鏡 1
その世界には、普段人には見えないモノが存在していた。
それは、『神』と呼ばれた。
別のそれは、『悪魔』と呼ばれた。
そして、『妖魔』と呼ばれる存在もいる。
暗闇の中で、レイはハッと顔を上げた。
“……来た”
車イスに座ったまま、足の上に両手をのせる。
そのまま、何かを包むように膨らみを持たせて手のひらを合わせると、指の隙間から光が漏れてきた。
丸く形作った手のひらの距離が少しずつ離れると、膝の上には丸い水晶が乗っていた。
━━カラン
店のドアに取り付けたカウベルが、来客を告げる。
何もない空間に手を伸ばすと、手前に引いた。
暗闇に、ドアの形の光が入る。
レイは、車イスを店内に進めた。
「いらっしゃいませ」
呆然と、店内を見回していた女性は、声にハッとして一歩、後ずさった。
「あ、あの……。ここは……アンティークショップですか?」
目を丸くして、レイもまた店を見回す。
“なるほど。この人に必要なのは古道具、か……”
彼は、にっこり微笑んで、車イスを客に近づけた。
「いかがですか? 何かお気に入りのお品はございますか?」
水色の瞳に、鮮やかな金の髪、童顔にも見える爽やかな微笑みに、女性はまた一歩足を引いて俯いた。
「い、いえ。あの、ごめんなさい。いつも通っているのに、こんなお店があったことに今気づいたものだから……気になっただけで……」
「そうですか。構いませんよ。ゆっくりご覧になってください」
自分がいたら居づらいだろうと、彼は車イスを回し、店の奥に引っ込んだ。
女性が、店内に並べられている品々をゆっくりと見て回る。
その間、レイは足に乗せている水晶に手をかざした。
“人間関係……”
チラッっと振り返ると、彼女は品物を手にとったり、覗き込んだりしている。
頃合いを見て、レイはまた彼女に近づいた。
「お気に留まるものがございますか?」
ビーズでできたロングネックレスに手を伸ばしていた女性の手が、スッと引っ込んだ。
「そう……ね。どれも高そう……」
「お値段は交渉次第、ですよ。例えば……」
と、レイは入り口付近に動くと、壁にかけてあった鏡を取り、戻ってきた。
「これなどは、お客様にお勧めできるお値段になっております」
「いくらですか?」
レイの、無邪気な微笑みが彼女を見上げる。
「お客様の言い値で結構です」
「そう言われても……」
困惑して、肩にかけているショルダーバックを握りしめた女性にまた微笑みかけて、レイは自分の指を鳴らした。
「お客様に今必要なのはこの鏡のようです。お代は結構。その代わり、僕の思いをこれに込めさせてください」
何をしたというのか。
まったく不審を抱かず頷いたのを確認して、レイは座っている椅子の背もたれに手を差し入れると、小振りのナイフを抜き出した。
女性がじっと見ているなか、レイが自分の手首にナイフを滑らせる。
一筋の傷が走り、鏡の表面に血が滴った。
だが、鏡は赤く染まることなく、すぐに吸い込まれていく。
彼の手首の傷も、一瞬で消えた。
「さあ、どうぞ」
と、差し出された鏡を受け取った途端、女性は我に返ったように辺りを見回した。
「あ……ごめんなさい。この鏡……。私、いつのまに……」
「お買い上げ、ありがとうございます」
「え? ええ……」
覚えがない購入に戸惑っている女性に、レイは付け加えた。
「お客様には、なにかお悩みがおありのように見受けられました。この鏡は、ささやかでも力になるはずです。大切になさってください」
「あ、ありがとう……」
まだどこか納得できない表情だったが、女性は改めて鏡に自分の姿を写して、繰り返した。
「ありがとう。大事にするわ」
包装もしていない鏡を両腕でくるんで、彼女が出ていった。
“さすがに……疲れた……”
たった一人なのに、こんなに力を使うとは思わなかった。
しばらくはその場から動けず、ぼんやりと水晶を見下ろしていたレイは、やがて車イスを回すと、奥に進めた。
だが、隣へのドアを開けたところで、またカウベルが鳴った。
“……?”
もう、客が来るはずがないのに。
入り口には、一人の男が立っていた。
腰の辺りまで伸びた黒髪は、右目を完全に隠している。
見えている切れ長の左目がレイを捉えて、男はずかずかと奥に入ってきた。
「やっと見つけたぞ、レイ」
「……リョウ……」