第六話 船旅の終わり、二人の思い
チョーク海峡での海戦から二日、短い航海が終わろうとしている。
ハーラルの顔を見たルフスリュスは、
「もう、航海も終わりですね」
と。未練を口にした。
ハーラルは王都ロンドの警備を担当する一兵士に過ぎなかったが、騎馬と剣をよくする。内乱の際にルフスリュスがその敏活な立ち回りを気に入り従者とした。すでに四十を超えているというが、肉体的な衰えは見えない。
「船上の戦いは慣れませんので、早く陸に上がりたいものです」
武人らしくぶっきらぼうに答えたハーラルであったが、その声色に安堵の色が含まれていた。彼女の八人の従者はルキウスも言ったように一騎当千、というべき腕利き揃いであるが、海上での戦いには慣れていない。陸上ではルフスリュスを守りきる自信はあるが、海上では自信がない、と言うのが彼らの本音であった。
「オズウェルも捕らえましたし、もう襲われる心配はないでしょう。ハーラルも残り少ない船旅を楽しんだらどうです?」
「この旅で楽しむべきことがあるとは思えません。この際、申し上げますが王のルフスリュス様への仕打ちはあまりにも酷い」
ハーラルは鬱積していた不満を吐き出した。
「仕方ありません。かつて、お兄様はすべての親族から背かれました。私のことも疑心暗鬼になられるのも理解できます」
「しかし、ルフスリュス様は内乱中も一貫して王の味方をされました。それなのに王は、その貴女をオズウェル卿をおびき出すための囮にしたり、これから行くベルジカ王国でも……」
「よしなさい、ハーラル!」
彼女が手を広げて制止すると、彼はしぶしぶ口吻をおさめた。
「これ以上、お兄様の悪口を言うことは許しません。それはそうと、貴方はあの強欲な商人をどう思いますか?」
「強欲な商人……? ルキウス殿のことですか?」
「そうです。この航海中に気づいたことがあれば言ってみなさい」
悪戯を愉しむような口調で尋ねるルフスリュスを見て、ハーラルは少しだけ心が軽くなるような気がした。
「若いが、鷹なような方だと思います。あの若さで船団を指揮し、オズウェル卿を相手に一隻の損害も出さなかった。順調に成長されれば、さぞ素晴らしい海将になられるでしょう」
彼が言い終えると、ルフスリュスはもう堪えられないと、ばかりにお腹を抑えて笑った。なぜ笑っているのか分からず狼狽するハーラルに彼女は言った。
「ごめんなさい。あの方が鷹だなんて随分と違和感があったものだから。そう。ハーラルには鷹に見えるのね。私には蛇に見えました」
「蛇ですか?」
「蛇です。それもまだ小さい」
「なぜです。ルキウス殿はオズウェル卿を倒したのですよ。あまりに評価が辛くはないでしょうか?」
彼が真面目くさった顔で尋ねると
「だって、あの方の脚が海戦中ずっと震えてたのですもの。口では偉そうに指揮をとっておられましたが、脚はもう逃げたくてたまらないという風でした。ハーラルは知ってるかしら? 蛇は臆病な生き物で天敵とあったらすぐに逃げるそうです。でも、逃げられないとなれば毒の牙でガブリ」
と、答えた。それから、ルフスリュスは右の細く長い指で蛇の口を再現すると、左の腕を噛んで見せた。
「小さくとも毒蛇は毒蛇ですか?」
「そうです。これから苦労される性分だと思います」
それは、ルフスリュス様も同じです、と彼は言いたかったが口に載せることはしなかった。ハーラルはときとして彼女が男であればよかったのに、と思うことがある。この王女には胆力がある、と感じる彼にとって女性というだけで国の中枢に参画できないのは耐えられないのである。
もし、彼女が男だったならば将軍として兄を支えることができただろう。
「小さい蛇は大きくなりますか?」
「それは分かりません。あの方次第でしよう。ですが、大きくなれば獅子さえも飲み込んでしまう大蛇になるかもしれません」
このとき、ハーラルはルキウスという青年に始めて興味を持った。
「いかがでございました?」
カステッロはルキウスに尋ねた。その言葉には様々なふくみがある。
「負傷者は、帆船と一緒にベネトへ向かわせた。降伏したオズウェルとその部下たちも一緒だ」
あの海戦で約百二十名の船員が大小の負傷を負った。一方で降伏したオズウェルたちの生存者は二百名ほどだった。思ったよりも生存者が多かったのは、沈没した艦から脱出できた人間が多かったからに過ぎない。
「これからどのように処分されますか?」
「オズウェルはウェルセックの貴族だ。僕たちが裁いたりすれば国際問題になる。いずれどこかであちらに送り返すのが一番いいと思う」
「送り返せば、彼らは死刑でしょうな……」
カステッロは、自分の首に手を匕首のようにあてて、
「戦場以外で誰かが死ぬというのは、気分がいいものではありませんな」
と、言った。命をかけて戦った相手に対して随分と優しい台詞であった。
「そうだな。だが、僕たちの船員にも死者は出た。そのことを思えば複雑な思いだ」
「確かに。しかし、わしらは商人です。騎士のように最後の一兵まで殺し尽くす必要はありません。もしそんなことすれば、商品を買ってくれる相手も仕入先もなくなってしまう。そうなれば、わしらは破産です」
カステッロが目を細めてルキウスを見つめる。今日のカステッロは妙に真面目じゃないか、と言おうかと思ったが、それを言葉にする前にカステッロが言った。
「名誉の負傷の方はどうですかな?」
「腕ならこの通り、しばらくは動かせそうにない」
ルキウスは三角巾で吊った腕を揺すってみせた。右腕に受けた矢は思いのほか深く刺さっており、治るまでにひと月はかかる。
「わしがあやつらが隠れておることに気づきさえしておれば……」
「そっちよりも見晴らしの効く船橋でも気づかなかったんだ。乱戦になっている甲板ではもっと分からなかった、と思う」
「では、わしのせいではありませんな。若の不注意ということで」
急にしおらしい顔をやめたかと思うと、カステッロはニカリ、と笑った。あの殊勝な話はすべて、ここに話を落ち着けるためのものだと気づいたが、ルキウスは怒ることはしなかった。自分でも用心が甘かったという思いがあるのだ。
「まぁ、これのおかげでルフスに怪我はなく。金貨千枚も支払わずに済む。安いものだな」
「そうですな。乙女の柔肌など金貨千枚では聞かない場合もありますからなぁ。下手すれば一生責任をとらされますぞ」
「一生か……、うちの商会が傾くかもしれないな」
カステッロは、隣で深刻そうにつぶやくルキウスに聞こえるよう、大きなため息をついた。