことが起こって、この嫌な日常が終わらないかな。
そんなことをぼんやりと思った。
矢先。
上空を、巨大な影が横切った。
あまりのスピードに、その全身をはっきりと見ることは叶わなかったが、サティアにはそれが何かわかった。
「ドラゴンだ!」
ドラゴン。
サティアは幼いころに―――今も充分幼いが―――母からの読み聞かせで話には聞いていた。だが、姿を見るのは初めてだ。
直後、ドラゴンの後を追って、突風が吹きこんだ。
土と落ち葉が舞い上がり、たった今サティアが掃いた通路に降りかかったが、サティアはそんなことは気にも留めなかった。
嫌で、退屈で、代わり映えしない日常に降りかかった、一縷の非日常。
何かいいことが起こる予感がした。
直後、サティアは、空から降ってくる金色の飛来物を見た。
◇ ◇ ◇
おおおおちるうううううううううう!!
意識が戻った時、俺は既に空中に放り出されていた。
状況を把握する間もなく、地面は等加速度に近付いてくる。
こうなってはもう、足掻いても仕方ない。というか、足掻こうにも、俺には手足がないらしい。どういうことだ?
べちゃ。
考えているうちに、俺は地面に到達してしまったらしい。しかし、人体が高高度から落下したにしては、いささか軽い音がした。
また、激痛を覚悟していたが、何の痛みもない。というか、なんだこれは。
体が黄金に光り輝いている。そして、かなりの高さから落ちたはずなのに、その美しい形状を保っている。ソフトクリームのようにとぐろを巻くその形状は―――
(うわー、めっちゃきれいなう〇こや)
そう、まさに汚物そのものだった。いや、どうしてこうなった。
ちょっと時間を巻き戻して考えてみることにする。
◇ ◇ ◇
俺、関西在住26歳専業主夫は、後悔していた。
こんなはずじゃなかった。
頭の中で何度も繰り返す自問自答。
(俺は離婚するべきなんだろうか)
結婚生活は3年目へ突入。
夫婦の仲は冷え切っていた。
新卒で入社後、早々に結婚へとゴールインした。
お相手は4歳年上。バリバリのキャリアウーマンで、初任給の俺の給料の3倍以上は稼いでいた。
そのため俺は入ったばかりの職場を辞め、専業主夫の道を選んだ。そして嫁も、それを望んだ。
最初のうちは、それはもう仲のいい夫婦だった。学生時代から一人暮らしをしていた俺は、主夫としての技能は申し分なかったし、嫁の収入は二人で暮らすのに充分、むしろ子供がいても差し支えないほどのものだった。
しかし、幸せな生活は、徐々に綻びを見せることとなる。
まず、嫁はあまりに仕事一筋で、次第に家庭を顧みなくなっていった。ここでいう家庭とはつまり、俺の事だ。
俺は主夫である前に男。そう、毎晩放っとかれると、色々溜まるものがあるのだ。
また、嫁は徐々に俺に対して素っ気なくなっていった。
長い付き合いのうちに分かったことなのだが、それは俺だけでなく、周りの誰しもに対する態度らしかった。元々人付き合いを大切にする質ではないらしく、付き合っていた時は猫をかぶっていたらしい。
3年の月日の間に、俺は居て当たり前の存在になり、嫁はその関係に胡座をかいたわけだ。
そんなこんなで、今や俺は家事をする機械だ。
「あれやって」
「んー、ちょっと待ってて」
「これやってー」
「今やるから」
「早くやれ!」
「はい!」
最近そんな会話しかしていない。
最早召使い、それを通り越して奴隷だ。
完全に尻に敷かれている。
俺は、嫁が残業で遅くなる日は、いつも一人で晩酌していた。
その日も嫁から帰りが遅くなると連絡がきた瞬間から、ウィスキーのボトルを開けていた。
あの時何杯飲んだだろうか。記憶があいまいだが、明らかにいつもより悪酔いして、気分が悪かったことは覚えている。その日は寝坊して、朝ご飯を作りそびれたので、こっぴどく叱られた。そのストレスからか、深酒になってしまっていたのだ。
そして飲んでいる間にいつの間にか気を失ったのだろう。
それからの記憶がない。
いや、待てよ。あるぞ。
『汝は選ばれた』
酔いが回り、薄れゆく意識。
その最中、ぼんやりと声が聞こえたのだ。
『彼の…、…ス……アに…り……る……。…地………、…………裂き、………………するその…………は、ズ……・…ル……チ。人…………、…哀、………棄、……、……、……、……、及び………の……を、其の…………………とする。数……に……………で………を…え、……満たす………………………こし、死………人間から零……つ、………情が……れた…を貪るのだ。その………て……された…………の……は、汚穢として体……………れる。そして、何…………な身……の者……に渡り、彼の………く。そ………の…………て、汝は選ばれた』
何か頭の中で、何事か難しいことを言っている声が聞こえた。
酔っ払っていて、話が半分も入ってこなかったが。
俺は幻聴が聞こえるほど酔っていたのか?
