世界の終わりは、鳩の巣立ちのあとで
「今日はねー、麦茶!」
やめろ。
と言いたいが、口がない。女子高生が飲みかけのペットボトルを逆さにして、俺の根元に麦茶をどぼどぼ注いでいく。昨日は炭酸水だった。根っこが一日じゅうしゅわしゅわして、まったく落ち着かなかった。
「麦茶は体にいいんだって。ばあちゃんが言ってた」
それは人間の話だ。
俺は世界樹である。
渋谷のスクランブル交差点の、ど真ん中に生えている。
もう一回言う。スクランブル交差点の、ど真ん中だ。
前世のことはあんまり覚えていない。三十いくつの、たぶん冴えない男だった。最後の記憶はコンビニのレジで「あたためますか」と聞かれて「はい」と答えたところで、あたたまったのが弁当だったのか俺だったのか、そこから先がない。
目が覚めたら、これだった。
幹の、ちょうど人の目の高さに、ラミネート加工したA4の紙が画鋲で留めてある。
この木が枯れると世界は終わります。
水は一日一回。
管理者
誰だ、管理者。
画鋲を刺すな。地味に痛いんだよ。
ただ、書いてあることは本当らしい。根の感覚でわかる。俺の根は渋谷の地下を好き放題に這いまわり、東横線と副都心線と半蔵門線をまとめて抱きかかえ、そこからさらにどこまでも伸びて、世界じゅうの何か大事なものにがっちり絡みついている。俺が枯れたら、ぜんぶ一緒にぷつんといく。
なるほどね、と思った。
じゃあ枯れよう、とも思った。
枯れたい理由を挙げておく。
一、動けない。
二、鳩。
三、毎晩、酔っぱらいが根元で吐く。
四、外国人観光客が俺を背景に自撮りして、そのたびに「ワーオ」と言う。一日推定四千ワーオ。
五、犬。
六、鳩。
七、動けない。
一と七、二と六がかぶっているが、大事なことなので二回書いた。
ちなみに交差点はもうスクランブルではない。みんな俺をよけてぐるっと回るので、ネットでは「渋谷ロータリー」と呼ばれている。俺のせいで地図アプリが三回アップデートされた。
麦茶の女子高生は、名前を千代子という。
「チョコって呼んで。千代子はばあちゃんの名前なの。ばあちゃんの名前をもらったの。ひどくない?」
ひどいかどうかは知らないが、毎朝、聞いてもいないのに自己紹介の続きをしてくる。高一。帰宅部。好きなものはグミと、ばあちゃんと、ばあちゃんちの柴犬。
なんでこいつだけが水をやりに来るのかというと、張り紙を読んだのがこいつだけだからだ。
ほかの通行人は、俺のことを新しい広告だと思っている。もしくは現代アート。もしくはドッキリ。区役所の人ですら「誰が貼ったんですかねえ、これ」と言って張り紙の写真を撮って帰った。読んだなら水をやれ。
「だって書いてあるじゃん、枯れたら世界終わるって。終わったら困るじゃん。来月ライブあるし」
世界の命運がライブに救われている。
さて、枯れ方だが。
これがわりと簡単で、根の先っぽをきゅっと閉じればいい。水を吸うのをやめるだけ。三日もあれば、たぶんいける。
初日の夜、俺はきゅっとした。
翌朝、チョコが言った。
「明日、数学の小テストなんだよねー。世界終わったら、なくなるかな」
お、と思った。なくしてやろうか。感謝しろ。
「でもさあ、今回めっちゃ勉強したんだよね。人生でいちばん勉強した。だから受けたい」
受けたいのかよ。
しかたがないので根をゆるめた。小テストは、明日でいい。いや、明日終わるから、あさってでいい。もう一日だけ待とう。
ちなみに小テストは十点満点の四点だったらしい。人生でいちばん勉強した結果が、四点。俺は二日分の世界を、四点のために延長した。
実がなった。
鳩にキレていた日のことだ。俺のいちばん低い枝に巣を作ろうとしやがった鳩を、枝をゆすって追い払おうとして(ゆすれない。動けない)、ものすごくイライラしていたら、ぽこん、と枝の先に青い実がひとつぶら下がった。
チョコは迷わずもいで、迷わずかじった。
迷え。
