番外編:休憩室での雑談 ~美しさの暴力、多様性の暴力~
(4人の対談者がスタジオ裏の休憩室に移動している。休憩室はスタジオとは打って変わって飾り気のない空間だ。長テーブルの上にコーヒーポット、ミネラルウォーター、サンドイッチが並んでいる。壁掛けの大型モニターには、ニュース番組が音声付きで流れている)
(ダ・ヴィンチはコーヒーを手に取り、椅子に深く腰かけている。グールドはサンドイッチを頬張りながらモニターを眺めている。ディラックはミネラルウォーターのボトルを前に置き、静かに座っている。利休はスタッフが用意してくれた湯飲みの茶を、両手で包むように持っている)
(モニターのニュースが切り替わる。女性キャスターの声が流れる)
『――次のニュースです。SNS上で外見を理由にした中傷を受けていた高校生が自ら命を絶った事件について、学校側は"いじめの認識はなかった"と――』
(グールドの手が止まる。サンドイッチを置き、モニターに目を向ける)
『――続いて、多様性推進を掲げる企業で、従来の価値観を持つ社員が"考え方が古い"として職場で孤立し、退職に追い込まれたとして訴訟を――』
(4人の間に、本編とは異なる種類の沈黙が流れる。テーマについて準備してきた沈黙ではなく、予期していなかったものに出くわした時の沈黙)
グールド:「……」
(グールドがコーヒーカップを手に取り、一口飲んでから口を開く)
グールド:「……今夜、我々は"究極の美しさ"について語り合った。2時間かけて"美とは何か"を追い求めた。しかしあのニュースを見ると、美しさという概念そのものが、ある場面では暴力になっている」
ダ・ヴィンチ:「……ああ。聞いていたよ。外見を理由に中傷されて、若い人が命を絶った、と」
グールド:「ルッキズムだ。外見至上主義。見た目で人の価値を測り、"美しくない"と判断された者を排除する。我々が今夜語った"美"とは、まるで別の生き物のように使われている」
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ダ・ヴィンチ:「ルッキズム、か。……正直に言えば、私の時代にもあった。いや、あったどころではない。ルネサンスのフィレンツェは、美しさが権力と直結した都市だった」
グールド:「どういうことですか?」
ダ・ヴィンチ:「美しい人間は神に愛されている、と人々は信じていた。端正な顔立ちは徳の証であり、醜さは罪の徴だとされた。これは古代ギリシャからの伝統でもある。カロカガティア――"美しいものは善い"という思想だ。私自身、若い頃は美男子だと言われ、それが工房での立場を助けたことは否定しない」
グールド:「(苦笑して)進化生物学的にも、美しい人間は社会的に優遇される傾向がある。"ハロー効果"という心理学の概念があって、外見が魅力的な人間は知性や誠実さも高く見積もられるんだ。これは実験で繰り返し確認されている」
ダ・ヴィンチ:「つまり、美しい者が得をする仕組みは、脳に組み込まれていると」
グールド:「残念ながら、そうだ。対称的な顔を好むのは進化の遺産だし、身体的に魅力的な相手に好感を持つのは、数百万年の自然選択の結果だ。しかし――ここが重要だが――"傾向がある"ことと、"そうすべきだ"ということは、まったく別の話だ」
ディラック:「……自然法則と規範の違いですね」
(全員がディラックの方を向く。本編後の疲れもある中で、ディラックが自発的に発言したことに軽い驚きがある)
ディラック:「物理法則は"世界はこうである"と記述します。しかし"世界はこうあるべきだ"とは言わない。リンゴが落ちるのは重力の法則ですが、リンゴが落ちるべきだとは言わない。グールドさんが言いたいのは、"美しい人を好む傾向がある"という事実は、"美しくない人を排除してよい"という規範にはならない、ということでしょう」
グールド:「先生、完璧な要約だ。まさにそうだ。これは哲学で"自然主義的誤謬"と呼ばれている。"である"から"べきである"は導けない。ヒュームの法則だ。進化がそうさせているからといって、それが倫理的に正しいわけではない」
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利休:「……少し、よろしいですか」
(3人が利休の方を向く)
