第一話 返信
母から「今日はありがとう」と届いた。
写真の食卓には、私の好きだった料理と、私の手が写っていた。
右の親指、その付け根にある白い傷。小学校の工作でカッターを滑らせた跡だった。写真の手は箸を持っていて、茄子をひとつ、皿から取ろうとしていた。
私は会社の給湯室にいた。
電子レンジの中では、買ってきた弁当が回っていた。残り二十七秒。隣の冷蔵庫に、誰かが置き忘れたヨーグルトが入っていた。そこだけ水滴のついた棚まで見てから、もう一度写真を開いた。
母の家の食卓だった。
端の剥げたテーブル。窓際の炊飯器。私が出ていってからも片づけていない、椅子の背の青い座布団。
指を広げて画像を大きくした。写っているのは手と、灰色の袖だけだった。似た傷のある他人かもしれない。昔の写真かもしれない。
「これ、いつの?」
送ると、すぐ返事が来た。
「さっき。ちゃんと電車乗れた?」
弁当が温まった。
私は扉を開けずに、母に電話した。
*
「忘れ物?」
最初の声が、いつもより明るかった。
向こうで水が流れていた。食器を洗っているらしい。金属の流しに何かが当たり、母が「ああ、もう」と小さく言った。
「私、今日行ってないよ」
水の音が止まった。
「何?」
「その写真。今日じゃないでしょ」
「だって、さっきまでいたじゃない」
母は笑った。私も、何かの勘違いに合わせるように、短く笑った。
「今、会社」
「そう。まだ戻るって言ってたものね」
そう言えば、辻褄は合う。
けれど、今日は昼休みにも外へ出ていない。隣の席の三浦さんと、机でパンを食べた。午後はずっと会議室で資料を直していた。会社から母の家までは、電車を乗り継いで一時間近くかかる。帰って食事をして、今ここにいる時間はなかった。
「誰が来たの。名前、言った?」
「名前って。遥でしょう」
「顔、ちゃんと見た?」
「見たわよ」
声から笑いが消えた。
「変な電話ね。どうしたの」
私のほうが、母を怖がらせていた。
知らない人を家に上げてしまったのかもしれない。そう思って、来た人にお金を渡していないか、何かの書類を出していないか聞いた。母はひとつずつ、ない、と答えた。最後には少し怒った。
「一緒にご飯を食べただけ。あんたが、久しぶりに」
後ろの言葉は、聞こえなかったことにできた。
「玄関、鍵かけて。誰か来ても、開ける前に私に電話して」
「さっきも言ったよ」
「何を?」
「知らない人には開けないでって。遥が」
給湯室の入口で三浦さんが立ち止まった。私が片手を上げると、彼女はマグカップを持ったまま廊下へ戻った。
母には、あとでまたかける、と言った。
弁当のふたを開けると、水滴が袖に落ちた。写真と同じ灰色のカーディガンだった。
*
三日前、母から連絡が来ていた。
「今週は帰ってくる?」
その下に、「茄子もらった」とあった。
読んだのは帰りの電車だった。窓に映った自分の顔を見て、今は返せない、と思った。
行けると返せば、いつ来るか聞かれる。行けないと返せば、体を壊していないか、食べているかと聞かれる。どちらにしても、母は悪くない。答えを打っているうちに、乗り換えの駅をひとつ過ぎた。
ちゃんと返そうと思って、書きかけを消した。
次の日は、帰宅してコートを脱ぐ前に床へ座った。お湯を沸かしている間だけのつもりで目を閉じたら、夜中だった。
その次の日には、返信しなかった理由まで必要になっていた。
送る文を考えるたび、頭の中の母が「忙しいならいいのよ」と言った。その声を聞きたくなくて、画面を伏せた。
電話を切ったあと、母とのやり取りを上から読み直した。
私が送ったことになっている返事は、なかった。
三日前の問いかけ。今日の写真。その間は空いていた。
誰かが私のアカウントを使ったのかと思い、パスワードを変えた。送信履歴も見た。ほかにおかしいものは見つからなかった。
