第十八話 王都トレヴェローヌ奇襲戦
「日没後、王都への奇襲を行う。港に接岸後は一気に王城に迫り、これを制圧する」
単純な作戦がルキウスの口から発せられると、兵士たちは緊張した面持ちでそれぞれの持ち場に散っていった。交易都市ベネトをでてから三日、ルキウスが率いる船団は王都トレヴェローヌの沖合にたどり着いていた。いまのところ、トレヴェローヌの方から船団を補足されている様子はない。
「まさに乾坤一擲。たった千人で王都を攻める。それだけで歴史に名が残りますな」
カステッロが愉しそうに笑う。
「カステッロ殿! 笑っておられる場合か。名を残す前に手抜かりを残さないでいただきたい」
飄々と笑うカステッロの隣でオズウェルが眉間に皺を寄せている。ガレア船四隻と帆船二隻の運用は、この二人が半分ずつ請け負っている。すでにガレア船の漕ぎ手は櫂を握り締め、突入に向けての号令を待っている。帆船はガレア船に牽引される形で入港し、接岸と同時に兵士を吐き出す予定になっている。
王都に残っている戦力が、こちらと同じ千と言っても、王城に籠られれば攻城するルキウス達が不利になることは目に見えている。そのため篭城される前に、王城に侵入する必要があるのである。
「オズウェル。順調ですか?」
軍装に身を包んだルフスリュスがオズウェルに話しかける。
「はい、王女殿下。ガレア船、帆船ともに準備は完了しています。あとは日没に合わせて号令を出すだけです」
現在、オズウェルはルフスリュスの旗下ということになっている。かつてはルキウスと戦ったオズウェルが船団の半分を率いるというのは奇妙なものだったが、兵のなかでそれを非難する者はいない。それは今彼らが陥っている状況を回天させるためにはルキウスの立てた作戦に従うしかないと分かっているためである。
「日没……」
ルフスリュスは紅に染まった空を見る。太陽はその姿を地平線に落とそうとしていた。
――あの太陽が沈めば、一番長い夜が始まる。
これから始まるであろう。夜の長さを思うとルフスリュスの心は重くなる。ルキウスは実行可能な作戦を立案した。しかし、それは可能というだけで完璧なものではない。何か一つでもつまずきがあれば崩れてしまう砂上の楼閣である。だが、やらなければならない。
「暗い顔をしているね」
カステッロと同じく場違いな笑顔でルキウスが船橋から降りてくると、オズウェルはため息をルフスリュスは苦笑いを浮かべた。
「まったく、オルセオロ侯爵は随分と肝の座った息子を残されたものだ」
オズウェルは呆れるように言った。ルフスリュスはそれがまったく逆なことを知っていた。本当のルキウスは臆病で、いまだって内心では震え上がっているに違いない。それでも笑顔でいるのは、他の兵士や船員のためである。
震えだしそうな足を無理やり前に進め、上ずりそうな声を押し殺している。
「大丈夫ですよ。上手くいきます」
「そうでないと、困ります。ルキウス殿」
「オズウェル殿は慎重なご気性ですな。若もあれくらい慎重な方がよろしいのでは?」
街中で立ち話をするような気安さでカステッロが言う。
「僕が慎重になればカステッロは僕に商人の心得の講釈を垂れられなくなるよ」
「それは参りましたな。若に講釈を垂れるのが唯一の楽しみだというのに」
本気で困ったという顔をするカステッロに近くで作業していた船員達が声をかける。
「若に講釈垂れられないからって俺らにするのは、やめてくださいよ」
「もう、耳にタコができるくらい聴いていますからね」
「老人になると小言がおおくていけねぇや」
決して彼らに緊張感がないわけではない。膨れ上がる不安感を軽口に変えて吐き出しているのである。それが分からない者はこの場にはいなかった。
「さて、そろそろですな」
「そうだね。カステッロ! オズウェル卿! 全船に号令を」
日が沈むのを確認すると、ルキウスが二人に号令を促す。二人が手信号を伝えると、左右のガレア船で太鼓の音が響く。音に合わせて櫂がゆっくりと動き始める。そして、段々と太鼓の音が早くなる。櫂は音に合わせ早くなり、船体が一気に加速する。
「ルキウス。きっと上手くいきます」
ルフスリュスが呟くような小さな声で言うと「ありがとう」という小さな声が帰ってきた。このとき、ルフスリュスは彼の顔を見なかった。眼前では、遠くに小さく写っていた王都トレヴェローヌが近づいてくる。港が封鎖されている様子はない。ベネトで篭城しているはずのオルセオロ侯爵の三男が王都を襲うとは誰も思っていないに違いない。
