1 スキルなしのエルメス
よろしくお願いします。
初めての日常系ファンタジーとなります。
小さな集合住宅の狭い一室で青年は、地獄のように深い溜め息をついた。
「……また落ちたよ……」
呟く彼は、黒髪黒目という配色すらも含めた、はごく平均的な顔立ちの、20歳前後の青年であった。しかし暗い雰囲気は、中年の人生に疲れた男を思わせる。
名前はエルメス。自称魔法使い。職業は……無職であった。
この国では日雇いの人間は、無職とされる。冒険者を名乗れるのも、ランクが4になってからだ。それ以下だと職業詐称にあたる。
「やっぱあれか? スキルがないのがいかんのか? スキルなんて持ってなくても、ちゃんと魔術は使えるし、実務経験もあるのに。せめて試験を受けさせてくれれば……せめて実地で魔術を使わせてくれる面接まで進めば……」
自らを励まそうと呟くが、しかし現実は非情である。
自称魔法使いのネメシス。彼は世にも珍しい、スキルを一つも持たない人間であった。
エルメスは祝福されて生まれてきた。
誇張ではない。生まれた時に既に『エルクレントの寵愛』というギフトを持っていたのだ。
ギフトとはスキルに似たものであるが、実際は全く違うものである。
スキルは各個の人間が研鑽し、学習することによって神から与えられるもので、その人物がどういった経験をしてきて、どういった能力を持つのか保証するものである。
それに対してギフトは、その人間の才能自体を顕していると言われる。実際に剣の神や炎の神の祝福を持って生まれてきた者は、それに属するスキルを得やすいという統計があった。
スキルは結果。ギフトは潜在能力とでも言うべきだろう。
エルクレントというのは、魔法を司る大神である。
そもそもこの世界を神々が創造するにあたって、最も多くの知恵を出した神であるとも言われる。
五大神とは区別されるが、その名は決して下に見られるものではない。事実神殿においては五大神と並んで祀られるし、学問の神としてはあらゆる教育機関で最高の神として信仰されている。
そんなエルクレントの加護を受けた人間は、これまでにも何名もいた。そして歴史に名を残してきた。
だがエルメスのギフトは、加護よりもさらに上位と言われる祝福、それよりさらに上の寵愛である。まさに知恵と魔法の神に愛された子というわけである。歴史を探ってみても、確実に寵愛されていたと確認できる者は、一人もいないほどのものである。
それなのに彼は、魔法に関連したものはおろか、エルクレントの権能である知力が関連すると思われるスキルまで、全く、何一つ、持っていなかった。習得できなかったのである。
子供の頃は良かった。
エルメスは確かに頭が良く、小さな街の靴職人であった父は、出来るだけの教育を彼に受けさせてくれた。
エルメスもそれに応えた。街にあった幼年教育機関では抜群の成績を誇り、平民としては異例の特待生となって、少し大きな街の高等教育機関にまで無償で進学したのである。
さらにそこでも優秀な成績を修め、最高教育機関にも無償で進学できた。様々な知識に精通し、特に魔法の授業においては、理論も実習も最高の成績を修めていたのだ。
それにも関わらず、ケチがつきはじめたのはこの頃からである。
エルメスはスキルを習得できなかった。
最初は周囲も何かの間違いかと思ったのだが、彼がスキルを持っていないのは間違いではなかった。
エルクレントの寵愛を受けた人間が、なぜスキルを習得できないのか。その理由に確たるものはなかったが、それまでの歴史において、加護や祝福を受けた人間が、それに関するスキルを得られなかった場合もなくはない。
平和な時代の平和な国で、剣の神に祝福されながらも、本人が料理人を志望し、剣の才能であるスキルを与えられなかった例がある。つまりスキルとは、本人の意欲と経験が元になるのだ。
そこから逆に考えると、エルメスは本人が研鑽を怠り、スキルを得るに充分な経験もしていないということになる。あるいは……生まれた時はともかく、今はもう神から見放されているのでは?