利休:「今のニュースで、若い方が外見を理由に命を絶たれた、と。私はその話を聞いて、一つ思い出したことがございます」
グールド:「何ですか?」
利休:「私の時代、茶の湯の世界では、道具の"格"が厳しく問われました。名物茶器と呼ばれる高価な道具を持つ者が上位に立ち、粗末な道具しか持たない者は茶席に招かれることすらなかった」
ダ・ヴィンチ:「道具の見た目で人の値打ちが決まる、と」
利休:「そうです。美しい道具を持つ者が偉い。美しくない道具は価値がない。これは、今おっしゃっている"ルッキズム"と同じ構造ではありませぬか。人の外見を道具の格に置き換えただけで」
グールド:「……なるほど。同じ構造だ」
利休:「私が侘び茶を始めた理由の一つは、そこにありました。名物茶器でなくとも、日用の器でも、竹を切っただけの花入れでも、美しい茶席は作れる。道具の格ではなく、もてなす心こそが茶の本質だと。見た目ではなく、在り方だと」
(少し声を落として)
利休:「しかし、正直に申せば、それは簡単なことではなかった。私自身、美しいものに惹かれる心を持っています。楽長次郎に茶碗を作らせた時、何十碗も見て、その中から"これだ"と選んだ。選ぶということは、選ばれないものを退けるということです。私もまた、何かを"美しくない"と判断し、除外した」
ダ・ヴィンチ:「利休殿、それは避けられないことではないか? 芸術家は常に選択する。この線を残し、あの線を消す。この色を使い、あの色を避ける。選択のない創造は存在しない」
利休:「おっしゃる通りです。しかし、茶碗を選ぶことと、人を選ぶことは違う。茶碗は選ばれなくても傷つかない。人は、傷つく」
(静かだが、芯のある声で)
利休:「美しさの基準を持つことと、その基準で人を裁くことの間には、越えてはならない一線がある。あのニュースの若い方は、その一線を越えた人々の犠牲になったのでしょう」
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グールド:「利休さんの言葉は重い。……そして、もう一つのニュースも考えなければならない」
ダ・ヴィンチ:「多様性の話だね」
グールド:「ああ。"考え方が古い"として孤立させられた人の話だ。これは、ルッキズムとは一見反対の方向に見えて、実は同じ構造の問題かもしれない」
ダ・ヴィンチ:「どういう意味だ?」
グールド:「ルッキズムは"見た目が美しい者だけが正しい"という排除だ。行き過ぎた多様性の推進は、場合によっては"多様性に賛同する者だけが正しい"という排除になりうる。排除の方向が逆なだけで、"基準に合わない者を排除する"という構造は同じだ」
ディラック:「……対称性の問題ですね」
グールド:「お、先生。説明してくれますか?」
ディラック:「ルッキズムは、ある種の美の基準を絶対化し、それに合わない者を排除する。これは対称性の破れの一形態です。しかし、多様性を絶対的な正義として、それに疑問を呈する者を排除するのも、対称性の破れです。……方向が逆転しただけで、構造は変わらない」
グールド:「先生、今夜は本当に冴えている。まさにそうだ。私はこれを科学の歴史からも説明できる」
(身を乗り出して)
グールド:「科学史には"パラダイムシフト"というものがある。トーマス・クーンの有名な概念だ。古いパラダイムが新しいパラダイムに置き換わる時、最初は新しいパラダイムの支持者が少数派として迫害される。しかし、新しいパラダイムが主流になると、今度は古いパラダイムの支持者が"時代遅れ"として排除される」
ダ・ヴィンチ:「つまり、抑圧されていた者が権力を持つと、今度は自分が抑圧者になる」
グールド:「そのリスクは常にある。多様性は本来、"すべての声に耳を傾ける"という理念のはずだ。しかし、いつの間にか"多様性という正義に同意しない声は聞かない"になるとしたら、それは多様性の自己矛盾だ」
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利休:「……茶の湯に、"和敬清寂"という言葉がございます」
グールド:「和敬清寂」
利休:「和は調和、敬は尊敬、清は清浄、寂は静寂。茶席では、身分の高い者も低い者も、にじり口という小さな入り口から身を屈めて入る。武士は刀を外す。茶室の中では全員が対等です」
