第二話 寄港
ベネトを出港して三日、船団はウェスクリフの沖合までたどり着いていた。途中、ネンシスの海賊と思われる小舟の群れを発見したが、船団にガレア船が混じっていることを恐れたのか襲撃されることはなかった。
「夕刻までには港に入れそうですな」
カステッロが膨らんだ帆を満足そうに眺めて言った。
「さすがのカステッロでも陸が恋しくなることがあるのだな」
「当然です。ベネト・ウェスクリフ間は約三日の距離とは言え、毎日、塩漬け肉とチーズに固焼きのビスケットではあきますからな。今日は肉と野菜のたっぷり入ったシチューでも食べたいものです」
「ついでに真っ赤な葡萄酒があればなお良い、だろ」
ルキウスが言うとカステッロは「まったくです」とわざとらしく深く頷いた。
「今回、海賊は一匹も現れなかったな。内乱が終わってようやくウェルセック王国も賊に目を向ける余裕が出来たのだろうか」
「どうでしょう。内乱が終結し新王アルフレッド様が戴冠されたのが一年前です。まだまだ新王の地位が安泰とは言えないなか、大掛かりな海賊討伐ができるほど余裕があるとは思えません」
「となると、僕らの運が良かったか。ガレア船の多さにを海賊が警戒した、と見るべきだろうな」
ルキウスの船団は、数こそ六隻と小規模であるが戦力としては並よりも大規模である。それはガレア船の多さにある。ガレア船の船員の数は、帆船よりもはるかに多い。例えば、ルキウスの乗るガレア船『悪運』は櫂を漕ぐ船員だけで約百六十名が乗船している。これに船を守る水兵を加えれば二百五十名ちかくになる。それに対して帆船は船員に水兵を加えても約百名程度の人間しか乗船していない。これはガレア船は帆船と違って櫂を漕ぐ人間が必要なせいであるが、海戦となれば乗員者の多い船ほど有利となる。
「やはり数が多いというのは強い。今後もそうありたいものだね」
「商売と同じですな。少数では相場に影響を与えることはできませんが、数がまとまれば大きな影響を与えることができる」
船団が港の手前まで到着するとウェスクリフの港から小舟が近づいてくる。彼らは港湾の役人である。接岸する岸壁を指示と船籍の確認に来たのだ。
「シチューと葡萄酒の使者がおいでになりましたな」
「さっきからカステッロは食べ物のことで頭がいっぱいだな」
「それはひどい。食べ物以外のことも考えております。若には昔にも話しましたが、旅の楽しみは二つです。一つはうまい食事、もう一つはなんといっても美しい女です」
「この好色爺め」
ルキウスが苦虫を潰したように呟くと、カステッロは「船乗りが枯れるときは船を降りる時です」といって笑った。
「さて、冗談はお仕舞にして、帆もお仕舞いいたすことといたしましょう」
「そうだな」
船橋に立った二人が号令を出すと、帆が畳まれる。動力が失われた船団は船速を緩やかに落としつつ小舟に先導されて港に入っていった。岸壁に綱を結ぶと船員たちは、船倉から積荷を下ろす準備を始める。ルキウスは荷下ろしをカステッロに任せ、港の税関へと向かう。税金を払わない限り積荷を市街に持ち込むことができないからだ。
「お待ちしておりました。ルキウス様」
税関の前には既にセスティエーレ・マルコーンが待っていた。セスティエーレはオルセオロ商会ウェスクリフ支店の支店長である。カステッロからは生真面目が服を着て歩いている、と称されている。かつてはベルジカで徴税官をしていたが、袖の下を市民に求める上司と諍いを起こし罷免されている。
「セスティ。先に税を納めてくれたのか?」
「はい、船団が沖合に見えたという報告を受けた時点で使いをやっておりました」
能吏然としてセスティエーレが答える。ルキウスは初め彼が苦手だった。話しかけても必要最低限のことしか言わず、表情は仮面をつけたように変わらない。十七歳のルキウスには血縁だけで会長についたことに対する無言の抗議に感じられた。その印象が抜けないまま一年が経ったあるとき、ルキウスは航海中に帆桁の落下に巻き込まれ怪我をした。ウェスクリフ到着後すぐに医師の治療を受けているとセスティエーレが飛び込んできた。その姿はいつものセスティエーレと違い、上着のボタンは掛け違い、靴は革紐が結ばれてさえいなかった。あまりにいつもと違うことにルキウスが笑うと
「なにが面白いのですか。ルキウス様が怪我をすれば皆が心配します。なによりも帆桁を落とした船員たちは責任を感じて鬱屈した日々を送ることになります。あなたは商会の代表であり、顔なのです。怪我をするなどもってのほかです」
とセスティエーレは感情をあらわにして怒った。それ以来、セスティエーレは感情を表すのが下手なだけだと自分の思いを改めた。
「助かったよ、セスティ」
「いえ、当然のことをしただけです。荷馬車も手配しておきました。荷は全て今日のうちに商会の倉庫の方へ移します」
見れば既に数台の荷馬車が岸壁に入ってきていた。