「ん〜、つまりなに?」
『要するに、汝はドラゴンのう〇こに転生する』
◇ ◇ ◇
そうだ、思い出した。
頭の中で声が聞こえたんだ。
よく分からん御託をうだうだ並べ立てられたが、最後の一言だけは鮮烈に覚えている。
『要するに、汝はドラゴンのう〇こに転生する』
そして今の俺は、見紛うことなきう〇こ。
絵に描いたような巻き糞だ。
あれが幻聴だとしたら、今見ている世界も幻覚?
ということは、これはまだ夢の中か。
夢にしてはあまりにも鮮明な気もするが、ひょっとすると明晰夢というやつかもしれない。
そのうち目が覚めるだろうし、それまではこの夢の景色を楽しむことにするとしよう。
ここはどうやら、大きな屋敷の中庭らしかった。
緑あふれる開放的な空間の四方を、いくつものアーチが取り囲む。中央には立派な噴水があり、そこから十字に通路が伸びていた。通路の両脇にはきれいに形作られた植え込みが整然と並び、植え込みに囲まれた空間には、さまざまな種類の植物が、色とりどりに枝を伸ばしていた。
しかし冬の季節なのだろう、葉を落とした植物もちらほらと見えた。木枯らしが一陣、びゅうと吹き付け、禿げかけた植え込みの禿をさらに促進した。
そして植え込みの隣に突っ立っていた少女の、真っ白なツインテールもまた、吹き付ける風にたなびいていた。
その少女は、驚愕に見開かれた碧い目で、俺を見詰めていた。
全体に紺色の生地に白いフリフリの装飾がある、典型的なメイドさんの格好をしていて、一目でこの少女が屋敷の女中であることが分かった。
少女は驚きに暫く動きを止めていたが、はたと我に返ると地面に落ちていた箒をそそくさと拾い上げ、掃除を始めた。
その小さな体躯には不釣り合いな、大人用の大きな箒だったので、一生懸命掃いているが、どうしてもぎこちない動きになってしまう。少しして少女は、「うっ」と小さく声を上げ、箒を持つ手を緩め、手を見つめた。
ちょうど見える角度だったので俺もその手を見つめた。
その手の中ではマメが潰れて、血がにじんでいた。
かわいそう。率直にそう思った。
この若さで、ここまで酷使されるのか。
用意されている箒のサイズからしても、子供が働くのが当たり前の世界でないことが伺える。
この子は稀有なケースなのだろう。
さらに、この子はメイド長なる人物に叱られることをとても恐れていた。その姿は、俺が嫁に怒られることを恐れている姿とどうにも重なるのだ。
どうにかこの子は救われてほしいな、と素直に思った。
その瞬間―――
「わっ……!」
俺の身体が黄金に輝き始めた。突然のことに、少女は短く声を上げた。
俺は身体の芯から、じんわりと熱くなるのを感じた。全身が熱を帯びて、ドロドロに溶けていく。とぐろを巻いた、巻き糞スタイルの形状が解かれていき、俺はすっかり真っすぐになる。
俺の形状はさらに細長く伸びていく。そして、片方の先端からふさふさとした金色のひげが長く生えて―――
「箒だ…!」
少女が驚きに声を上げた。
そう、俺の形状は完全に箒だった。
それも、少女の身体にぴったりのサイズだった。持ち手はアンティーク調に飾りつけされており、エレガントな雰囲気。
少女が、恐る恐るといった様子で俺に触れた。なんだか汚物を扱うときのような慎重さだなと思ったら、そういえば俺は汚物だ。
少女の指先が俺に触れる。冷え固まって金属のような硬さとなった俺だが、ほんのりと温かさを少女に伝えられたと思う。その思いが通じたのか、少女は一思いに俺の柄を握る。
「……!?」
俺の表面は少女の手の形に合わせて沈み込み、ぴったりとフィットした。握りなおす度、その時々の手の形に合わせてエルゴノミクスに沈み込んだ。これでもう、箒を取り落とすことはないだろう。
そして俺の身体には、少女の潰れたマメのザラザラとした表面の触り心地が伝わってくる。また、両の手にはまだ潰れていないマメを、いつ潰れるか分からない時限爆弾のように抱えていることが分かった。
水回りの仕事も任されているのだろうか、あかぎれやささくれもあちこちにある。
可哀そうに。何とかしてあげたい。
