第八話 侯爵退場
「あれがベルジカの王城」
ルフスリュスは馬車の窓から遠望した。王都トレヴェローヌの中央に鎮座するひときわ美しい建物がそれである。
王城は大きく分けて二つの建物で構成されている。政務や外国からの貴賓を招く歌人の館と王族の住まいと城塞の機能を併せ持つ王の館のことである。この王の館は独立した壁に囲まれており、歌人の館から王の館に向かうためには間に設けられた門を通らなければならない。
「歌人の館に部屋を用意しております」
アントニウスが彼女に告げる。
ルキウス達が血を流した戦場ではただ見守ることしかできなかった、という負い目がルフスリュスにはある。そして、ようやく自分にも戦場が巡ってきたのだと彼女は細い指を握り締めた。この地に彼女の戦場を与えたのは兄である。
彼女の兄――ウェルセック王アルフレッドは、ベルジカに旅立つ妹に会見の機会を与えていた。
「懸命なお前なら理解していると思うが、我が国は今、内憂外患を抱えている」
硬質な声が二人のあいだを響く。アルフレッドがいう内憂とは二つである。
一つは、オズウェルのように王弟派として彼の王位を脅かした貴族のことである。彼らは内乱終結後、表向きは臣服しているように見えるが、腹の中では王族を殺し尽くしたアルフレッドに対する恐れや反感が根強く残っている。
もう一つは、最後に残った王族であるルフスリュスである。アルフレッドに叛意を持つ者が、王殺しの悪名を被らずに事をなそうとする場合、彼に変わる王を別に建てるのが上策である。現王に変わる新王を祭り上げることで反対派を集結させる。そして、事が成れば王殺しの悪名は、新王が引き受けてくれる。その新王になれるのは現在のところただ一人、ルフスリュスだけである。もし、彼女が望まずとも王を名乗れば、ウェルセックは再び二つに割れる。
外患は、他国からの侵略である。島国であるウェルセック王国に手を出そうという国は今のところ見当たらない。しかし、防衛の要である海軍は、オズウェルと共に反旗を翻し霧散している。これが諸外国の知るところになれば海上戦力のないウェルセックを侮り、野心を持つ国が現れるかもしれない。そして、それは海峡を挟んで強大な陸軍を保有するベルジカ王国である可能性が高い。
そのことが分かるルフスリュスは
「存じております」
と、頷いた。
「そこでだ。お前にはベルジカに行って貰う」
「ベルジカですか……」
ベルジカ王国のルートヴィヒ王は二十六歳で王位に登り、今は在位八年である。この王の評価に関して、暗君とも名君とも聞こえてこない。凡庸な王なのだろうというのが、ルフスリュスが推測である。とはいえ、ベルジカは伝統的に貴族の権力が強い。王の直轄領は大貴族とさほど変わらず、政治も大貴族との合議制で行われる。そのため、王命が必ず国策に反映されるわけではない。もし、ルートヴィヒに名君の素質があっても大貴族に反対されれば、その才は発揮されない。
「ベルジカが我が国に対して手を出せないようにするのがお前の使命だ」
「それは友誼を強固なものにせよということでしょうか?」
「方法は問わぬ。厳しい手でも優しい手でも好きな方を差し出せ」
そのようなこと自分で考えよ、とばかりに冷たく突き放す兄に、ルフスリュスはかつての英気と覇気に満ちていた兄はもういないのだと悟った。かつて兄は、その英気と覇気において無二の人物であった。ウェルセックの若獅子、それは彼女が兄にした評価であった。しかし、それは内乱によって崩れ去った。今の兄は誰ひとり信用せず、疑いの眼差しをただ光らせ続けている。
「……分かりました。ご意向に従います」
彼女は感情を殺した声を発し、兄からの命を受けた。
「なお、この使命に期限は設けず、成果が確かになるまで帰国は許さない」
それは事実上の追放であり、帰還命令があるまでベルジカに滞在し続けなければならない彼女の立場は、人質として送られるのに等しかった。
「兄上は……」
そこまで私のことがお嫌いですか。と口に出そうになった。しかし、それを述べれば、兄は「反意あり」、とルフスリュスを処刑するに違いない。自分が死ねば、猜疑の矛先は今以上に家臣に向かう。そうなれば、兄は本当の豺狼に成り下がる。それが分かる彼女には否を唱える事はできなかった。
