キリナ
触ると壊れそうなほど、華奢な女だった。ほんの少し押すだけで折れそうな腰と、少し悪態を吐いただけで失われるような儚げな瞳。
暇つぶしに寄った図書館で見つけたのは、そんなガラスのような女だったのだ。
私は思わずそれに見とれて、しばらく立ちすくんだ。こんなことは久しくなかったが、それだけ衝撃的だった。
ああ、こんなにも大切にされて育ったのであろう女。これを見たからには、壊さずにはいられない。そう私は思った。同時に、どこまで壊れずにいられるか手元において見守りたいとも思えた。
もっと簡単に言うなら、一目ぼれだ。一撃だった。
私の名前は沢渡切名。自分で言うのもなんだがこの町の無法者たちの間ではちょっとした存在だ。
つい最近に聞いた限りでは、私の世評は次のようなものといえる。
「暴力的で、人が苦しむ姿を見るのが好きな生粋のサディスト」
「略奪的な性愛を好む漁色家、血と暴力が何よりも好きな変態」
「男も女も関係なく欲望の対象にする快楽主義者」
「敵に回してはいけない、最低最悪の女」
これらの世評はおおよそ当たっている。私は矯正のしようがないほど捻じ曲がった変態だ。その自覚はある。
ただ、全ての女を陵辱しないと気がすまないとか。相手を殴りながらでないと満足できないとか。そういう趣向はない。それに、それほど気が多いわけでもない。私は誰でも彼でも構わないというような、色欲の権化ではないのだ。が、今回は完全にやられてしまった。
あんなガラス細工みたいな女が、この町にいたなんてことがまず驚きだ。
何しろ300メートルも歩けばトラブルに行き当たるというくらいにこの町は喧嘩や暴力沙汰が多い。食い逃げやひったくりなんてものは年間の発生件数が4桁に達するくらいだ。婦女暴行の数も相当数ある。殴る蹴るという「暴行」も含めて。
掃き溜めに鶴という言葉があるが、そういう感じだ。誰にも汚されずに、よくも今までやってこられたなと。
私は思うのだ。
図書館を出て、一服する。愛用のラークを一本抜いて、ジッポーで火をつけた。
ため息とともに煙を吐き出し、思案する。
あんな上玉は滅多なことではお目にかかれない。なんとかしたいという気持ちが湧いた。
この町では婦女暴行の類なんてありふれた事件過ぎる。ちょいとあの女のあとをつけて、夜道で襲い掛かればそれで目的は達成される話だ。繊細で美しいものを壊す楽しみと、他人の大切なものを踏み荒らす楽しみが、そこには確かに存在する。私は満足するだろう。
だが、それは私の流儀に反する。嫌がる女を無理やり、というのはまずい。あの女が私の命を狙っているだとか、そういう理由があるならやるが、今回はない。だから無理やりに襲い掛かるというのはナシだ。何よりスマートではない。
そういったところ踏まえると、もったいないが、あの女を手に入れることは無理という結論に達する。
身なりもいいし、恐らくはまともに勉強をしていい企業に入ろうとしているか、すでに社会の役に立っているのだろう。私のような根無し草とは違うのだ。社会から疎まれて、夜の底に沈んで、法律を度外視した自分だけのルールで生きているような私とは。
高嶺の花といえる。諦めるしかないだろう。
私には、私にふさわしい闇の中の花がある。それでいいはずだ。
仕方がないことだ。仕方がない、こと。
少し調べた。
翌日までには、あの女の身元がわかった。わかったが、自分でも未練だと思う。
このあたりに出店する予定の、チェーン店。それのオーナーの娘だ。将来的には一店舗を任せるつもりなのだろう。チェーン店とはいえ、高級ショップなので客層も悪いものではないはずだから、あのような気品が必要といえる。
治安がいいとはお世辞にも言えないこの町に出店するのはやめたほうがいいのではないかと他人事ながら心配してしまうが、私の口出しなんぞで企業が一度決めたものを取りやめるとは思えない。まあ、直に客足が悪いことに気づいて撤退するだろうが、それまでの間はあの女はこの町に留まるということだ。
坂山矢那子という名の女。髪は見事なストレートで背中まで流し、繊細な瞳に、折れそうなほど細い華奢な身体。まったくの穢れを知らないお嬢様といったところだろう。暖房のためだけに入り浸る連中に囲まれても、平然と図書館で本を読んでいられるような神経はもっているようだが。いや、単に鈍感なだけか。