「今夜、例の貴人がこちらに到着されるそうです」
「例の貴人といえば、父上の肝煎りで乗船されるという……」
ルキウスはこのウェスクリフ行きの前に父であるオルセオロ侯爵マルクスより一通の書状を受け取っていた。書状には、ウェスクリフから王都トレヴェローヌムへある貴人一行を乗船させて欲しいとの旨が記されていた。書状には貴人の名前はおろか一行の人数さえ書いていなかった。
「貴人の正体はわかったのか」
「いえ、残念ながら正体はわかりませんでした。ただ、貴人の到着を知らせる使者のあとを着けさせたところ、王都ロンド方面に向かったそうです。」
「亡命希望の貴族といったところだろうか」
王都ロンドには王宮に出入りする貴族たちの邸宅が多くある。「アルフレッド王は内乱で敵対者に対して強硬路線をとっているのか?」
ルキウスが首を傾げながら尋ねる。
「内乱終結後、アルフレッド王は政敵であった旧王弟派貴族に対しては穏健に接しています。領地を取上げられたり処刑された貴族はおりません。しかし、王族には苛烈な処分を行っています。内乱の首謀者であった先王の弟ギルバートは一族全員を処刑。ギルバートと親交のあった王族も悉く処刑され、実の弟もそこに含まれています、アルフレッド王の兄弟で生き残っている王族は妹のルフスリュス様だけです。
あまり言いたくはありませんが、いい話ではないことは確かです」
「父上の依頼でなければ断りたいところだが……」
「政争に巻き込まれるのだけは避けたいところです」
「まぁ、いまは悩んでも仕方ない。夜に備えて我々は英気を養うこととしよう」
ルキウスが笑うとセスティエーレは小さくため息をついた。
「カステッロが肉とたっぷりと野菜の入ったシチューを食べたいと言っていた用意してもらえるか」
「あの方は相変わらず悩みがなさそうでよろしいですね」
「セスティもあれくらい楽観的なればいいのかもしれないな」
「私がカステッロ殿のように楽観的になればルキウス様の会計業務は今の二倍になりますがよろしいですか」
「それは困る」
ルキウスは慌てて答えた。ウェスクリフに置く商館からの会計が滞るなど考えるだけで、ぞっとするからだ。
「僕の誤りだ。これからも変わらぬ職務を期待する」
セスティエーレは一言「分かりました」と答えた。このとき僅かに緩んだ目元を見てルキウスは安堵した。本気で会計業務を二倍にされては敵わない。
二人が連れ立って岸壁に戻ると、カステッロが船員を使って積荷を荷馬車に積み替える作業を行っていた。今回の積荷は小麦である。ウェセックはベルジカの北東に浮かぶ島国で周囲を北海に囲まれている。気候は冷帯で小麦の栽培には向いていない。そのため、庶民の多くは豆類を主食にしている。
小麦がほぼとれないウェルセックでは小麦は高級品である。反対にベルジカは小麦の一大産地であり貴族から庶民にいたるまで小麦粉を主食とする。
例えば、ベルジカで小麦ひと袋を銀貨一枚で買い付ければ、ウェルセックでは銀貨四枚で売ることができる。ルキウスの船団には約八万袋の小麦を積載できるので利益は銀貨で銀貨二十四万枚、金貨では金貨一枚と銀貨二十四枚が等価なので金貨一万枚となる。
「若、随分と早いおかえりでしたな」
「セスティエーレが手続きと納税を済ませておいてくれた」
「おお! 歩く生真面目ではないか。元気にしておったか?」
カステッロはセスティエーレを見つけると駆け寄り、ばしばしと腰を叩いた。
「相変わらず、線の細いやつだな。お前さんもたまには海にでろ! 少しは鍛えられるぞ」
カステッロは老齢ではあるが巨躯に鍛えられた締まった躰つきをしている。一方でセスティエーレは色白のほっそりとした長身であるため二人が並ぶと大木の柏と柳が並んでいるような印象を受ける。
「カステッロ、それくらいにしてくれ。セスティエーレの腰が砕けると僕の仕事が二倍になってしまう」
「なんのなんの、セスティは頑強ですよ。なんせ去年に引き続き、今年も子が生まれたという。腰砕けにはできん芸当です」
カステッロが笑うと周囲で作業していた船員が「セスティエーレさん、おめでとうございます」と口々に叫ぶ。セスティエーレは顔を赤らめながら「ありがとうございます」と言った。
「そうか、産まれたか。おめでとう、セスティ」
「ルキウス様、ありがとうございます。また、うちに遊びに来てください。家内も子供らも喜びます。多少、騒がしいかもしれませんが」
「喜んで伺うよ。四人目だな、男の子か女の子か?」
「男の子です」
「会うのが楽しみだ」
まだ見ぬ赤子に会うことに期待を膨らませながらもルキウスにはしなければならないことがあった。
「しかし、今夜は例の貴人のお出ましだ。二人にはいろいろ迷惑をかけるかもしれないが、万事よろしく頼む」
カステッロとセスティエーレはお互いの顔を見合うと、大きく頷いた。