ダ・ヴィンチ:「身分を脱いで入る空間、か」
利休:「しかし"対等"とは、"全員が同じ考えを持つべきだ"という意味ではありませぬ。茶席では、主人と客の好みが異なっていてよい。季節の花が好きな人もいれば、枯れ枝に美を見出す人もいる。大切なのは、相手の好みを"理解する"ことではなく、"敬う"ことです。理解できなくても、敬うことはできる」
グールド:「……それは重要な区別だ。"理解"と"尊重"は違う、と」
利休:「左様。今のニュースに当てはめるなら、"考え方が古い"と感じたとしても、その人の存在を敬うことはできるはずです。理解できないことと、排除してよいことは別の話です」
ダ・ヴィンチ:「利休殿の言う"敬"は、今の言葉で言えば"リスペクト"だろうか。同意しなくても、相手の存在に敬意を払うこと」
利休:「そうかもしれませぬ。そして、敬いの心がなければ、どんなに正しい理念も暴力に変わりうる。美しさの基準も、多様性の理念も、それを振りかざす者の手の中で刃物に変わるのです」
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ディラック:「……一つ、思ったことがあります」
(3人が自然とディラックに注目する。本編を経て、ディラックの発言を待つことに全員が慣れている)
ディラック:「物理学には"繰り込み"という手法があります。量子電磁力学の計算では、ある種の量が無限大に発散してしまう。そのままでは使い物にならない。しかし、発散する部分を適切に"繰り込む"ことで、有限で意味のある答えが得られる」
グールド:「(興味深そうに)それがルッキズムや多様性の話とどう繋がりますか?」
ディラック:「美しさを追求すること自体は無限に発散しうるものです。より美しく、さらに美しく、と際限なく追い求めれば、基準に満たないものへの排除もまた際限なく拡大する。多様性も同じです。より多様に、さらに多様に、と際限なく追い求めれば、多様性に賛同しない者の排除も際限なく拡大する」
ダ・ヴィンチ:「つまり、どちらも"無限大への発散"だと」
ディラック:「はい。必要なのは"繰り込み"です。発散する理念を、どこかで有限の現実に着地させる仕組み。物理学ではそれが数学的手法として確立されています。社会においてそれに当たるのは何か。……私にはわかりませんが、おそらく、利休さんが言った"敬い"のようなものではないかと思います」
グールド:「先生、それは見事なアナロジーだ。美しさの追求も多様性の追求も、それ自体は良いものだ。しかし"繰り込み"がなければ、発散して暴力になる。その"繰り込み"の役割を果たすのが、相手への敬意であると」
ディラック:「……うまく言えていたでしょうか」
グールド:「完璧です。いや、先生の言葉を借りれば"悪くない"ですね」
(全員が小さく笑う。本編の緊張とは異なる、くつろいだ笑い)
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ダ・ヴィンチ:「しかし、"敬い"と言うのは簡単だが、実践は難しい。私自身に問いかけてみよう」
グールド:「どういうことですか?」
ダ・ヴィンチ:「私は美しさの法則を追求してきた人間だ。黄金比、プロポーション、調和。これらは美の基準として、私が信じてきたものだ。しかし今夜の本編で、利休殿の侘びに触れて、"美の基準は一つではない"と学んだ」
(コーヒーカップを回しながら)
ダ・ヴィンチ:「問題は、"美の基準が複数ある"ことを認めた上で、それでも"何でもいい"とは言えないことだ。私はやはり、ある種の構図は他の構図より美しいと信じている。ある種のプロポーションは他のプロポーションより調和が取れていると信じている。この信念を手放す気はない」
グールド:「それは当然のことだ。自分の基準を持つことと、その基準を他者に強制することは別の問題だ」
ダ・ヴィンチ:「そう。しかし、その境界線はどこにあるのか? 私が"この構図は美しくない"と言った時、それは批評か、それとも排除か? 弟子の絵に"ここが駄目だ"と指摘する時、それは教育か、それともルッキズムの変形か?」
利休:「……ダ・ヴィンチ殿、その問いに対して、私の経験を一つ申しましょう」
ダ・ヴィンチ:「聞かせてくれ」