「電話した?」
母に聞いた。
「誰に?」
「今日来る前に、私から連絡あった?」
「なかったよ。急に来たの。驚いたって言ったでしょう」
私は会社の窓に映る自分を見た。灰色の袖。片側だけ潰れた髪。親指の傷。
写真の手には、指輪も腕時計もなかった。私もしていない。
「明日、そっち行く」
母から届いた返事は、一行だった。
「無理しなくていいよ」
その文字を見て、肩から力が抜けた。
おかしなことが起きているのに、私は少し、助かったと思った。
母は今日、ひとりで夕食を食べずに済んだ。私は今から会議室へ戻れる。冷めた弁当を捨てずに済む。
明日、確かめればいい。
そう思ったことを、誰にも言いたくなかった。
*
翌朝、母からまた写真が届いた。
玄関の電球だった。
「明るくなった」
写真の下に、母が打ち直したらしい短い文章が続いていた。
「昨日のうちにお礼言うの忘れてた」
半月前から、玄関が暗いと言っていた。脚立を出さないで、私がやるから、と返した覚えがあった。
私は通勤電車の中で、電球の売り場を調べた。何を買えばいいのか分からなかった。母の家の器具を覚えていなかった。
昼休みに電話をした。
昨日の訪問者は食器を洗い、玄関の電球を交換し、冷凍庫の引き出しを直したらしい。閉まりにくいのは袋が奥で引っかかっていただけ、と母は言った。
「あと、お父さんの」
そこまで言って、母がやめた。
「何?」
「ううん。もう話したから」
父が死んで二年になる。
母は時々、同じ話をした。最後に病院へ持っていった着替えのこと。帰る前に、何か言いかけたように見えたこと。私はそのたび、母が何を悔やんでいるか分かったつもりで、できることはしたよ、と答えていた。
いつも、その言葉のあとは静かになった。
「昨日、私、何て言った?」
母は困ったように息を吐いた。
「そんなに心配しなくていいの。ちゃんと聞いてもらったから」
何と言ったのか、教えてくれなかった。
電話を切る前、母が尋ねた。
「今日も遅い?」
私は会社の時計を見た。
夕方までに直すよう頼まれた資料があった。三浦さんの机にも、同じ赤字の入った束が積まれていた。
「行く。終わったら行くから」
声が大きくなった。
母は少し黙ってから、分かった、と言った。
*
六時を過ぎてから、資料の修正が増えた。
画面に並んだ指示を読んだ。ひとつなら十分で済む。ひとつずつ全部やれば、いつもの時間になる。
鞄の中の携帯が震えた。
母だと思って開いたら、通販の知らせだった。
私は三浦さんに、今日中には終わらない、と言った。
言ってから、机の上の空気が変わるのを待った。
彼女は資料を見て、それから私を見た。
「じゃあ、残りは明日の朝だね」
それだけだった。
上司にも同じことを伝えた。急ぎの二か所だけ直し、残りの位置に印をつけた。三浦さんに渡さず、自分の机の真ん中に置いた。
会社を出てから、足が少し震えた。
私は母の家に行く。何があったのか、顔を見て聞く。ちゃんと帰れなかったことも、電話を短く切りたかったことも話す。
父の話が同じところに戻っても、今日は途中で結論を言わない。
駅前の店で、母の好きなみかんを買った。ネット入りのものは多すぎる気がして、ばらで四つ選んだ。
電車の中で、母に「今から行く」と送った。
返事はなかった。
*
母の住む団地には、七時半を少し過ぎて着いた。
階段の踊り場に、干したままの雑巾があった。隣の家のテレビが聞こえた。子供のころから変わらない匂いがした。
玄関のすりガラスは、記憶より白く明るかった。
鞄から鍵を出したところで、声が聞こえた。
母が話していた。
「それでね、帰りに買おうと思ったのに」
言葉の途中で笑っていた。
返事があった。
「また忘れたんでしょ」
私の声だった。