「……王女殿下、王女殿下。王城に着きました」
物思いにふけっていたせいで馬車が動きを止めたことにも気づかなかった。隣ではハーラルが心配そうな顔を浮かべている。ルフスリュスはぎこちない微笑みを彼に向けると馬車から降りた。
幸いなことに仰々しい歓迎はなかった。それは彼女の心を少し軽くした。彼女らはアントニウスを先頭に謁見の間の近くに用意された控えの間に案内された。そこには初老の男性が彼女の到着を待っていた。
「ようこそ、おいでくださいました。私はオルセオロ侯爵マルクスと申します。道中は愚息たちがご迷惑をおかけしたのではありませんか?」
――これがオルセオロ侯爵マルクス。ルキウスのお父上。
目元が彼に似ているかな、とルフスリュスは思った。次にこの人物がベルジカの外交を司って十五年、大きな戦争を起こさずにきた事実を思いだした。戦争は、外交の一つの手段であり臣下や民の命を賭けにして領土や利権を手にする行為である。しかし、敗北すれば何一つ手に入らず、国の基礎である人や領土を失う。そう、ならぬためには戦争以外の手段で他国を押さえ込まねばならない。
ベルジカの外務大臣であるマルクス侯爵が、謀略を好むという話は聞かない。つまり、マルクス侯爵は自らの器を超えるような賭けにでることをよしとせず、ひたすら調和や交渉によって他国との外交をすすめて来た人物なのだろう。マルクス侯爵がいる限り、この国は大きな齟齬を犯さず、無難な国策を取るに違いない。
ルフスリュスは思う。このような人物がウェルセックにいれば緩衝材として双方の衝突を防ぐことができたのではないか、と。
「快適な旅路でした。ご子息にルフスリュスが感謝していたと、お伝えください」
マルクスは相好をくずすと、
「そう言ってもらえれば幸いです。あれとはあまり語り合う機会を持てず。内心、私を恨んでいるのではと思っているのです」
と、りきみのない口調で不穏なことを言った。
「なぜです? ルキウスが貴方を恨むなんて」
「武芸の才がないとわかったとき、私はルキウスの限界を決めた。そして、貴族でありながらあれは商人になった。本当は才能に関係なく、別の道を歩みたかったのではないか? あれはそれを恨んでいるのではないか? そう思うのですよ。まったく親ばかな話で王女殿下にする話ではありませんな」
兄に捨てられた自分と、幼くして親に見限られたルキウス。自分たちは似ているのかもしれないとルフスリュスは思った。同時にやはりマルクス侯爵は自分の器を超えるものには手を出さないのだと確信した。
「いえ、そんなことありません……。きっと彼は貴方を恨んでいないでしょう」
「そう言ってもらえると心が軽くなる。あれと年端の近い者を見るとつい口に出てしまうのです。許していただきたい」
マルクスは、軽く頭を下げると小さく咳払いをした。
「さて、この度の来訪はいかなる目的でしょうか? アルフレッド王からは友誼の使者を送るという書簡をいただき、王への道筋もつけました。しかし、謁見の前にその真意を教えていただきたい」
「アルフレッド王がお伝えした通りの意味です。ベルジカ王国との長きに渡る友誼を築くために参りました。そして、その証明が私、ルフスリュス・ウェセックなのです」
「つまり、貴女が人質となる、と」
マルクスの語気に乱れはない。
「はい。私は命ある限り、この地で暮らすことになるでしょう」
「我が王――ルートヴィヒに外征の意図はありません。それよりも国内の有力貴族を目の敵にしております。ご存知のとおり、我が国は伝統的に貴族の権力が強い。王はそれを是正し中央集権的な国を作りたいのです。それが叶わぬ限り王の手は他国には伸びず、貴国と争いが生じることはありません。
貴女の決意は認めますが、人質にならずとも友誼が保てる以上、その必要はありますまい。今回は、友好の挨拶にとどめられ、帰国されることをお勧めいたします」
明け透けに国情を話すマルクスにルフスリュスは好意を感じたが、帰国しても居場所がない彼女には、それを認めることはできなかった。
「それは王命を違えることになります」
「おそらく、王は貴女を人質として手元に置くよりも妃の一人に加わることを望まれるでしょう。それでもですか」
「それでもです」