利休:「私は弟子に茶を教える時、厳しくあたりました。所作が雑であれば叱り、道具の扱いが粗末であれば戒めた。しかし、弟子の"人となり"は否定しなかった。"お前の点てた茶は拙い"と言うことは許される。しかし"お前は拙い人間だ"と言うことは、許されない」
ダ・ヴィンチ:「"行為"を批評することと、"存在"を否定することの違い、か」
利休:「左様。あのニュースの若い方は、外見という、自分では変えようのないものを否定された。それは行為への批評ではなく、存在への否定です。存在を否定されることほど、人を追い詰めるものはありませぬ」
グールド:「進化生物学的に言えば、外見は遺伝的要素が大きい。本人の努力で大幅に変えられるものではない。変えられないものを理由に人を裁くのは、生まれつきの肌の色で差別するのと構造的に同じだ」
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ディラック:「……もう一つのニュースについても、同じことが言えます」
グールド:「多様性に賛同しない人の話ですね」
ディラック:「はい。"考え方が古い"と言われた人は、自分の信念を否定されたのでしょう。信念を変えることは、外見を変えることよりは可能かもしれません。しかし、信念はその人の人生全体の上に築かれたものです。それを"古い"の一言で片づけることは、その人の人生を否定することに近い」
利休:「ディラック殿のおっしゃる通りです。信念とは、その人が長い年月をかけて編み上げてきた着物のようなもの。一朝一夕に織り変えることはできませぬ。"古い着物を脱げ"と言うことは簡単ですが、裸になれということと同じです」
グールド:「利休さん、良いたとえだ。そして、古い着物にも美しさがあるということを、今夜の本編で利休さん自身が教えてくれた。金継ぎの茶碗と同じだ。古いものには、新しいものにはない深みがある。それを"古いから捨てろ"と言うのは、金継ぎの茶碗を"割れたから捨てろ"と言うのと同じだ」
ダ・ヴィンチ:「なるほど。本編の議論が、ここで現実の問題と繋がるわけだね」
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グールド:「少し整理しよう。今夜の二つのニュースに共通するのは、"ある基準に合わない者を排除する"という構造だ。一つ目は"美しさの基準"による排除。二つ目は"多様性という基準"による排除。方向は正反対だが、排除の暴力は同じだ」
ダ・ヴィンチ:「そしてその根底にあるのは、"基準を絶対化する"という行為だ。美しさの基準であれ、多様性の理念であれ、何かを絶対的な正義にした瞬間、それに合わない者は排除される」
ディラック:「物理学には"絶対的な基準"は存在しません。アインシュタインの相対性理論が示したのは、すべての観測は観測者の立場に依存するということです。絶対空間も絶対時間も存在しない。存在するのは、異なる立場からの異なる記述と、それらを繋ぐ変換規則です」
グールド:「相対性理論を社会に適用するのは危険な面もあるが……"絶対的な正義は存在しない。存在するのは異なる立場と、それらを繋ぐルール"というのは、悪くない指針かもしれない」
利休:「"それらを繋ぐルール"。それが"敬い"ではないかと、私は思うのです」
(全員が一瞬黙る。利休の言葉が、議論の核心を静かに突いている)
利休:「美しさの基準を持つことは自然なこと。多様性を尊重することも大切なこと。しかし、どちらも"敬い"なしには刃物になる。人を見て"美しくない"と思うことは止められない。しかし、そう思ったとしても、その人の存在を敬うことはできる。人の考えを"古い"と感じることは止められない。しかし、そう感じたとしても、その人の歩んできた道を敬うことはできる」
ダ・ヴィンチ:「判断を止めることはできない。しかし、判断から排除への飛躍を止めることはできる」
利休:「そうです。その間に"敬い"を置くことで」
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グールド:「……ところで、面白いことに気づいたんだが」
ダ・ヴィンチ:「何だい?」
