49 旅!
彼はひたすらに流れていく。
その時間は、何時間であっても、何十億光年であっても、そんなことはどうでもよく、どうでもありえた。
そして彼は、途方もなく自由のまま、涙の中から、宇宙のすみずみにまで拡散し、あらゆるものに同化して共鳴し、そして、すべての物質と意識になった。
彼は、あらゆる時間と空間を行ったり来たりし、物質を構成し、またそれを否定し、もとにもどったり壊れたりして、彼は彼でなくなり、また彼になり、なり続けたり、続けなかったり・・・・
したがって、彼は地球の海にも戻ってきた。そして、あの「自分」の中に、また、戻ってきたり、別の人や、生き物や、岩や、光や、風になったりした。
たとえば、彼は、殺された男の死体だった。死体は長い時間をかけて、海に沈んでいった。長い時間をかけて腐敗し、散り散りになって、闇の海に輝く燐になり、ゆっくり、ゆっくりと、海底に降りてゆく。
この海は、いったいどこまで続くのか。
同時に、海の底にいるナマコの彼が、降り注ぐ海の雪を見上げている。
「あの雪も、かつては、自分の体の一部だったんだ」
ナマコの彼は、そう思いながら降りしきる海の雪を見上げる。
「そうなのよ。あの、海に降り注ぐ雪は、昔、生きていた、あなたや、私の、希望とか情熱とか、涙とか、汗とか、友情とか、愛情とか、一杯、あるけど、ずっと昔の、そういうものだったの」
と、声がする。ナマコの彼は、声の主をさがした。どこからか、聞えてくる。女性の声。
それは山香千賀子さんの声ではなく、かつての「自分」を海底ドライブにつれていった、運転席の彼女の声にちがいない。
かつての「自分」・・・
思えば、その「自分」は記憶喪失だった。「自分」が何者なのかで、思い悩んだ。しかし、以上のごとく、もと「自分」の彼は、何者でもありえたのだ。
・・・・彼が何者か、なんてことに何の意味があるのか。
自分は人間だったし、人間でない生き物でもあったし、その他の物質や、光や影でもあった。
で、ときには人間だった。少なくとも、ときには人間だった・・・
少なくとも、人間だって?じゃあ、人間は、何者なのだ。何者だか、一体、人間が、そのことを知っているのか。
知らない。知るわけがない。
・・・しかし、昔、いつか、人間だった。人間の記憶をもっていた。いつか、人間になることもあるだろうか。人間になったら、人間にしかできない何かをしてやろうと思う。
ナマコの彼は、マリンスノーの雪の降りしきる海底の空を見上げて、ぼんやりと、そんなことを考えた。
はるか上方の、海面の上には、明るい何かが光っている。
太陽だ。
昔、どこかで、太陽に焼かれ、蒸発させられた。海底のナマコも、深海のマリンスノーも、遠い宇宙のガスや塵も、ありとあらゆる彼が、太陽に焼かれて消えたことを思い出した。
そして、太陽の中にも、実は、彼は存在した。あの、いやな太陽の中にも、だ。いやな太陽に焼き殺されてすぐ、蒸発した彼は、太陽の中にも存在したのだった。
無益な殺生。
それを行なって、彼は、無益な笑い声をあげていた。げらげら、げらげら、笑っていた。笑っていたが、楽しいのでも、嬉しいのでもなかったのだ。ただ、笑うしかなかっただけだ。
虚しさなんて、とっくの昔に通り越していた。
なぜ、山香千賀子を犯したのだ。犯して焼き殺したのだ。太陽自身が、まったくそのことをわかっていない。太陽の中の「彼」は、そのことを知った。
そして、それではいけない、と思った。しかし、いけないことを、どうかして、直すことができるか?この、「彼」に。
無理だ。彼なんかに、何もできるわけがない。できない。無力感、疎外感。
あらゆる世界の彼という彼が、苦悩する。彼はすべてを包み込み、すべてから疎外される。そして・・・・
「助けてください!」
誰かが、やっぱり、呼んでいる。助けを、求めている。
助けを求めているのは、山香さんだろうか?
違うかもしれない。しかし、助けを求めている。助けを求めているのだ。
誰かが呼んでいる。どうしてだかわからないのだ。まったくわからないのだ。しかし聞えるのだ。呼んでいる。呼んでいる。呼んでいる。
そのことに、全宇宙、全空間、そして、全時間と全物質の中にいた彼という彼が、気づいた。誰かが助けを求めているのだ、やっぱり・・・
・・・・・・・つづく