見る者が見れば、そんなことはありえないと分かるだろうに。
エルクレントの寵愛を受けた人間が、歴史に名を残していないというのも、彼には不利に働いた。
前例がないので、原因の探りようもなかったのである。
神から加護や祝福を受けた人間は、それに相応しい行いをすべきである。それが世界のほぼ普遍的と言っていい価値観だ。
よってスキルを持たないエルメスは、神に選ばれていながら努力も熱意も足りない人間だ、という理屈になる。あるいは信心が足りないか。これなら確かにそうなのだが。
それでも学生である時代は、彼は明らかに優秀であったので、どうにか社会生活を送ることに支障はなかった。
だが、いざ社会に出るとなると、これが問題になった。
スキルとは、神がその人間の能力を保証したものである。例外はないと言われている。
宗教的権威を背景に、統計を取られて証明されているので、確かにそう考えても間違いないのだろう。
エルメスは大志を抱いていたが、スキルを持たないという厳然たる事実は、彼の志望する進路への障壁となった。
研究機関や王立の各部署、あるいは宮廷魔術士としても、スキルの保有が選考書類提出の前提条件となっていたからだ。
たとえ学生であっても、最高学府を出た者であるならば、その専門のスキルレベルの幾つかは5に達していてもおかしくはない。
だがエルメスがどれだけの知識を持ち、高度な魔術を使おうとも、この世界においては神々の保証であるスキルがないのは、人間としては失格とは言われないまでも異質であるのだ。
彼の進みたいと思っていた王立の研究機関では、最低限求められるスキルレベルが決められていて、そもそも選考の基準すら満たしていなかった。
これまでの人生で歩んできた道の先にある職は、全てスキルが求められていた。
結局エルメスはその希望を全て絶たれ、今この状況にあるのである。
それでもエルメスが優秀であり、人格にも問題がないことを知っていた教授の推薦で、ある商会に勤めることは出来た。
彼の本領である魔術とは全く関係のない職ではあるが、背に腹は変えられない。食べていくだけでも金はかかる。学費は無償であったとしても、生活のために借りた奨学金は返済の義務があり、それを親に被せてしまうことなど出来なかった。
商会の仕事は激務であったが、それなりの収入は保証された。エルメスは不本意ながらも、その頭脳を経理や法律などの面で活かすことが出来た。
しかし彼がスキルを持たないという事実は自然と広まり、当然のように彼を見る目は冷たいものになっていった。
そして商会が経営難で倒産した時、彼には行く先がなくなっていた。
後ろ盾となっていてくれていた教授も亡くなり、明らかにエルメスよりも劣るがスキルを持つ者の嫉妬によって、エルメスの評判は悪い意味で有名になっていた。
最大の能力証明であるスキルも持たず、またそれによって伝手も出来なかった彼には、転職先がなかった。
今回もとある商会を幾つか訪れてみたが、全く連絡がないというのはそういうことなのだろう。
普通なら死にたくなるような回想を振り切り、エルメスはベッドから立ち上がる。
己の不遇を自覚しながらも、彼は自殺への願望を振り切る。世界は彼にとって厳しいが、まだ求めるものが彼にはあるのだ。卑俗な現実としては、借金も返していかなければいけない。
それに何より、彼には希望があった。この世界をおかしいと断ずる知識があった。
彼は前世の記憶を持つ転生者だったのだ。
そして前世においては、スキルなどというものは存在しなかった。
父親はエルメスの在学中に他界しており、そのささやかな財産は継母と連れ子のものとなっていた。彼女達も生きていかなければいけないので、どうせ借金として取られるぐらいならと、エルメスは法律を駆使して全財産を継母たちに残した。
法律上はこれで、彼が自殺しても借金の取立てが親に行くことはない。そもそも死ぬつもりもないのだが、事故死する可能性はある。
ある意味天才である彼は、スキルのない仮説を立てている。その仮説が確かなら、スキルを得られないこと全ての説明がつく。それが絶望に抵抗する力となる。
そもそもスキルなどが存在していること自体が不自然だと感じるのは、転生者であることを考慮しても、神の存在を身近に感じない彼だけであろう。
それはともあれ。
「腹減ったな……」
喫緊の問題として、空腹を満たさないといけない。
エルメスは魔術士の証である杖を持つと、無数の書付以外にはほとんど何もない部屋から出た。
エルメスの住む街は、王都には及ばないが街としてはかなりの規模である。下手な都市国家よりは、この都市周辺の方がよほど繁栄している。
人口で言うなら国内では五指に入る。出身地の街からもそれほど離れてはいないが、エルメスには故郷に帰るという選択肢はない。
あれだけ期待されて王都の教育機関に入った彼としては、すごすごと帰るのは最後に残った矜持が許さない。それを別にしても、帰っても意味がないのだ。既に実の両親がいないということ以外にも。
地元であれば親戚の伝手を伝って職に就くことも出来ると思われるかもしれないが、そもそも彼の親類は職人が多い。早くに亡くなったほうの母親の親戚とは疎遠である。
スキル獲得のために様々な余技にも手を染めていたエルメスであるが、さすがに本業の靴職人として働くほどではない。様々な知識は役立つかもしれないが、それは活かせる場所を得てからのことだ。
そもそも職人はもっと若い頃から技を仕込まれるので、今更成人したエルメスが目指すには、既に遅いとも言える。出来なくもないのだろうが、彼の志望とは違う。