鍵の先が、錠のまわりを擦った。
持ち替えて、もう一度差した。いつもの鍵だった。回った。
扉を引くと、途中で止まった。内側のチェーンが張り、金属がぶつかる音がした。
台所の会話が止まった。
「お母さん」
私は隙間に顔を寄せた。
電球が新しかった。靴箱の上に置いてある父の折り畳み傘まで、はっきり見えた。
母が廊下へ出てきた。
「遥?」
私の名前を呼んだ。
そのことがうれしくて、私は笑おうとした。
「来たよ」
母はチェーンに手を伸ばしかけた。その指が、途中で止まった。
奥を振り返った。
「今、誰がいるの」
私は聞いた。
「誰って」
「私じゃないよ。そこにいる人」
母の顔に、昨日の電話のときと同じ困り方が浮かんだ。
廊下の向こうで、椅子を引く音がした。
「お母さん、いいから」
私の声が言った。
母はすぐには動かなかった。私の顔を見ていた。
「今まで、返事しなくてごめん」
言うつもりだった言葉が、こんな場所で出た。
「疲れてた。でも、それだけじゃなくて。ちゃんと聞かなきゃって思うと、電話するのが嫌になるときがあって」
母の目が少し動いた。
私は続けた。
「お父さんの話も、何回も同じこと言うなって、思ったことがある。でも、今日は」
母が、チェーンから手を下ろした。
「今、せっかくあの子が話してくれてるから」
その声は小さかった。
怒ってはいなかった。ただ、邪魔をしないでほしいときの声だった。
私はみかんの袋を持ち上げた。透明な袋の中で、四つが転がった。
「買ってきた」
母はそれを見て、少し眉を下げた。
「ありがとう。でも、今日はもう」
奥から足音がした。
母の肩の向こうに、灰色の袖が見えた。右手が母の背中にそっと触れた。親指の付け根に、白い傷があった。
その手が動くとき、私の親指も少し曲がった。
力を入れて伸ばした。
「お母さん」
母は私を見たまま、扉をゆっくり押した。
顔の見える幅が狭くなった。
私は手を挟まないように引いた。
*
階段には座るところがなかった。
踊り場の端に立って、母に電話した。
中で呼び出し音が鳴った。テレビが少し小さくなった。母が何か言い、私の声が答えた。
呼び出しが切れた。
私は画面を見た。通話はつながっていなかった。
知らない女が母の家にいる、と相談しようと思った。母を外へ連れ出してもらえばいい。顔が似ているだけなら、私の身分を確かめてもらえばいい。
電話をかける前に、玄関の向こうをもう一度聞いた。
母が泣いていた。
私は袋を持ったまま、扉へ戻った。
「最後に、何か言おうとしてたのよ」
いつもの話だった。
私は息を止めた。母は、今までにもこの先を話していたのかもしれなかった。私が先に答えてしまうので、聞こえなかっただけで。
「水、だったのかなって。お水が欲しかったのかなって」
向こうの私は、何も言わなかった。
母が鼻をすすった。
しばらくして、ティッシュを取る音がした。
私は、何か言ってくれ、と思った。
間違ったことを。母が嫌がることを。娘ならそんなふうにしないと、誰にでも分かることを。
「ずっと気になってたんだね」
私の声が言った。
母が、うん、と答えた。
その返事を聞いたとき、ここで扉を叩けば、母はどちらを怖がるだろうと思った。
私は自分の電話番号のある画面を開いた。名前も、住所も、会社も変わっていなかった。明日は私の机に、直していない資料がある。
玄関の前にみかんを置いて、少し離れた。
すぐには帰らなかった。
ここに来たことまで、あれのしたことにしたくなかった。
母にメッセージを打った。
「玄関のみかんは、私が持ってきた。四つある」
読み返して、送った。
扉の向こうで通知音が鳴った。
少しして、母が言った。
「みかん、買ってきてくれたの?」
私の声が答えた。
「うん」
母が笑った。
「ありがとう、遥」