「すっぱ! え、なにこれ、めっちゃキレてる味する」
そうらしい。
いろいろ試してわかったのは、俺の実は、俺がそのとき考えていることの味がする、ということだった。鳩のことを考えると、すっぱい。昼寝していると、ぬるい。夜中にふと、前世で一回だけ行った北海道の、朝市で食べたイクラ丼のことを思い出したら、翌朝の実はしょっぱくてぷちぷちしていて、チョコは「キモい! でもおいしい!」と言った。
これは使える、と思った。
口がなくても、実で話せる。
その夜、俺は全力で「もう枯れたい」と考えて、実をひとつ作った。
翌朝、チョコがかじった。
「……なんか、日曜の夜の味がする」
だいたい合っている。合っているが、伝わっていない。
「月曜やだよね。わかる」
わかってない。
この時期、テレビの人がよく来た。
朝の情報番組のリポーターが、俺の前で「こちらが話題の謎の巨木です!」と叫んで、そのあと「なお、この木の実を食べた女子高生がいるとの情報が」と言ったところで、カメラの端からチョコがピースして出てきた。
放送事故だった。
チョコはその日のうちに学校で有名人になって、次の朝、友達をふたり連れてきた。ふたりとも、実をかじった。
「ほんとだ、なんか眠い味」
「わたしのは、なんか、ちょっと照れてる味する」
照れてない。
枯れようとした回数を数えておく。
一回目、数学の小テスト。
二回目、チョコが「明日、ばあちゃんちの柴犬の誕生日なんだよね」と言った。犬の誕生日は世界の終わりより優先される。俺の中ではそういうことになった。
三回目、鳩が巣を作った。結局作られた。卵が二個あった。鳩は嫌いだが、卵に罪はない。ヒナが巣立つまで待った。二十五日かかった。
四回目、チョコが風邪で休んだ。水が来なかった。勝手に枯れかけた。それはちょっと違う、と思って、地下の水道管から勝手に水を吸った。たぶん東京都水道局は今ごろ首をかしげている。
五回目は、理由を忘れた。
チョコが風邪から戻ってきた日、マスクをしたまま、俺の根元にしゃがみこんで、言った。
「ねえ、ブル」
ブルというのは俺のことだ。スクランブルのブル。俺の意見は聞かれていない。
「ブルってさ、動けないじゃん。つまんなくない?」
つまんないよ。だから枯れようとしてんだよ。
「わたし、三日寝てただけで死ぬほどつまんなかった。天井のシミ数えてた。四十二個あった」
そうか。
俺の天井は、渋谷の空だ。シミのかわりにヘリが飛んで、ビルの広告が三十秒ごとに変わって、夜になると、ネオンで空がずっとピンク色をしている。数えようと思ったことはなかった。
チョコはマスクをずらして、新しくなっていた実をかじった。
「あ、今日のはわかんない味」
俺にもわからなかった。
次の朝、チョコはでかい袋を抱えてやってきた。
「ブル! ばあちゃんちのホームセンターで買ってきた!」
ばあちゃんちのホームセンターってなんだ。ばあちゃんの家にホームセンターがあるのか。
袋には「よく効く! 植物の元気」と書いてあった。肥料だった。
チョコはそれを、袋ごと全部まいた。
説明書きには、たぶん「ひとつまみ」と書いてあったと思う。
その日の午後、俺は三メートル伸びた。根が広がって、交差点のアスファルトがめくれて、渋谷109が、ほんの少しだけ傾いた。ほんの少しだ。たぶん二度くらい。ニュースでは「一時的な地盤の変動」と言っていた。
チョコは夕方、傾いた109を見上げて、「斜めのほうがかわいくない?」と言った。
その夜、俺は根の先をきゅっとしようとして、ふと考えた。
明日、チョコは友達を四人連れてくるらしい。四人ぶんの実がいる。
何味にするか。
一人目は、まあ、イクラ丼でいい。あれは評判がよかった。二人目は、前世で好きだった駄菓子の、名前が思い出せない、ソーダ味のやつ。三人目は、えーと、
考えているうちに、夜が明けた。
枯れるのを忘れていた。
鳩は、また巣を作りはじめている。