「突っ込め!」
ルキウスが叫ぶ。
太鼓の音はいよいよ大きく早く響く。櫂がそれに合わせるように脈打っている。それは船というよりもひとつの生き物のようだった。
最初に船団の到来に気づいたのは、関税を徴収する徴税官の一人であった。その日の業務を終えて、港をあとにしようとしていた彼は、暗い海から太鼓の音が響いてくるのを聴いた。そして、それを発見したのである。
巨大な生き物のように櫂を動かし、港に迫ってくる四隻のガレア船。それは平素、港に入ってくるものと違い、あからさまに戦闘を行う速さでの入港だった。四隻のガレア船は強引に港に接舷すると、三百名ほどの兵士を吐き出した。徴税官は何が起きたかすぐには理解できなかった。兵士たちは徴税官を無視して、港にいた数名の兵士を瞬く間に蹴散らすと、王城に向かって駆けていく。
呆然と彼らを見送った徴税官が、何が起こったのか理解したのはこのあとだった。四隻のガレア船に遅れて二隻の帆船が入港したのである。帆船には、オルセオロ侯爵家の紋章が縫い込まれた旗が翻っていた。
「オルセオロ侯爵……!」
王都に住む者でオルセオロ侯爵とネウストリア大公の両者が、王であるルートヴィヒによって誅殺されたことを知らない者はいない。まして、ルートヴィヒはオルセオロ侯爵家の残党であるガイウスとルキウスを討伐するために王都を離れているのである。
「速さだけが不可能を可能にする! 駆けろ!」
接岸した帆船から先ほどの倍近い兵士が吐き出される。その先頭に若い青年が立っている。彼の手にはオルセオロ侯爵の紋章が縫い込まれた旗がしっかりと握られている。徴税官はそれが誰か知っていた。何度となく税のやり取りをした相手である。オルセオロ商会の会長であるルキウス。そして、いま王が討伐に向かっている反逆者の一人であった。
先鋒の三百を追いかける形で七百の兵はルキウスを先頭にして王城を目指していた。今のところ、警鐘は王都に鳴り響いていない。まだ、王城を警護するキルデベルトは何が起こっているか分かっていない。相手が正確に事態を把握する前に決めなければ、勝機はないのである。
「駆けろ!」
先鋒の三百を指揮しているのはハーラルである。これまでルフスリュスの警護に専任してきた彼が先鋒を率いたいと言ったとき、ルフスリュスはもちろんルキウスも驚いた。この影に日向にルフスリュスを守り続けていたこの武人が、そのようなわがままを言うとは誰も思っていなかったからだ。
「陸戦であれば、我らがもっとも速く王城にたどり着けるでしょう」
彼が行った理由は簡潔で異議を挟む余地はなかった。ルフスリュスの従者八人が人並み外れた突破力を持っているのは、チョーク海域戦で誰もが知っている。
「ハーラル、絶対に王城への道を拓いてください」
「ルフスリュス様、お任せ下さい」
短く答えたハーラルは、主人の命令を着実に遂行した。
トレヴェローヌの市街を一気に駆け抜けた一隊は、呆然とする衛兵を血祭りに上げると、ドッと王城に侵入した。王城のいたるところで混乱が生じる。その混乱の中でひときわ取り乱した人間がいた。それがキルデベルトであった。
オルセオロ侯爵マルクス殺害に貢献した彼は、決して優れた武人でもなければ能吏とでもう言うべき文官でもない。王の尻馬に乗って初めて権勢を得るような小物である。戦場を駆けた経験はほぼ皆無と言ってよく、兵を率いた経験はマルクスを殺害した時だけである。
「な、なんだ! 何が起こっている!」
肥え太った体を大きく揺すりながら、右往左往するキルデベルトは蒼白な顔で訊ねるがそれに答える者はいない。王城内では、さまざまな罵声や悲鳴が響いている。そのほとんどは、武器の扱い方も知らない女官や文官のものであった。彼らは恐怖から蜘蛛の子を散らすように四散したが、それが衛兵に伝播したのである。
踏みとどまって戦おうとする仲間を捨てて逃走を図る衛兵が増えたことで、混乱はさらに深まった。ルキウスらが先鋒に追いついた頃には、王城の二つの館――歌人の館と王の館はそのほとんどがハーラルらによって制圧されていた。
「さすがだな」
ハーラルの進攻にルキウスは感嘆の声を上げた。ベルジカの歴史上、王城が陥落したことはない。それが目の前で起こっている。ましてやそれを首謀したのが、自分なのだとルキウスはなかなか自覚できなかった。数十日前までただの商会の主に過ぎなかった自分が、王城を落とした大罪人になっているのだ。
――これは本当に起きている出来事なのか?