そう思った瞬間―――
俺の身体が再び金色に輝いた。
また体の芯から熱くなる感覚がしたが、今度はその熱は少女の方に流れていく。
そして少女の傷ついた手から伝わるザラザラとした感触が、年相応の素肌のすべすべとした感触に変わっていった。
「ありがとう!」
完全に治療が終わると少女は、お礼を言って俺を抱きしめた。
おう、いいってことよ。
それから少女は、俺を使って掃除に戻った。
俺が手に馴染むからだろう、一掃き一掃きにしっかりと力がこもっていた。それだけでなく、掃く毎に周囲に風が巻き起こり、半径1メートルほどのほこりがごっそり飛んでいく。物理法則を超越したお手軽お掃除だ。
でっかいお屋敷のだだっ広い中庭が、あれよあれよという間に奇麗になっていった。
「サティア、中庭の掃除はできましたか?」
「はい、今終わりました!メイド長」
ちょうどいいタイミングで中庭に入ってきたのは、初老の女性だ。
紺色の装いの少女と対照的に、真っ黒な服装だった。
メイド長はたった今掃除された中庭をぐるりと見まわし、サティアの仕事ぶりに満足げに頷いた。
「うむ、大変よくできました。次は洗濯を…ん?」
メイド長は俺の方に目を向け、怪訝な顔をした。
「何ですか、その箒は?」
「あ、こ、これは……」
サティアが答えに窮すると、メイド長はどこからか盗んできたかもしれないと思ったのか、サティアを射抜くように睨みつけた。
「はわわ……!」
サティアは怖気づき、言葉に窮したが、意を決したように俺を握りしめ、正直に話した。
「その、信じてもらえないかもしれませんが、この箒は空から降ってきました」
「空から降ってきたァ…?」
これまで終始丁寧な口調で話していたメイド長だったが、突飛な話を聞かされた驚きからか、語尾が大きく崩れた。
サティアはこれまでの一連の流れを説明した。
「なるほど、そうですか。ドラゴンが飛んで行った後に落ちてきたのですか。うーむ、俄かには信じがたいですが、今はとりあえず信じるとしましょう。それに加えて、この金色の輝き。とすると、もしかして…」
「心当たりがあるのですか?」
「ええ、話に聞いたことはありますが、実物を見るのは初めてです」
「……何なのでしょうか、この箒は?」
「ドラゴンの糞です」
メイド長がそう言った途端、サティアは俺を思いっきり地面に投げ捨てた。
そして、汚いものを触ったかのようにメイド服のエプロンで何度も自分の手をぬぐった。
なんというか、悲しいな。
メイド長は、まあ慌てなさんなと諫める。
「ドラゴンの汚穢には、計り知れないご利益があるそうです。しかし、それを装備するには汚穢自身に選ばれなければなりません。そのため、市場に売り出されることのない、貴重なアイテムです」
「選ばれた者…もしかして、私がそうなのですか?」
メイド長は頷いた。
「言い伝えでは、この汚穢は意思を持っていて、不幸な者に手を差し伸べるそうですよ?」
「……私って、不幸ですか?」
「……」
メイド長は言葉を詰まらせた。
それからメイド長は次の仕事を少女に与え、自分の仕事に戻っていった。俺に対する驚きにかまけている余裕はなく、あくまで仕事が最優先ということらしい。女中という仕事も、なかなかに社畜だ。
次にサティアが向かったのは、洗濯だ。
どうやらこの世界の技術力は中世並みで、洗濯機というものはないらしい。サティアは桶にたらふく衣服を詰め、ポンプで水を流し入れた。どうやらこの館はメイドの数が主の数を大きく上回るようで、衣服のほとんどはメイド服だった。
洗濯機がなければ洗濯板でも使うのかと日本人の俺は考えたが、どうやらここでは桶に入れた衣服を踏みつけることで洗うらしい。
サティアは靴を脱いで、メイド服の裾をたくし上げ、水がなみなみと入った桶に裸足をつけた。
「ひゃっ」
冬の時期だ。冷たい水は身体にかなり堪えるだろう。サティアの両の足は、水の冷たさに既に青じみはじめている。全身をぶるぶると震わせながら、サティアはゆっくりと足を動かした。寒さで作業も非効率になっているようだ。
(何とかしてあげたい…!)
