2 ここはいったいどこ?そして私は?
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ばね仕掛けの人形みたいに、上体を起こした。
あたりを見まわした。紺碧の大海原が、周りにひろがっていた。
波の音も、静かに聞こえた。潮騒だよ、これは。
出勤の朝のつもりだったのに、今日は、海水浴の日だったのか…
しかし、そこは、砂浜ではなかった。
海の真ん中なのだ。自分は、自分の部屋に寝ていたのではなかったのだ。
恐る恐る、自分の寝ている場所を見つめなおした。
そこは、船の上だった。
波穏やかな海に浮ぶ船の甲板らしかった。
船。
これは、どんな船だろう。
注意深く見まわした。そう大きなものではない。
海面はすぐ近くに見える。しかし、筏とか救命ボートとかのサイズでもない。
長さは10メートル近く、幅も何メートルかはある。帆柱も何もないから、ヨットとも違う。漁船とも思えない。
何だか形容しがたいが。単純な形らしく思える。ノアの箱船?まさか…・。
…自分はその変に単純な形の船の甲板の上に、粗末なタオルケットをまとって寝ていた。
麻の布でできた黄土色のパジャマみたいな服を着ていた。
ひょっとしたら、囚人服かもしれない。
いや、こういう服は、ひょっとしたら、24時間営業のサウナで配給する代物かもしれない。
とにかく、ふざけた服だ。
自分の寝ていた甲板は、船の数分の1の広さしかない。残りのスペースは平らで、重たそうな濃緑色の布で覆われていた。
…どこかで、見た形だ。単純な、単なる、「船」としか形容しようのない「船」。
これは、港の運河に浮かんでいる、貨物運搬に使われる「ダルマ船」じゃないか。
たしか、荷物を運ぶ入れ物だけど、自分では動力をもってないから、ダルマ船と呼ばれるんだったな。
そういえば、最近は、中国その他の人々が密入国するときに、使用され、テレビにも登場したのではなかったっけ。
こんな服を着て、こんな大きな海の上に、こんな船に乗って寝ていただなんて、どう考えてもおかしい。
こういう場合、多くの人が恐らくするであろうように、自分は、自分で自分の顔をつねってみた。
痛かった。しかし目の前の風景は変わらなかった。
「…」
自分は考え始めた。ここはどこ?
空を見上げた。あたりを再び見渡した。
海と空しかない。島も大陸も、見えやしない。
…しかし、素晴らしい晴天だな。こんな気持ちいい天気を、こんな海の真ん中で迎えたなんて、全く初めての経験だ。少し感動した。
太陽も、空の青も、かっきりと、明瞭な色彩だった。
その太陽は、まだかなり低い位置にあった。
きっと、まだ夜明けから時間があまりたっていないのだろう。
だからあまり暑くないのだが、気温は急速に上がりつつあった。
今は夏なんだろうか。そのうちに、耐えられない暑さになってくるんじゃないか。そうしたらどうしよう。
甲板を見直すと、端の方に四角い扉らしいものがある。
あれを開ければ船底に行けそうだ。船底に行けば少しは涼しいだろう。
しかし、船底に何者がいるのかわからない。
船底を覗く気力が、今は出なかった。
一体、この船には何者がいるのだ?この船は誰の船なのだ…
そして再び思った。一体、ここは、どこだ?どこの海なのだ。
会社へ行かなくてよいのか。
せっかく、目覚し時計で嫌々起こされた甲斐がないではないか。
いやなあの仕事も、いやなこの仕事も、やらなくてはならないのだ。
しかし、この海の真ん中では、バスも走っていない。電車にも乗れないではないか。どうしたもんか。
…そうだ、会社に電話するはずだったではないか。
体が調子悪いから、今日は年休下さいと、そう電話するはずだったのだ。電話はどこだ。電話…
この大海の中にいて、今更、会社に電話することを思いつめていた自分は、確かに愚か者である。
しかし、そのとき、自分は、あることから逃れるために、そんなことを考えていたのだ。
あることを考えるのから逃れるために、必死でそんなことに思いをめぐらせていたのだ。
そのことを考えるのは、恐ろしいことだった。それで、会社に電話しなければ、ということだったのだ。
会社に電話しなければ。
…で、どこの会社だ?
心の中にいる誰かが、自分に語りかけた。
自分はその声に、耳を塞ぎたかった。どこの会社だって?決まってるじゃないか、私が勤めている、あの会社だよ!
…で、それは、何という会社なのだ、その、「あの会社」というのは?
自分は、じっさい、両手で耳を塞いでしまった。
続いてすぐに聞こえてくるであろう問いかけに答える準備が、まだできていなかったのだ。
しかし、すぐに観念した。
仕方ない。心の中から聞かれる前に、自分で聞いてみた。
つい、本当に、声に出してしまった。
「私は誰?」
・・・・・つづく