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手遅れた綻び

「……もう、限界です」

 深夜の王宮。財務次官を務める老貴族は、誰もいない執務室でぽつりと呟き、手にしたペンを静かに置いた。

 彼の前にある机の上には、一通の丁寧な「退職願」が置かれている。

 エリザベートが去ってから三週間。王国の機能は、目に見える形で崩壊を続けていた。

 アウグスト公爵家が国への全支援を打ち切ったことで、国家予算の約四割が消失。さらに、公爵家系の優秀な官僚や、彼らを慕っていた実務派の役人たちが、この半月で雪崩を打つように辞職していった。

 今や王宮に残っているのは、第二王子レイナルドに媚びを売るだけの無能なイエスマンか、転職先が見つからず泥舟に取り残された哀れな下級役人だけである。

「お疲れ様でございます、閣下。……荷物の準備は整いました」

 闇に紛れて現れた部下が、静かに告げる。

「うむ。お前たちも、早くこの国を出るのだ。バルドル帝国へ行けば、エリザベート様が構築された新しい内政部門で、我々の能力を正当に評価して雇ってくださる。これ以上、あの愚王子の我が儘と、自称・聖女のドレス代のために命と税金を削る必要はない」

「はい。……あのお二人は、未だに事態の深刻さに気づいておられないようですね」

「ふん。現実を見る知性すら持ち合わせていないのだ。手遅れになる前に、我々は失礼させてもらおう」

 その夜、王国を支えていた最後の「頭脳」たちが、誰にも告げずに王都を去っていった。

 翌朝。

 そんな王国の危機的状況など、どこ吹く風。第二王子の私的サロンでは、なんとも優雅で、そして極めて滑稽な会話が交わされていた。

「殿下ぁ、見てくださいぃ! この新しく仕立てたドレス、とっても可愛いでしょう?」

 マリアは、シルクとレースをふんだんに使い、ふんだんなフリルをあしらった目の覚めるようなピンクのドレスをひらひらと揺らし、レイナルドの前で嬉しそうにクルクルと回ってみせた。

 そのドレスの胸元には、アウグスト公爵家から強奪した、一国が買えるほどの価値がある極上のダイヤのブローチが光っている。

「おお、マリア! 実によく似合っているよ! やはり、我が国に咲く可憐な一輪の薔薇には、そのくらい豪華なドレスがふさわしい!」

 レイナルドは鼻の下を伸ばし、マリアの手を取って引き寄せた。

「でもね、殿下ぁ……。仕立て屋の人が、なんだか浮かない顔をして『生地の代金がまだ支払われていません』なんて失礼なことを言うんですぅ。私、聖女様なのに、そんなケチなことを言われてとっても悲しくなっちゃいましたぁ……」

「何だと!? たかが平民の商人が、未来の王妃であり聖女であるマリアに対して何という無礼を! すぐに財務部から金を支払わせよう!」

「わぁ、嬉しいですぅ! やっぱり殿下は私のヒーローですぅ!」

 マリアはキャッキャと声を上げてレイナルドの首にしがみついた。

 しかし、その様子を扉の隙間から見ていた新しい財務部長(前財務部長が更怠されたため、急遽引き立てられたレイナルドの腰巾着)は、胃を掻きむしりたい衝動に駆られていた。

(払えるわけがないだろうが、この大馬鹿野郎ども……!)

 すでに王国の金庫は底をついている。

 魔獣の襲撃による復旧費用、騎士たちの危険手当、さらには物資の滞りによる物価の高騰。それら全てを解決するための資金がないのだ。

 それにもかかわらず、レイナルドはマリアにねだられるまま、毎日贅沢な宝石やドレスを買い与え、その支払いをすべて「国費」で処理させていた。

「し、失礼いたします、レイナルド殿下……!」

 財務部長は、血の気の引いた顔で部屋に踏み込んだ。

「何だ、騒々しい。今、マリアと良いところなのだが」

「申し訳ございません! しかし、緊急事態にございます! ……本日、王宮の高級官僚および財務部の実務担当者、計42名が『一斉に辞職』いたしました! 現在、どこの部署も機能しておらず、税の徴収や物資の配給計画が完全に麻痺しております!」

「はぁ? また辞めただと? あいつら、この僕に対する反逆のつもりか! 代わりの者など、下からいくらでも引き上げればいいだろう!」

「それが……引き上げようにも、まともに読み書きや計算ができる優秀な人材は、すでに全員がアウグスト公爵家を頼って『バルドル帝国』へ亡命してしまっているのです……!」

「な、何だと……!?」

 レイナルドの顔が、初めて驚愕に歪んだ。

「さらに、帝国の情報によれば、我が国を去ったエリザベート様は、あちらで『ザクセン領の瘴気を一瞬で浄化し、奇跡の女神として崇められている』とのことにございます。帝国皇帝ジュリアス陛下は、彼女を次期皇后として迎えるべく、熱烈に求婚されているとか……」

「お、お姉様が、皇后に……?」

 マリアの声が、一瞬にして嫉妬と憎悪で尖った。

 男爵家のハズレ娘である自分が、ようやく王子の婚約者の座を手に入れて勝ち誇っていたというのに。あの「可愛げのない冷血女」が、自分よりも遥かに格上の『帝国の皇后』になろうとしている?

「そんなの嘘ですぅ! お姉様がそんな凄いことできるわけありません! きっと、お姉様があの恐ろしい皇帝陛下を、悪い魔法で騙しているに違いありませんわ!」

「そうだ、その通りだマリア!」

 レイナルドも、プライドをズタズタに引き裂かれ、顔を真っ赤にして叫んだ。

「あの傲慢女が、帝国の皇后など片腹痛い! そもそも、帝国がそれほど豊かなのは、エリザベートが我が国から持ち逃げした『技術』や『公爵家の資金』があるからに決まっている! あいつは我が国から富を盗み、それを手土産に帝国へ寝返ったのだ!」

 どこまでも都合の良い、現実逃避の妄想。

 しかし、今のレイナルドには、その妄想こそが唯一の心の拠り所だった。

「許せん……! 泥棒め! 国を裏切り、僕をコケにした罪、万死に値する! ……おい、今すぐバルドル帝国に使節団を送る手配をしろ!」

「えっ……? は、使節団、でございますか?」

 財務部長が呆然と問いかける。

「そうだ! 帝国に対し、我が国の『盗まれた技術と資産』、そして国家反逆人であるエリザベートの身柄を引き渡すよう、厳重に抗議するのだ! 応じなければ、ただでは済まないと脅してやれ!」

 もはや、正気の沙汰ではなかった。

 軍事力、経済力、魔導技術。すべてにおいて帝国の方が圧倒的に上であるにもかかわらず、滅びかけの小国が「身柄を返せ」と要求するというのだ。

「ふふ、そうですわ、殿下! 泥棒お姉様を連れ戻して、みんなの前で土下座させてやりましょう!」

 マリアは手を叩いて喜び、レイナルドの胸で悪魔のように微笑んだ。

 王国を支える最後の手が完全に離れ、手遅れとなった綻びは、一気に奈落の底へと広がり始めていた。

(第8話へ続く)

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