そう思った瞬間だった。
再び俺は輝きだし、体の芯から熱を放った。桶の上のサティアに向けて、少し離れたところから熱を送った。すると、サティアの青白くなっていた顔に生気が戻り、足踏みの速度も上がる。
さらに、サティアの身軽な体躯では、衣服がきれいになるのに時間がかかると考えた俺は、サティアの踏みつける力にブーストをかけた。一踏み一踏みに力がこもり、少女とは思えない勢いで洗濯していく。
サティアは驚愕の目で俺を見た。
「あなたの名前を決めなきゃね」
どうやら俺の、本当にサティアを助けようとしている気持ちが伝わったのだろう。洗濯が終わるとサティアは、俺にそう言った。
「そうねえ。金色で、箒で、空から降ってきて……」
サティアはまださらに、俺を形容する何かを言いたげに口をもぐもぐしているが、う○こという言葉を口にするのは恥ずかしいのだろう。口をつぐんた。
「決めた!君はこれから、箒のウンちゃん!」
おいおいおい。まさか、自らが口をつぐんだ単語が由来の名前になるとは。しかも、ウンちゃんの“ゃん”を抜いたらもう、それだ。
加えて、ウンちゃんって一昔前の、運転手パシリの呼び名だったように思う。確かに前の世界でもパシリみたいなものだったが、この世界でも、また尻に敷かれるというのだろうか。
それからサティアは、厨房で洗い物の手伝いをした。
う〇こを厨房にもっていくのはさすがに倫理に反すると感じたのだろう、サティアは俺を厨房の出入り口の前に立てかけた。厨房から出てきた時、サティアは寒さの中水回りの仕事をこなしたために、手を真っ赤にしていた。俺はサティアに握られると、すぐさま熱を発して温めた。
その後サティアは、物置の片付けや洗濯物の取り込みなど雑多な仕事をこなしていった。サティアはまだ見習いなので、いずれもご主人様なる人物と直接関わる業務はなかった。
一日の仕事を終え、サティアは夕食を食べに食堂へ行った。食事の席にう○こは連れて行けないと判断したのだろう、俺はサティアの個室で待機させられた。
サティアの個室は、必要最低限の物だけが置いてある、簡素な部屋だった。年頃の女の子の部屋だから、かわいいものだらけでプリチーな空間を想像していたので少し拍子抜けした。ベッドと替えのメイド服がかかるクローゼット、木製の簡素な化粧台。まさに使用人の部屋、という感じがした。
◇ ◇ ◇
夕食が終わるとサティアは、メイド長に呼び出されたと言い、俺を屋敷の一角にある小部屋へ運んだ。
その部屋にはメイド長と、中年男性がいた。
「紹介します。この街で商人をしている、ニック・ホルファンさんです」
「ここにドラゴンの汚穢があると聞いて飛んできた。この世でお宝と呼ばれるものは大抵扱ってきたつもりだが、さすがに百年に一度といわれるこのお宝は初めてだ。ぜひ鑑定させてくれ」
紹介された男は両目用のルーペを額に乗せ、いかにも旅人ですと言わんばかりのマントを身に付けていた。手には宝石類をジャラジャラと身に付け、腹にはでっぷりと肉を蓄えていた。白い髭を生やし、サティアに会釈してニヤリと笑うと金歯が光った。
「ちょっとその箒、見せてくれないか?」
ニックはサティアに手を伸ばした。しかしサティアは俺を渡そうとはせず、俺を匿うように抱き締めた。
「おいおい、心配すんな嬢ちゃん。そのアイテムは、お前さんしか使えないんだから、盗ったりせんよ。ちょっとどんなスキルを持ってるか、見してもらうだけさ」