グールド:「今夜の本編で、我々4人は2時間にわたって互いの"美の基準"をぶつけ合った。黄金比、対称性、進化、侘び。全員が違うことを言っていた。しかし、誰も"お前の美の基準は間違っている、お前には価値がない"とは言わなかった」
ダ・ヴィンチ:「確かに。反論はしたが、排除はしなかった」
グールド:「そうだ。ディラック先生は利休さんの美学に最初は懐疑的だったが、排除はしなかった。むしろ"対称性の破れ"という自分の領域の概念を使って、利休さんの美学を理解しようとした。利休さんも、ディラック先生の方程式を"冷たい"と感じたかもしれないが、排除はしなかった。むしろ"永遠のものに心が動くか"という問いで対話を試みた」
ディラック:「……反論は排除ではない、ということですね」
グールド:「まさにそうだ。"あなたの意見は間違っている"と言うことは、"あなたには価値がない"と言うこととは違う。我々は今夜、激しく議論したが、誰も傷つけ合ってはいない。それは、互いの"存在"を否定しなかったからだ」
利休:「それが、茶の湯で言うところの"和敬"でございます。和は調和。敬は敬い。意見が異なっていても、互いを敬うことで調和は保たれる。調和とは"全員が同じになること"ではない。"異なるまま、共に在ること"です」
ダ・ヴィンチ:「"異なるまま、共に在ること"。それは、今夜のディラック先生の"調和"の定義にも通じるね。矛盾が共存する調和」
ディラック:「……はい。波と粒子が共存するように」
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(モニターのニュースが次の話題に移っている。4人はもうモニターを見ていない。しかし、先ほどのニュースが投げかけた問いは、まだ空気の中に漂っている)
グールド:「……さて。我々はこの話題について、何か"答え"を出しただろうか?」
ダ・ヴィンチ:「出していないだろうね。本編と同じだ。しかし、問い続けることに意味がある、と本編で自分が言った」
グールド:「(笑って)自分の言葉に縛られているな」
ダ・ヴィンチ:「(笑い返して)いい言葉を言ってしまった時の宿命だよ」
利休:「……一つだけ、申し上げてもよろしいですか」
グールド:「もちろん」
利休:「美しさの基準も、多様性の理念も、人の世が生み出したものです。しかし、人の世が生み出したものは、人の手で扱い方を変えることができる。刃物は人を傷つけるが、料理も作れる。美しさの基準は人を排除するが、人の心を豊かにもする。多様性の理念は人を孤立させるが、新しい出会いも生む」
(湯飲みを静かに置いて)
利休:「道具は使い手次第。茶碗は茶碗のまま。それを暴力の道具にするか、もてなしの器にするかは、持つ者の心にかかっている。……結局のところ、問われているのは"美しさとは何か"ではなく、"あなたはその美しさをどう使うのか"ではないかと」
(長い沈黙。コーヒーの湯気が静かに立ち上っている)
ダ・ヴィンチ:「……利休殿。あなたは今、2時間の本編よりも核心的なことを言ったかもしれない」
利休:「いえ。本編があったからこそ、今の言葉が生まれたのです。皆様との対話なしには、思い至りませんでした」
グールド:「それもまた"スパンドレル"だな。予定されていなかった副産物として、この休憩室の雑談から最も重要な結論が生まれた」
ディラック:「……悪くない結論です」
(全員が顔を見合わせ、笑う。本編の壮大な議論とは異なる、小さな、しかし確かな手応えのある笑い)
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(グールドがサンドイッチの残りを手に取り、一口かじる)
グールド:「ところで利休さん、さっきのお茶の残りはありますか?」
利休:「同じ味のものはもう点てられませんが、新しい一碗なら」
グールド:「それで十分だ。いや、その方がいい。一期一会、だろう?」
利休:「(微笑んで)覚えが早い」
(利休が立ち上がり、湯を用意し始める。ダ・ヴィンチがその手元を興味深そうに覗き込む。ディラックはミネラルウォーターのボトルを前に、静かに座っている。グールドがサンドイッチを頬張りながら、何かを考え込んでいる)
(休憩室の時計が時を刻む。モニターのニュースは別の話題に変わっている。しかし、この小さな部屋の中では、500年分の知恵が一碗の茶を待っている)