と、ルキウスは手中に落ちつつある王城を見上げる。
「ルキウス様、キルデベルト子爵を捕らえました!」
ルキウスの思考は、若い兵士の声によって妨げられた。
若い兵士の声には落ち着きのない興奮が混じっている。この場にいる誰もが、この戦闘の勝利を確信しつつあるのだ。
「分かった。僕の前に連れてきてくれ」
「了解致しました!」
兵士に引きずり出されたキルデベルトの振る舞いはとても貴族のものとは思えなかった。
「私は何もしていない。離せ! 離してくれ!」
手足をバタバタと動かして抵抗するキルデベルトを若い兵士が槍の柄で殴りつける。鈍い音とともにキルデベルトが見苦しく巨体を揺らして悲鳴をあげる。
「痛い! やめてくれ! 金をやる。だからやめてくれ! 金ならあるんだ!」
ポケットからジャラジャラと金貨を取り出すとキルデベルトは若い兵士に差し出す。若い兵士は、再び柄でキルデベルトを殴りつける。衝撃で金貨が手からこぼれ落ちる。耳障りな金属音が響く。それがさらに癇に触るのか、若い兵士は「黙れ!」と言ってさらにキルデベルトを蹴り上げた。
「……ひっ」
今度は悲鳴をあげなかったキルデベルトであったが、眼前にオルセオロ侯爵家の紋章のついた戦旗を持つ青年を認めると青ざめた顔で彼を見た。
「お初にお目にかかる。オルセオロ侯爵マルクスが三男であるルキウス・オルセオロと申します。キルデベルト子爵でございますね」
ルキウスが声をかける。
「違う! 違うんだ! 私はマルクスを殺したくなかった。だが、王命だった。断れるはずもなかろう? ルートヴィヒ王、そうすべてはルートヴィヒが悪いのだ! なぁ、分かってくれるだろう。臣下なら王の命には逆らえない。そう、逆らえなかったのだ!」
狂ったように自己弁護と責任転嫁を行うキルデベルトをルキウスは汚物でも見るような目で見た。
――こんなヤツに父と兄は殺されたのか。
そう思うと、ルキウスは頭に血が上るのを止められなかった。
腰に下げた剣を抜くと、ルキウスはキルデベルトの胸に向かって振り下ろした。不愉快な手応えと一緒に刃が分厚い肉に突き刺さっていく。
「ち、違う……たす、け」
ルキウスはキルデベルトを殺した。それは彼にとって初めての殺人であった。海戦などで兵の指揮を執って、間接的に殺したことはこれまでもあった。だが、自分の手で剣を握り、人の身体に振り下ろしたのはこれが最初だった。
「この男を晒せ。すべて衛兵に指揮官が死んだことを教えるのだ!」
怒気を含んだ命令を叫ぶ。ルキウスがこれほど鋭い声を発するのは珍しい。
ルキウスがキルデベルトを殺害するのを見たルフスリュスは、血の気が引く音を聴いた気がした。それほどに急激にルキウスの顔色は悪くなった。それでも、彼は懸命に声を上げて指揮を執っている。ルフスリュスはすぐにでもルキウスの傍に駆け寄りたい衝動に駆られたが、それをしなかった。
キルデベルトの死骸が王城の尖塔にさらされると、王城の各所で響いていた剣戟の音が小さくなった。指揮官を失っても抵抗する兵士は少ない。最後まで抵抗していた一隊が、降伏を明らかにするといたるところで歓声があがった。
ベルジカ王国の王城が陥落した瞬間であった。
ルフスリュスはこの時になってはじめて、ルキウスに近づいた。そして、血のついた剣を握る手に自分の手を重ねた。ルキウスの手は恐ろしく冷たく、いまだに剣を強く握りしめているのか小刻みに震えていた。彼女は彼の手に熱が戻るまでずっとそのままでいた。