確かメイド長も言っていた。ドラゴンの汚穢は、選ばれた者のみを助けると。その事を思い出したのだろう、サティアはおずおずと俺をニックに預けた。
ニックは額にかかった金色のルーペを目の位置までずらし、どれどれ、と値踏みするように俺を見つめた。
ニックに掴まれて分かったのだが、サティアに掴まれる時は手の形に合わせて沈み込み、フィットすることが出来たがニックが持っても沈み込めない。本当にサティアにしか能力を使うことが出来ないようだ。
「うむ。金属とも、木材とも、石材とも違う。これまでに見た事がない素材だ。……いや、見たことならあるな」
ニックはニヤリと笑みを浮かべ、ルーペを一撫でした。
しばらくして俺のスキルが判明したのだろう。ニックはひと言、なるほどと呟いた。
「このアイテムのスキルが分かったぞ」
以下、判明したスキルを列挙する。
【空中浮遊】
【攻撃力上昇】
【器用さ上昇】
【防御力上昇】
【敏捷性上昇】
【風属性付与】
【HP回復】
【状態異常回復】
【熱放射】
【形状変化】
「うん。この上なくハンパねぇぞこいつは。恐ろしく性能がいい。さすがは数百年に一度のレアアイテムだ」
ニックは言った。お褒めに預かり、光栄だ。
「売りに出せたら、君は億万長者なんだがな」
「絶対売ったりしないわ。この箒は、ウンちゃんは私の友達なの!」
おお。嬉しいこと言ってくれるじゃないか。
「はっはっは!冗談さお嬢ちゃん。そもそもそのアイテムはお嬢ちゃんを選んでるんだから、売りに出しても誰も買わないんだよ」
そういうとニックは、サティアの頭を軽くポンポンと叩いた。
サティアはからかわれたのが気に食わなかったのだろう、むぅと頬を膨らませた。
それからサティアは、いいモン見せてもらった、お代はいらねえよと捨て台詞を吐いて屋敷を去っていった。
◇ ◇ ◇
一日のやるべき事を全て終え、サティアは床についた。
俺はベッドの近くの床に横たえられたが、人体ではないので身体が痛むということは起こらない。
俺はベッドの下から【熱放射】を使って、サティアが眠る布団を温めた。
それにしても、本当に長い一日だった。サティアは、一日中休む間もなく働かされた。毎日これを繰り返しているのかと考えると、明らかに法外な労働時間になるはずだ。それを、こんなに若い時分からさせられるとは。この娘を救うことができて良かったと、切に思った。
俺はこの世界に降って来た時、ここが夢の中だと考えていた。どこかのタイミングで目が覚めるのではないか、と楽観視していた。しかし一日がもうすぐ終わるという場面まで来てしまったが、まだまだ目覚める気配はない。明日になっても、恐らく関西在住専業主夫26歳ではなく、引き続き箒のウンちゃんとして目が覚める気がしてならなかった。
そしてその予想は的中した。
次の日も、その次の日も、サティアの部屋の天井を見て目覚めることとなった。
どうやら前の世界に戻ることはないらしい。そう思うと、俺は安堵した。嫁の尻に敷かれる生活から逃れられたと考えると、心が軽くなった。
恐らく、酔っぱらって意識を失った日、俺は寝ゲロによる窒息か、急性アルコール中毒で死んだのだろう。意識が薄れる中で聞こえた"転生"という単語から察するに、ここは来世だ。第二の人生ってやつは老後にやってくると思っていたが、まさかこんなに早く訪れるとは。