13 これがほんとのディズニー・シー?
彫像になった自分は、しかし気をとりなおした。
奇怪ではあるが、きっとこれは、ある種の自然現象である。
夜光虫の大群が、魚などにまとわりついて、こういう光景を演じているだけなのだ。これも、何かの本で読んだことがあるではないか。
しかし困ったことに、どうもそれだけでは説明できなくなってきた。
光の生物たちの後ろから、とてつもなく巨大な、堂々とした、帆船が姿を現わし始めたのだ。
西洋の大航海時代に活躍したような船。しかし帆はボロボロに破れて揺れていて、難破船としか思えない。
「幽霊船?」
ぽつりとつぶやいた。信じられない。幽霊船まで登場とは。この船が、パレードの目玉なのだろうか。
自分が、さらに驚いたのは、ここで音楽まで聞こえ始めたことだった。
「なんてことだ!」
はじめは、てっきり、この海の不気味パレードに似合った、一見魅惑的で、その実は身の毛もよだつ恐怖音楽かと思ったのだ。
しかし、その音楽は、一見いやに楽しそうで、その実あくまで楽しい、オバカ音楽と言っても過言ではないようなミュージックであったのだ。
「まるで、ディズニーランドではないか!!」
夜の光のパレード。毎晩、ディズニーランドでやってる奴。あれみたいだった。ここらへんの海では、毎晩、こういうパレードをやっているのだろうか。どこから、こんな音楽が聞こえてくるのだ。
こちらの疑問を無視して、幽霊船をメインにしたそのパレードは、いよいよ賑やかに、光の海の上をすべっていくのだった。
音楽はますます派手になり、光たちは美しく輝きを増した。虜になってしまいそうな、夜の海の光たちの行進。
そして、自分は耳をふさいだ。目を閉じた。しかし、耳をふさいでも、音楽は頭の中のほうから鳴り響き、目を閉じても、瞼の裏側から光の行進が現われた。
観念して、また目と耳を開き、すると相変わらず、いよいよ派手にパレードが続いた。
見渡す限りの巨大な海のステージの上を、大きな円弧を描きながら、そのパレードは永遠に続くかに思われた。
自分は、それらの光たちに照らされて、なすすべもなく、ただただ茫然と、立ちつくしていた。
・・・・・・・・・
その光のパレードは、本当に、長く続いた。ことによると、一晩中行われていたかもしれない。
情けないに、それがいつまで続いたのか、自分の記憶はあやふやだった。パレードの光の狂乱に幻惑され、鳴り響く音楽で頭の中がからっぽになっていた。
自分はいつか甲板の上に座り込んで、眠ってしまったと思うが、実のところ、本当はどうなったのか、その記憶が定かでなかった。
ちょうど、深酒をした翌朝に、前の晩に起こったことの記憶が全くない、というのに似ていた。
パレードは、人を酔わせて、記憶を麻痺させてしまうらしい。あるいは、自分としては、現実とはとても思えない、派手で不気味なあのパレードを、心の底で、記憶から消してしまいたいと考えているのかもしれない。
我に帰ると、ちゃぶ台の前に座って、またノートを読んでいる自分がいた。
それは、パレードを見た晩の翌日のことなのか、2日後のことなのか、自信がなかった。
部屋の中は薄暗かった。明け方なのか、夕方なのか、ときどきわからなくなったが、正確には夕暮れのことである。
そのノートは、紙の四隅が擦り切れた、ぼろぼろのノートだった。
-8月22日。もう夏も終わりだ。
これまでの記録、我々が出航して、順調に調査をすすめてきた、春から今までのことを記した日誌は、昨日の嵐で、波にさらわれてしまった。
あのノートの後継者として、この日誌に今までのサマリーを、まず書いておく。-
字体は角張っていた。緻密な性格の人間が書いたものに思えた。
―我々は、4月22日にカーメル港から、この星の海洋地形及び海洋生物の探査のために出発した。
およそ30億年にわたるこの星の海洋の歴史を調査し、あわせて各年代の代表的な生物を採集・記録してきたのだ。
大きく分けて7つの海洋について、各々それを行った。駆け足の調査ではあったが、所期の成果をあげえたと考えている。
周知の通り、この星は大部分が海である。にもかかわらず、人間は狭い陸地にのみ生活している。
狭い陸地の、そのまた彼らの生息に適した、ごく狭いエリアにのみ分布している。
そのエリアは、彼ら人間が過去において生息していた海につながる環境であり、せっかく海から独立したのに、また海に回帰しようとしているのか、今なお、海から独立する過程に彼らがとどまっているということなのか、見方は分かれるところであろう。
いずれにせよ、彼ら人間の体は大半が水であり、その成分は海に近い。海を内包して直立歩行しているのが彼らだ。
今彼らが海に潜るとき、酸素装置を装着・使用しているが、もともと海を内包した肉体を持つ彼らが、故郷である海に入るのに、そんな装置を必要とする、というのは滑稽とうか、皮肉というか、ご苦労で気の毒なことと思う。
人間は、まだ自分たちは気づいていないが、海の成分を内包すると同時に、海の記憶を内包して生息している。
酸素装置までつけて、海に入ろうとするのは、潜在的で切実な、海への望郷の念によるものなのだろう。
・・・・・つづく




