エピローグ
「本当に行くのか?」
「ええ」
プチトリアンのエントランス、荷をのせた地味な馬車を背にジェシカは微笑んだ。
空に小鳥がピチチと鳴く。
「でも、きっと危ないわ。ずっとここにいたらいいのに」
「そうね、危ないわね」
見送りに出たイワンの横で、不服そうに顔を曇らせたアーリアに頷いてみせる。
「それでも、わたくしは帰るべきなのよ」
「ねえ、イワンからも何か言ってよ」
実家父の悪政はいよいよひどくなり、誰も諌めるものはいなくなった。表向きは。王に反発する者たちは、こっそり造反を計画しているという情報を、ハインリッヒから入手したジェシカは、ならばその御輿に自分が乗ってやろう、と思いたった。
「昔は父が怖かったけれど、逃げている場合じゃないって気が付いたのよ。わたくしはアールの王女なのだもの。イワンさまの隣にはもうアーリアがいるし、未練も何もないわ」
「でも……でも……」
もどかしそうに身を捩ると、「ねえ、何か言ってよ」とイワンを見上げた。
イワンは優しく微笑むと、その赤毛をポンポンと叩く。そしてジェシカに向き直った。
「道中、気を付けて。いざとなれば、フィンネルは全力を上げて君に協力する」
「ありがとう」
男同士のようにがっしり手を握り合った後、隣のグズグズ泣いているアーリアをそっと抱きしめる。
「さようなら、アーリア。いつか我が国に平穏が来たら、遊びにいらしてね」
「うん……うん、絶対よ」
母と再会した迷子のようにジェシカにしがみついていたアーリアは、どさくさにまぎれて鼻水を拭き、そっと離れた。
「神の御加護を」
笑顔一つ残して、ジェシカは馬車に乗り込んだ。車体が大きくたわむ。
「そうだ、これ。餞別」
ポンと車内に放りこまれたものを受け取ったと同時に馬車が走りだした。
「ジェシカ~~~~」
アーリアの声が聞こえたが、残念ながら窓は身を乗り出すのには小さすぎ、手を伸ばしてそれに応える。その内、声は小さくなった。
ふと餞別を見てジェシカは、思わず噴き出した。
「確かに素敵なプレゼントだわ」
スモールウッド社の「スグヨクナール」を片手にひとしきり笑った後、ジェシカは改めて決意した。
アーリアとイワンは神に逆らってまで己を貫き、幸せを手に入れた。
これから自分がなすべきことは、きっとつらく困難だろう。
それでもわたくしは貫いてみせる。あの2人のように。
見ておれ、あのくそオヤジ。
疾走する馬車の中で、ジェシカは黒い顔で笑った。
この5年後、アールには初の女王が国民の喝采を受けて即位することになる。
「あーあ、いっちゃったぁ……」
煙を立てて走り去った馬車を見送りながら、アーリアはがっくりと肩を下ろした。
その肩を引きよせて、イワンが慰めるように軽く叩く。
「そうですとも。あのお姫さんは殺したって死にゃーしませんわ」
「弾力ではじき返されそうですものね」
後ろに控えていたジャックとリンジーに、アーリアは納得したように手を打った。
「そうね、その通りだわ」
3人まとめてかなり失礼である。
「いつかまた会えるさ」
「うん」
「そうとなれば、レッツ・パーリィタイム!」
跳ねるようにチョコチョコとジャックが踊り、いやにもったいぶってお辞儀をする。
「今日はお2人の最良の日。さあさ、皆さまお待ちかねですぞ」
「そういえば」
アーリアの手を取り、自分の腕にかけたイワンが思い出したように言った。
「ボレー子爵から、カロッサのリベンジを申し込まれた。勿論、受けて立つ」
「任せて、足の痛みなんてこれっぽっちもないもの! ほら見て!!」
「裾をまくりあげるな!! おれ以外の男が見たらどうする!!」
その光景をリンジー&ジャックは目を細めて見物している。
「またやっとりますなぁ」
「仲の良いことで何より何より」
アーリアvsジェシカの賭けに勝ったものの、思うよりも配当金は手に入らず、今度はサロッカのイワンペアvsボレーペアに張り込んだ2人。お互い顔を合わせ、薄い笑顔で頷きあい、そしてまたキャーキャー言い合っている主たちを見やる。そこへ。
「ねえ、主役が何しているの。遅いから様子見に来ちゃったよ」
ひょっこり顔を出したのはジークだった。
「アーリア、この度は兄上とのご結婚おめでとう。これからはお姉さまと呼ばせて下さい」
「まあ、お姉さまだなんて」
「待て待て待て待て」
頬を染めるアーリアを押しのけると、イワンは弟を睨みつけた。
「その『お姉さま』に、ふんだんに個人的感情が挿まれていないか?」
「別に? 全然? 嫌だなあ兄上、そんなのコレッポッチモアリマセンヨー」
「嘘くさい! その棒読みは明らかに嘘くさい!!」
「へへっ」
くるりと身を翻したジークは、今度は伸びあがってアーリアの耳にささやいた。
「ぼくさ、諦めるのを止めるよ。チャンスはいつか来るかもしれないんだも……いたたたたた痛い!」
「父上たちにはすぐに伺うと伝えておけ」
ひっぱられた耳に手を当てて、しばらくブツブツ呟いていたジークは
「それじゃあ、お姉さま、後でね」
とアーリアにめくばせをして去っていった。
「なんだあいつは」
「あたしがお姉さまだって……」
顔を顰めるイワンに対し、末っ子だったアーリアはそちらの方が嬉しかったらしい。
その時、ポンポポンと小さな花火が上がる。しびれを切らした両親が開始の合図を出したのだろう。
「しまった、始まってしまった。おい、走るぞ」
「うん!」
ドレスの裾を持って、差し出されたイワンの手を掴む。
あの時の様な、刺されるような痛みはまったく感じない。空を飛ぶように駆けることができる。
今日はあたしたちの最良の日。
そんな日々をこれから積み上げていくんだわ。
どこまでも続くエメラルド色の海も、祝福するかのように遠く輝いていた。
end
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