それでも、今日も今日とて郷土資料のようなものをじっと読んでいるところを見ると、やはり真面目なのだろう。店を任されるということをわかっていて、地元に溶け込もうと頑張っていると思われる。
今日は、図書館ではない。書店だ。そこに彼女はいた。
別に、彼女に会おうと思っていたわけではない。
図書館を避けて書店に入ったというのに、彼女は店の奥で椅子に腰掛けて、分厚い書物に目を通しているのだった。
眼福とばかりにジロジロ観察することも、今の私にはやりづらい。手に入らないとわかっているものを、目に入れておくことがつらいのだ。少し離れて柱に背を預けながら、私は下を向いてしまう。
いっそのこと力ずくで全てを壊してしまいたいという気持ちを抑えながら、床を見つめるしかなかった。
私が変態だということは自他共に認めるところだが、つらい。
坂山矢那子を汚したくて、壊したくて、たまらなくなってきた。ヤナコ。普通ならこんなことにはならないのだが、自分の身体がそういう周期のせいか、どうも止められそうにない。
なまじ、自分にはそういうことが暴力的にできるだけの力と自信があるというところが余計に厄介だ。しようと思えばできるのだ。トイレに連れ込んで力づくで犯し、奪い、汚し、壊すことができる。私の執着的な好意からくる欲望に身を任せる快楽は、多分私を満足させる。
やめとけ、と私の理性が叫んでいる。私は狂人と何度も呼ばれた人間だが、色情狂ではないはずだ。
「あの」
必死に我慢しているところに、話しかけられた。顔を上げてみると、目の前にヤナコがいる。
こんなに近くに彼女がいるという状況は初だ。私は言葉を失う。
「苦しそうですが、平気ですか。救急車を呼びましょうか」
ヤナコは本当に私を心配している目を、こちらに向けている。どうやら欲望を必死におさえつけている私の姿を、苦悶しているものととらえたらしい。
とんでもないことだ。
「平気だ。私ならなんともない」
いつもなら軽口を叩いて適当に脅しをかけ、あしらってしまうのだがヤナコが相手ではそういう態度をとりづらい。
私は遠慮がちにヤナコの好意を振り払う。
「そうですか、もし助けが必要ならすぐに呼んで下さいね」
「ああ」
睨み返した私を恐れる様子もなく、ヤナコは立ち去ってしまった。小脇には文庫本を二冊抱えて、優雅な足取りで。
お嬢様の気まぐれか、義務から声をかけたのだろう。が、私のことなどすぐに忘れてしまうだろう。
それが、私のような人間と彼女のような高嶺にとっては当然のこと。
そう考えていたのだが、次の日も私は声をかけられた。
「体調はいかがですか」
背後から声をかけられて、振り返るとやはり、ヤナコがいた。お嬢様が来なさそうなところへ行こうとしていたのに、これだ。話しかけられても無視して逃げればいいだけのことなのだが、そこはやはり未練があって、そうしたことができない。私は肩をすくめながらお嬢様に向き直り、体調は問題ないと告げた。
「そうですか、気をつけてくださいね」
「ああ、あんたこそな。もっと食ったほうがいいぞ、ここいらは物騒だからな。そんな細い身体じゃ狙われるぜ」
「まあ」
冗談だと受け取ったのか、ヤナコは微笑んでいる。こちらとしては本気の忠告なのだが、真面目に受け取られていない。
こいつはまったく厄介なお嬢様だ。
「あんた知らないのかもしれないが、この町は本当に治安が悪いんだ。あまり一人で出歩くもんじゃない」
「あなたもお一人でしょう」
「私はいいんだ、慣れてるから。でも、あんたは違うだろう」
しかしお嬢様は首を振って気丈な答えをする。
「私だってもう一週間この町にいます。だいたいの地理は把握いたしました」
「そのくらいじゃだめだな。何もかも知り尽くしたというくらいじゃないと、慣れたとはいえんぜ」
少なくとも表通りのことくらいはな、と心中に付け足す。本質的には裏通りのことこそが重要なのだが。そこは言うまい。お嬢様には知りえるはずもない情報だ。
「心配性ですね。そんなに私が頼りなく見えますか」
「みえるね、細い腕して」
「ひどい方。そんなにおっしゃるなら、あなたが私をエスコートしてくださいますか」
「私がか」
