3 失われてしまったこと
その声は、しゃがれた、薄汚いバスだった。
いきなり、重苦しいムードの声を出すじゃないか。そんな声は良くない。
だからわからないのだ。もっと軽い声で聞いてみな。
「あたし、誰なの?」
しなを作り、可愛らしくたずねてみたが、わからなかった。
自分は誰なのだ?
自分が誰かなんて、そんなことがわからないわけがないのだ。
ほら、あの会社だ、あの会社に、10年前に入って、今は、係長じゃなかったか。
いや、そうじゃなかったか。あの大学を出て、それから入ったんだ、あの会社に。
あそこの町の出身だったじゃないか。あの…。
ひとつも固有名詞が出てこない。
焦った。
なぜ、こうなのだろう。
こんな何処だかわからない海の真ん中で目覚めてしまったショックが大きくて、一時的にわからないだけなのだ、きっと。
そう自分を慰めて、両膝を抱えて、うずくまった。
再び、目を閉じた。波の音がする。そうやって、しばらくじっとしていた。
頃合いを見計らって、くわっと目を開き、「私は!」と言い、一気に自分の名前を思い出そうとした。
しかし、だめだった。私は、私です。それしか、答えが出てこなかった。
「そんな馬鹿なことがあるもんか」
自分は不平を鳴らした。自分の名前が出てこないなんて、ひどい話じゃないか。
しかし、そう言ってみたところで、名前は出てこないのだった。参った。
「参ったぞい!」
やや捨て鉢になって、自分は立ち上がりながら怒鳴った。
怒鳴っても、自分の名前は出てこなかったわけだが。
…本当に、自分は会社員だったのだろうか?
そんな考えが頭をもたげた。
ひょっとすると、自分は海の男で、この海が自分の棲家だったのじゃないか。
大きな貨物船の船員で、貨物を盗んでダルマ船に乗せて逃げ出したのだ。
きっと会社をリストラされて、自暴自棄になって、そんな海の生活を始めたのだ。
そんなことなんではないの?
自分で自分にきいてみた。しかし、あまりに唐突かつ大雑把な問いかけで、答える気にもなれないのだった。
違うな…。
自分の記憶は何処へ行ったのだ。
また甲板の上を見渡した。見覚えのあるものは、何かないか?
しかし、思い出につながるものは、何もない。
掌をひろげて、のぞきこんだ。自分の手。見覚えがあるか?
そう詰問すると、自信がなくなってくる。自分の手。しかし、これは紛れもなく、自分の手じゃないか。
それに間違いはなかろうて。で、この手で、何をやった?思い出は、ないか?
…だめだ。何も思いつかなかった。
自分で自分の腕や、腹や、足を見た。パジャマをたくしあげて、臍を見たりした。
少し中年太りじゃないか。格好悪いな。でも、これ、全部、あんたの体じゃないの。見覚え、ない?
自分の顔が見たかったが、鏡がない。
船べりに行って、海面に映る自分を見たが、波が動いて顔を判明できなかった。
不気味に崩れる顔の輪郭が、揺れ動いているだけだった。
寝床のシーツの上に戻って、べったりと座り込んだ。大きく深呼吸して、気持ちを整えた。
あまり性急に記憶を呼ぼうとするのは、間違いだ。焦って思い悩み、かえって記憶を遠ざけてしまうかもしれないではないか。
べったり座り込んで、しかし、良い考えが浮ぶわけでもなかった。また暫くぼうっとした。
…顔を洗ったり、歯を磨いたりをするはずだったのに、ここでは、それもかなわないのか。
いや、それより、朝ご飯…。食べられない。この船には、食べ物があるのか。
なけりゃあ、遭難、餓死じゃあないか。記憶よりも、そっちが大切だ。
食糧。いや、その前に、水。水はどうするんだ!
船底を覗いてみなくてはいけない。何かあるんだろう。
自分はこの船に、どのくらいの時間、いたのかわからないが、こうして生きているということは、生命を維持するためのものはあるんじゃないか。
しかし、まだ、あの船底への扉を開ける気にならなかった。あの扉に、何か嫌な思い出があるのだろうか。
扉。扉を見た。…扉の横に、ボールのようなものが落ちていた。
あれは、目覚し時計だ。
さっき、自分を、眠りの底から、この海の真ん中の世界に呼び覚ました、目覚し時計だ。
あいつが、自分を、知らない記憶の国へと目覚めさせたのだ。
立ち上がって、その目覚し時計の方へと歩いた。しゃがみこんで、時計をのぞいた。そうして、びっくりした。
何だこれは。冷や汗が出てきた。
…それは時計ではなかった。そうだ、こんなものを買った覚えはない、という、さっき夢の中で考えたことは正しい記憶だったのだ。
恐る恐る手を伸ばして、その丸いものをつついた。
量感のある音がしたように思う。ごろり、と丸いものが転がった。
そして、こちらに両目が向いた。黒い洞窟みたいな二つの眼窩。
時計だと思っていたのに、それは人間の頭蓋骨だった。
頭蓋骨が自分を目覚めさせたのだということが、そのとき、はじめて、わかった。
自分は、恐怖を感じたその次に、呆れた気持ちになった。そうして、口を小さく丸く開いて、溜息をついたのだった。
…とほほ。
・・・・つづく