何より、それに関するスキルを持っていないエルメスを雇うようなところは、前職の商会のように、どうしようもないところであろう。
就職した商会の支社があるこの街から離れられないのは、そういう理由もあるが、とりあえずこの街であれば、なんとか食べて借金を返していくだけのことは出来るのだ。
エルメスは心持猫背になって、通いなれた道を進む。
目的地は神殿であり、彼にとってはごくわずかな、好意を寄せてくれる人たちがいる場所である。
「あ、こんにちわエルメスさん、丁度良かった!」
見習い神官のターニャが、裏表のない笑顔で挨拶してくる。ほとんどの人間に対し人間不信気味のエルメスであるが、彼女はその例外の一人である。
「急患かな?」
「はい、作業中に高いところから落ちた大工の方がいるんです! 緊急です!」
「分かった。診るよ」
ターニャを入り口の受付に残し、勝手知ったるエルメスは奥へと進む。
この街において最も大きな医療機関は、神殿である。神々の恩恵である治癒魔法により聖職者は傷を癒し、その対価として喜捨を求める場合が多い。
魔法を使う医者も存在するが、庶民が利用するのはまず神殿である。効果の割に神殿に収める対価は、比較的安いのだ。
ちょっとした怪我でも、直後の処置が誤っていれば、病原菌によってひどいことになることが多いと、エルメスは知識として知っている。
難しいことは知らない庶民であっても、少しでも懐具合に余裕があれば、神殿に来ることは珍しくない。
これが医者だと、対価が高いので、富裕層が中心となるのであるが。
だがこの日の患者は、そんな簡単なものではなかった。
高所から落ちた青年男性は、右手を肩から複雑骨折。また腹腔内部に明らかな損傷を負っていた。
神官たちはまず、骨まで見えている右手より、おそらくは重傷であろう腹の方を優先している。
「代わります」
「あ、エルメス」
見知った神官に場所を替わってもらい、エルメスは治療にかかる。
治癒魔術はその性質上、神官たちの多くが身につけているものである。
だが彼らの知識には、いわゆる科学的知見が欠けている場合が多い。人間の肉体の構造なども学んできたエルメスとは逆に、彼らが人間の肉体を切り裂いたりすることは、基本的にない。
エルメスは透視の魔法を器用に使い、神官たちよりもずっと確かに怪我の具合を判断する。
(ひどいな。肝臓が破裂している上に、肋骨が肺に刺さっている。頭部は無事だけど、首の骨が少しいかれてる。よく今までもったな)
心臓が無事だったのが、不幸中の幸いである。エルメスは痛みに呻く患者に対して、まずは麻痺の魔術を使った。
深い眠りに入ったのを確認して、エルメスは治癒魔法を使っていく。まずは肝臓と、太い血管をつながなければいけない。
「出来るだけ綺麗で、よく切れるナイフを」
内出血の痕を見ながら、渡されたナイフを消毒し洗浄していく。ついでに切れ味を増すための魔術もかける。
「血がたくさん出るから、それを拭って」
慣れた手つきで腹部を切ると、そこから溜まった血が出てくる。
助手の神官たちが布でそれを吸い取っていくと、鮮やかな内蔵が見えてきた。先に治癒魔法をかけておいたので、それ以上の出血はない。
肋骨を元に戻すと、エルメスはさらにそれも治癒させる。大小さまざまな怪我はあるが、大きなところはこれで大丈夫だろう。そして切った皮膚も癒していく。
わずか数分で瀕死の重傷者は、腕を骨折した以外は問題のない状態にまで癒されていた。
残った腕の部分は、とりあえず真っ直ぐに直して、皮膚までは治癒させた状態で、添木で応急手当をしておく。
「かなり血を失って消耗してるから、何日かは腕は骨折したままで。食欲があって物が食べられるようなら、三日ぐらいかけてで腕を治せばいいと思うよ」
回復の魔術が使える人間は少ない。肉体を活性化させて治癒させることは簡単でも、物理的に失われた血や栄養素を補給するのは、やはり食事が一番である。それに回復魔術まで使えるエルメスであるが、さすがにそこまでやってしまうと、神殿や医者とのパワーバランスが崩れる。
エルメスの言葉に、神官たちがほっとした顔をする。その中に明らかに、神殿とは無関係と見える壮年の男がいた。
「すげえなあ、兄ちゃん。見たところ神官じゃないみたいだけど、医者なのかね?」
「いえ、医学は修めていますが、医者の資格は持っていません」
医者となるにも、スキルは必要である。
免許を取るための前提として、スキルが必要なのだ。王国において闇医者は犯罪者である。だからこれは医療行為ではない。神殿での奉仕だ。よって給料も発生しない!
神殿での治療は、あくまでも無償の奉仕行為であるのだ。事実上は喜捨という対価があると言っても、医者にかかるよりは安い。懐に入る金もない。
「正直、ダメかと思ったが、よくやってくれたよ。預かった友人に、面目が立たないところだった」
壮年の男は大工の棟梁であるという。知人の息子である見習いに付き添ってここまで来たのだが、ほとんど諦めていたらしい。
確かに神殿の神官の治癒魔法では、この大怪我には対処できなかっただろう。外科的な手段を持つ医者でも、おそらくは無理であった。
この街で青年を救うことが出来たのは、間違いなくエルメスだけであった。
エルメスを称える棟梁に、それを微笑ましそうに見つめる周囲の人々。
それに対してエルメスはわずかながらも頬を赤らめ、久しぶりに感じる称賛の言葉に気分が上向くのを感じていた。
だが、本来の目的はそれではない。
「あの、昼ごはんを恵んでもらえると、助かるんだけど」
棟梁の言葉が一通り終わるのを待ってから、エルメスはそう言った。
略して「転スキ」。転スラやとんスキと略称が似てるのは偶然です。