「一人歩きがだめとおっしゃったのは、あなたですよ?」
そうきたか。別にこうした方向になるのを狙って話をしていたわけではないのだが、くそ。
諦めていたっていうのに、あっちからこっちの腕の中に飛び込んできやがった。ヤナコ。こうしている今でさえ、私はお前を汚しつくして壊してしまいたいんだぞ。なんて、拷問だ。
だが、断る気にならない。このちりちりと胸が焼ける感じが、たまらないところでもある。
「わかった、責任はとろうか。しかしお嬢様よ、知らない人にホイホイついていっていいのか? 気持ちいいことされてもしらねえぜ」
「あら、あなたも私も女性です。問題あるとは思えません。それより、お名前をお聞きしてもよろしいですか。私は坂山矢那子と申します」
「ヤナコだな。私は沢渡切名だ」
「まあ」
ヤナコは私に名前を呼ばれて驚いている。初対面同然で、いきなり下の名前を呼び捨てにされたのだから仕方のない反応だろう。
しかし私は常にこのスタイルだし、あらためようとは思っていない。
お嬢様は少ししてから頬を少し染めて笑った。
「では私もキリナとお呼びします。キリナ、早速ですが郊外にある公園に連れて行ってください」
「承知したぜ、ヤナコ。ほれ」
私は冗談のつもりでさっと手を差し出した。しかしヤナコはそれを当然のようにとる。
手をつないでいくことに、なんの抵抗も感じていないようだ。こいつは、同居人に見られた日には大変まずいことになる予感だ。しかし今更手を引くわけにもいかないだろう。
ヤナコが案内しろといった公園は、夜になると色々な意味で危険な場所に変貌するのだが、まだ日は高い。早めに引き上げれば特に問題はないだろう。
私は彼女の手を引いて、のんびりと歩いた。お嬢様はあちこちで買い食いを所望されたが、いちいちそれに応じてやる。
思ったほどの反応はなかったが、ガラスのお嬢様にしてはなかなかだ。さすがに針でつついたくらいでは壊れそうにないなと思いつつ、彼女に付き合った。ぞわっと衝動が走ることがあったが、そのたびにぎりぎりでこらえて。
私はやはり、変態らしい。全くそのあたり、否定できないのだ。
「今日は楽しい一日でした、キリナ。また会いましょう」
「ああ、そうだな」
何度か危うい感じはあったが、乗り切った。
私はヤナコと駅前で別れる。彼女のエスコートをしている間、その不安げな足元に、首筋に、何度食らいつきたくなったかわからない。
手を出さないと決めたのだから、誘惑してこないでもらいたいものだ。さっさと企業には撤退してもらって、ヤナコがこの町から去ってくれればいいものを。
蟻地獄におちた蟻を助けるなんてことは、普通しないもんだ。
ヤナコの背を見送って、私は家路についた。
その翌日。私は雨の降り出しそうな空の下を歩いていた。黒いブラウスに白いネクタイを合わせて、上から黒いコートを着込んでいる。
この服装は中二くさいとか暑苦しいとか、その他色々な理由で不評だ。だが、この服装は私のお気に入りだからやめるつもりはない。誰がどこから見ても私だとわかる服装なのだ。これで便利だったりするし、これをやめたら私ではないような気がする。
今日は特に出かける用事はなかったのだが、仕方ない。同居人が怒っているのである。ヤナコと出かけていたのがバレてしまったのだ。
私は何しろものぐさで、家事などもよほど家が汚れない限りはやろうと思わない。ついでに、汚れたところでも平気でごろごろできる性格だ。したがって、同居人が怒ってしまうと食事の質がものすごく低下することになるわけである。それは避けたいのであって、やはり彼女の機嫌をとらざるをえない。
そういった理由で、私は彼女のすきそうなものを購入するために町に出てきたわけだ。
大通りに出て歩くうちに、何か耳に届いた。
一瞬で消えたが、わずかな声が確かに私の耳に。悲鳴だ。助けを呼ぶ声。
無視してもよかったが、振り返った。ヤナコの声に似ていた気がしたからだ。
私は走った。
確かにこの町では婦女暴行の類も、珍しい犯罪ではない。高嶺の女、ヤナコがその被害に遭う可能性は高かった。
コートを翻して疾走し、裏路地に飛び込む。だが、既にヤナコの姿はない。聞き違いかと一瞬思ったが、違う。その場に本が落ちていた。ヤナコが抱えていた本のうちの、一冊だ。
「くそ!」