ルフスリュスはきっぱりと言った。
ここで初めて、マルクスは小さな溜息をついた。
「これは年長者が年少者に言う助言と思って聞いていただきたいのですが、王に対して誠実であろうとすることは美徳ですが、ときとして命に背くことが真に誠実であることもあるのです。一時的に不興を被るかもしれませんが、翻意していただけませんか?」
「助言、ありがたくいただきます。しかし、私は王のため、しいては臣民のために背くわけにはいかないのです」
「……分かりました。これより、王にお引合せいたします。くれぐれも後悔されぬように」
マルクスは暗さを含んだ声で言った。
――これがルートヴィヒ王か。
ルフスリュスは、謁見の間の中央に座る人物に向かって拝礼をした。謁見に同席するマルクスはルートヴィヒの後ろに控えている。彼が着席をうながしてからようやく、彼女は席に着いた。初めて見たルートヴィヒを一言で表すなら
「狐」
である。
細く切れ長の眼とどこか人を見下したような微笑を浮かべた口がこの王の全てを表しているのではないか、とルフスリュスは思った。
「はるばる海を渡ってこのような美しい王女に来てもらえるとは望外な喜びだ。まるで天使が舞い降りたのかと思った」
ルートヴィヒが分かりきった麗句を述べた時点で彼女の彼に対する評価は決まった。
「アルフレッド王より両国の架け橋になるべく参りました。ルフスリュス・ウェセックです。この度は、急な訪問にもかかわらず面会を許していただき、誠に感謝に絶えません」
「美しい王女の呼びかけならば、朝であろうが夜であろうと我が門は開きましょう」
と、下卑た笑いを貼りつけながらルートヴィヒはルフスリュスを品定めするような目つきで言った。視姦されるとはこのことに違いない。ルフスリュスは視線を跳ね除けるように問を放った。
「両国の友誼を継続されるご意志はありますか?」
「もちろん、平和は両国の幸せ。当然、継続を望むでしょう」
「ありがとうございます。我が国は王のご意向に従い、友誼を深めるためにいかなる労も惜しまぬでしょう」
このあとに来る要求におおよその心当たりのあるルフスリュスは、諦めたような思いで次の言葉を待った。しかし、ルートヴィヒからでた要求は彼女の予想を超えるものであった。
「無理な要求をする気はない。ただ、証人になってくれれば良い」
ルートヴィヒがそう言って手を叩くと、謁見の間に複数の兵士が入り込んできた。その手には白銀の剣が握られていた。
「これは一体……?」
「なに、ここにおる不忠者を始末するのだ。なぁ、マルクス侯爵よ!」
困惑するルフスリュスを尻目にルートヴィヒは、後ろに控えていたマルクスを部屋の中央へ突き飛ばした。不意をつかれ、床に倒れ込んだマルクスを兵士が取り囲む。
「良い格好だな。マルクス侯爵」
兵士の後ろから丸々と肥太った(こえふとった)中年の男性が現れる。着ている衣装から貴族であることは見て取れるが、気品というものが感じられない。
――狸が貴族の真似をしている。
呆然とした頭でルフスリュスはこの異常な光景を見ていた。
「キルデベルト子爵か? なんのつもりだ」
白刃に囲まれながらもマルクスが毅然と立ち上がる。
「なぁに道が老害で詰まっているもので、綺麗にするのですよ。貴方だけじゃ淋しいでしょうから先に息子さんをおくっておきました。地獄でも親子仲良くしてください」
そう言うとキルデベルトは、赤い包をマルクスに投げつけた。包が湿った音を立てて床に落ちた。衝撃で包がほどけると、そこには血まみれのアントニウスの首があった。
「貴様!」
マルクスがキルデベルトに向かって手を伸ばした瞬間、彼の身体は周囲を取り囲んでいた兵士によって突き刺された。十五年にわたりベルジカに仕えた大臣のあっけない最後だった。
「王に対して不遜な態度を繰り返し、自家の繁栄のみを求めた不忠者を始末しました! ネウストリア大公も今頃は……」
マルクスの返り血を浴びたキルデベルトが薄気味悪い笑みを浮かべて王に功を誇る。
「よくやった、キルデベルト。長年にわたり王家をないがしろにし続けてきた大貴族の俗物どもは消える! 今日をもってこの国は生まれ変わるのだ」
王の格好をした狐と貴族の真似をした狸が狂喜する。
次回は9/6の投稿になります。