私は悪態を吐いて、周囲を見回す。今まさに走り去った車がある。シルバーのウイングロード、あれだ。
お決まりのようにリアガラスにステッカーがベタベタ貼っていて中の様子は見づらいが、誰かが暴れている気配がある。ヤナコだ、間違いない。
ウイングロードはすでにスピードを出しているから、走っても追いつけまい。信号で停止してくれるとも思えない。このへんにキーがついたままになっているバイクでも乗り捨てられていれば、すぐにも追いついて見せるのに。カブでも構わないから、ないのか。
左右に走らせた私の視線にかかったのは、自転車だ。MTBでもない、ただのシティサイクル。しかしカギがかかっていないのはこいつだけ。これにかけるしかない。
どうやら近くのCDショップに入った客のものらしいが、人命救助のためだ。緊急避難とばかりにそれを持ち出し、私は車道にシティサイクルを押し出し、飛び乗った。全力でペダルを踏む。フルスロットルだ。
雨でも降ったらおしまいだが、まだもう少し天候はもつ。気合を入れて、私はウイングロードに追いすがった。
しかし相手も私が追跡していることに気がついたのか、かなり飛ばす。あちらはガソリンを消費するだけだが、こっちは人力だ。限度がある。おまけに、この頼りないタイヤではカーブが苦手すぎる。
短期決戦しかない。どうせ、街中ではさほどのスピードも出まい。
決心を固めると、私はカーブ手前でペダルを止めて、しかしブレーキを限界まで遅らせる。ウイングロードが減速した一瞬、距離が一番詰まる。私のシティサイクルとの差は、2メートルくらいか。そこを見定めて私は飛び掛った。
自転車から飛び出し、四輪にとびついたのである。失敗したら大事故の上に重傷間違いなしだが、やむをえない。ヤナコのためだ。
延ばした左手がどうにかウイングロードのワイパーを掴んだ。足が地面をこするが、私の履いている靴はそれなりに頑丈なのですぐに引き上げれば大丈夫だ。ウイングロードは蛇行運転で私を引き剥がそうとするが、こっちもそう簡単に振り落とされるわけにはいかない。
まるで古い映画のようなことをしている。傍目からはコントそのものだろうが、私たちは必死である。中ではヤナコが何をされているのかわかったものではないのだ。
しかし、少し走ったところでウイングロードは幅がギリギリのトンネルを通過しようとしてきた。このまましがみついていると、激突してしまう。私は仕方なく手を離し、地面を転がった。コートやネクタイがボロボロになるが、大した傷はない。
私を振り落としたウイングロードはそのまま走り去っていく。が、心配はない。携帯電話を屋根にくっつけてきたからだ。位置はすぐにわかる。
左のポケットからスマートフォンを取り出した私はすぐさま、携帯電話の位置情報を探る。そこに行かねばならない。
隣の駅周辺の、ボロビルの地下駐車場。そこに、ウイングロードは停車していた。屋根には私のつけた携帯電話もくっついている。
ボロボロになったコートのままで、私はここにやってきていた。ヤナコがここにいるはずだ。
ひとまず携帯電話を回収し、私はエレベーターで一階に移動する。「テナント募集中」と書かれた広告が見えるが、私はカンを頼りにそのドアを思い切り蹴破った。
部屋の中の時が止まったようだ。中にいた男たちは、私を見て心底驚いている。
なぜお前がここにいる、どうしてここがわかった、と聞きたそうにしていた。私はそれらの目線に、軽く両手を開いて応じた。
「ヤナコはどこにいる」
「つまみだせっ!」
質問に答えず、彼らは打ちかかってくる。男ばかり3名ほどだ。数でかかれば私を倒せると思ったらしいが、お生憎だ。
私をそこらの華奢な女と一緒にしては困る。特に、ヤナコのようなお嬢様と。
それに今は、イラついているのだ。つい、力が入ってしまう。
最初に私に飛びついてきた男は何も考えずに殴りかかってきた。それを左手でいなし、右手で顔面を叩く。それで彼は地面に転がってしまう。次の男は私に抱きつくようにして動きを封じようとしているようだが、その前に膝を振り上げると見事に股間を叩くことに成功した。ひるんでいる間に、裏拳で顎を砕く。
こうして、二人が地面に落ちた。沈んでしまって、まったく起き上がってこない。
部屋に残った最後の一人に私は訊ねた。
「ヤナコはどこだ」
「向かいの部屋だ……」
素直だな、と私は奴が指差した部屋を開ける。中に入ってみたが、寝室のようだ。どこかに縛り付けられているのか、と考えたが姿が見えない。どこだ。
と、何かおかしいことに気づく。妙に酒くさい。
なんだ、この部屋は。そう思った途端扉が閉まり、カギがかかる。
私を閉じ込めたつもりか。
急いでドアを破ろうとしたが、外に何かバリケードのようなものが出来上がりつつあるようだ。椅子などの家具を積んでいる音がする。まずい、このままでは閉じ込められてしまう。
ドアに何度目かの体当たりを見舞おうとして、足がふらついた。自転車をこいだせいだろうか。
違う。酒だ。
この酒臭い空気は、アルコールが揮発しているのだ。
こいつは、即効性の毒ガスだ。さては加湿器にアルコールを放り込んだな。明らかに空気がおかしい。
呼吸器から吸収したアルコールが私に作用しているのだ。つまり私は、自覚なく酔っ払わされている。急いでこのアルコールを蒸散させている機械を探したが、埋め込み型なのか、それともよほど巧妙に偽装されているのか、発見できない。
できるだけ息を止めながら、私はふらつく足でドアに体当たりを繰り返す。窓がない以上、ここしか出口がないからだ。
「くそ」
体当たりだけではダメだ。この扉は引かないと開かない。強引に体当たりで開くのは愚策か。
少し考えてから、私は靴を脱ぐ。それでドアの蝶番を叩いて緩ませた後、ドアノブを掴んで壁に足をかけ、渾身の力で引っ張り込んだ。
壁がみしみしと音をたて、ドアノブが千切れかかる。が。
はじけるようにして、ドアが内側に開いた。同時に、蝶番が壊れて吹き飛ぶ。手を離すとドアは内側に倒れこみ、床の一部と化した。
かなり老朽化した木製のドアだったことが幸いした。金属製だったらかなり危なかったといえる。
バリケードの類も崩れ落ちて、役に立たない。私は椅子やら机でつくられたそれを適当に払いのけて、アルコール漂う部屋から脱出する。
かなりふらつく。思考さえうまく定まってこない。畜生、やってくれる。
あまりにもあっけなく倒されてくれたので、こんなことをやっているとは思いもしなかった。くそが。
ひとまずビルの外に出て気を落ち着けないとやっていられない。酒には強いほうだが、足元も定まらないほど吸引しちまっているとなれば、まともに戦えるはずもないだろう。
しかし、外に出ようとした私の前に数名の若者が立ちふさがった。私に敵意を向けている。
「何だよオマエは。どこの誰か言ってみろよ」
バリケードを突破してきた私を、やや恐れの混じった目で見つめて。先頭に立っている女がそんなことを言ってきた。
どうやら私の顔を知らないらしい。
私は舌を噛み締めて無理にも思考を持ち直させてから、名乗った。
「私は沢渡切名だ。もう一度聞くぞ、ヤナコはどこにいる」
右手を壁について、身体を支えながら精一杯奴らを睨みつけたのだが、だめだ。いつもの半分も語気がない。
そのせいか、集まっている少年少女たちは緊張をやや解いて、へらへらとした笑みを唇の端に浮かべる。私が弱っているとみたからだろう。
「へえ、あんたがキリナか。とんでもない淫乱レズで、サドでマゾっていう噂の?」
女は嘲笑するようにそんなことを言った。
後ろにいる男女がギャハハと笑い声を上げる。どうやら今のは笑うところだったらしい。
私としてはどんな噂がたとうが別にどうでもよかったが、今の笑い声は少し癪に障った。酔いのせいもあるが、鬱陶しいと感じる。
「やっぱり予想通りじゃねえか。あの女を掻っ攫えばキリナが釣れた」
アハハハ、と女が笑う。先頭にいる女の顔をよく見ると、記憶のどこかに引っかかる。アルコールの回った頭の中を引っ掻き回すと、ようやくひとつの名が思い出された。
柿内ルミ。
それがこの女の名だ。私をつけ狙ってつまらない策略をしかけてくる奴だと認識していたが、よりにもよってヤナコを襲ったのはこいつだったらしい。
しかも、それが全部私をおびき出すための計略の一部ときたものだ。
「くくく……」
思わず、私の喉からそんな声が漏れた。
笑ってしまったのだ。
「何を笑ってるのさ、キリナ。いくらあんたが強くたって、そんなフラフラでこの人数を相手にできると思ってる?
血と暴力がすきって言ったって、自分が痛いのは困るでしょうに。ああ、あんたマゾなんだっけ?」
「なら遠慮するこたねぇな! 存分にいたぶってやろうじゃねえか」
ルミの言葉に、後ろの男たちもやる気を出している。どうやって私を辱めるか考えているのだろう。
破壊欲と支配欲に満ちた顔をしている。
いいぞ、その顔は良い。私ははっきりと笑った。
何しろ、私に敵意を向けているのだから。そんな奴らが大勢ここにいる。
「面白いな、いいぞ。かかってこい。
しかしな、そう簡単に私をレイプできると思っているのならそれは間違いだ」
酔いのせいか、視界が歪む。
とろけるような視界の中に、私はこちらに向かってくる男女の群れを見つめていた。
彼らは私に害をなそうとしているのだから、私は自分を守るために彼らに何をしても良いはずだ。許されるはずだ。
たくさんのおもちゃに囲まれた子供のような気持ちで、私は両腕を振り回す。
中には格闘技をかじっている者もいたのだろう。数名は私の一撃をかわしたり、耐えたりした。
しかし同じことだ。これは格闘技の試合ではないし、私は反則技の使用をためらわないし、相手が骨折しようが死のうが知ったことではないのだ。
必死に私の攻撃をかわしていた一人は、目潰しをまともに食らって昏倒した。懸命に防御していた男は後ろ回し蹴りをガードした際に両腕を骨折したらしく、悲鳴を上げて倒れこんでいる。
残ったのは、仲間に守られていたルミだけだ。
「ちょっとやりすぎたな、ルミ。ヤナコをさらったのはまずかった。
あいつは私たちとは違うんだよ、まともな人間なんだ。こんな騒動に巻き込みやがって」
「あんたに言われたくない。いつもいつも無関係の人間を巻き込んで大勢不幸にしているくせに」
「なるほどそれはいえた。けど、お前の言うことを今聞こうとは思わねえ。死んどけ、ルミ」
私は全力で踏み込み、ルミの顎を右拳で打ち抜いた。彼女は数メートルほど吹っ飛んでからバリケードの残骸に突っ込み、立ち上がってこなくなる。
これ以上の抵抗はないはずだ。
周辺には倒れている少年少女がいくらかいるし、呻いている者や助けを求めている者もいる。
そうした連中を無視して、私はヤナコを探した。
彼女は、すぐに見つかる。テナントの最奥、倉庫のような部屋にいた。
薄暗い照明しかつかない、ゴミや資材に囲まれた冷たい床の上に、拘束された状態で放り出されている。
服装は少し乱れているが、強姦された形跡はない。どうやら、行為を始めようとしたところで中断を余儀なくされたとみえる。多分、私がここにやってきたからだ。
お嬢様にはつらい体験だったことだろう。すぐに拘束を解いてやらないと。
私はそう思いながら部屋に踏み入った。
ヤナコは意識があるらしい。私の方に目を向けた。目が合う。彼女は涙をぼろぼろ流し、震えたような声を発した。
「たすけて、いや、たすけて……」
身もだえするように後ずさりしながら、彼女は必死にわが身を守ろうとしている。
怯えていた。
拘束を解くためには彼女に触れなければならない。手を差し出すと、その手が凝視され、まるでそれが拷問器具であるかのように戦慄し、顔面蒼白になる。
私は、自分の手を見た。なんだかよくわからない、ぬめったものに塗れている。血と、脂だ。
特に武器を使ったおぼえはない。だが、私の手は血で染まっている。この分だと、恐らく顔も。
酒に酔い、戦いに酔って、血に染まって、私はお前を助けに来た。ヤナコ。
だが、私の手は拒絶された。
「た、たす……」
命乞いの言葉さえも続かないほど、ヤナコは私に怯えていた。歯を鳴らし、わが身を抱いて恐怖に耐えようとしているようだ。
私にとって、ルミたちを相手にして暴れるくらいは別にどうという労苦でもない。このくらいはいつものことだ。毎度のことだ。
だが、ヤナコに拒否されている。
わかっていたことだが、どうあっても手に入らないのだ。ヤナコの心をつかむなんてのは、無理な話なのだ。住む世界が違いすぎる。
なら、いっそのこともう力ずくで壊してしまっても許されるかもしれない。
ここにいるのは、私とヤナコだけだ。しようと思えば、できる。誰も咎めない。
ヤナコが恐れるとおり、ヤナコの大事なものを奪い、汚し、心の底まで陵辱しつくしてしまいたい。
そうしたら、多分私は満足する。
くだらない自分の流儀だとかルールだとかは放り出して、最初からそうやって欲望のままに心のままにやってしまえば、こんな思いなんてすることは絶対になかったのに。傷つくなんてこともないのに。
ただ。もし、そうしているとしたなら、私は私であることをこんなにも誇れるはずがない。
結局、私は私だから。
私は手を伸ばして、彼女を拘束しているロープを解いた。
それから心底ヤナコを見下した目で見て、簡単な侮辱を行う。
「ふん、ちっとは綺麗なお嬢様かと思ったら情けない。このくらいのことでしょんべん漏らして命乞いとはな。
すっかり興が冷めた、お嬢様はお嬢様らしくベビーベッドで介護されてろ。くだらねえ。二度と私の前に姿を見せるなよ」
ヤナコは拘束を解かれて自由の身になっても震えたままで、何をされるのかと恐れた目をしている。
何も言い返してはこない。
くそが。
「とっとと家に帰っとけ、しょんべん臭え! 二度と私に近づくな!」
重ねて怒鳴りつけると、服も調えないままで脱兎のごとく走り去ってしまった。
少し歩けばすぐに表通りに出るはずだから、おそらく家までは帰りつけるだろう。あいつの、細い脚でも。
そして、多分私と会うことは二度とないだろう。こんなことになった以上、多分この町から彼女たちは離れてしまう。
警察沙汰になったとしても、その場合は私たちがこの町を出ることになる。だから、会うことは二度とない。
獲物が食ってくださいと言わんばかりの状態で目の前に出されたというのに。
私は自ら、それを逃がしてしまったのだ。
ボロビルの入り口に出てみると、空から雨粒が落ちているのがわかった。すぐに止むといいが、あまり期待できそうにない。
ラークをくわえて、火をつける。
途端、胸の辺りから熱いものがこみあげ、私は胃液を吐いた。おそらく、アルコールのせいだろう。
あまり立っていないほうがいいかもしれない。行儀悪くも私は階段に座り込んで、たばこをふかした。空は曇っている。
住む世界が違うというのは、やはり重いか。
私なんかが汚して良い女じゃない、などというほどヤナコを神格化するつもりはない。ルミたちにやられていて、私が入ったときに彼女が全裸でボロボロだったとしたら、私はどうしただろうか。
今更どう考えても、何も変わらない。
ガラス細工のようなヤナコは私に怯えて逃げ去ってしまったのだ。
さようならだ。どうしたって、終わったものだ。
私は雨を撒き散らし続ける黒い雲を見上げながら、ラークを灰にした。
酔いがさめるまでと、自分に言い訳をしながら。