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11話 これが天使の解体新書

 ヒュッ、と風を切る音。

 痩せぎすの男が突き出したナイフが、わたしの顔の手前でとまる。


 ――うん、わざわざ避ける必要なし。


 わたしは瞬きひとつせず、微動だにしなかった。

 普通の六歳児なら、悲鳴を上げて腰を抜かすところかな?

 でもね、わたしにはわかっちゃうんだ。


 そのへっぴり腰。

 中途半端な踏み込み。

 そして何より、そのナイフの軌道。


 最初から「当てる気がない」のが見え見えなんだよね。

 ただビビらせて、金を巻き上げたいだけの、チンピラの脅し。

 それじゃあ、わたしには勝てないよ。


 ちょっとこの世界の「戦闘システム」についてお話ししようか?


 もしここが、ありふれたRPGのような世界だったなら、わたしは今すぐ土下座してこのおじさんの靴をお舐めするしかない。

 だって、そういうゲームには大抵「防御力」や「HP」なんていう、ステータスが存在するでしょう?


 こちらの攻撃力が10で、相手の防御力が100なら、どれだけ急所を殴ろうがダメージは無慈悲な「0」。

 あるいは、HPが数千、数万とあって、首を斬りつけられても「HPが1%減りました」で済んじゃうような摩訶不思議な肉体構造をしていたりとかね。


 わたしもその手のゲームは嫌いじゃないけど、もし、そういった仕様なら、わたしはおじさんたちに逆立ちしたって勝てっこなかった。


 ――けれど。


 この『Gnosis Online』というクソったれな神ゲーには、人のステータスに「防御力」や「HP」なんて概念は存在しない。


 いくらレベルを上げても、皮膚が鋼鉄に変わるわけじゃない。

 HPバーなんて概念からして存在しない。わたしたちプレイヤーが入っているこの器は、限りなく人体の構造と一緒だ。


 だから、どんな英雄だろうと、剣で刺せば傷がつくし、首を切り落とせば、死ぬ。

 動脈を裂けば、ポンプが壊れたみたいに血が噴き出す。

 血液が足りなくなれば、脳に酸素が行かなくなって、誰だってあっけなくショック死だ。


 人体には、どうあがいたって鍛えようのない「急所」が無数に存在する。

 柔らかい眼球、薄い鼓膜、表面に浮き出た血管、身体を支えるだけの腱。

 そこを的確に破壊さえできれば、レベル1のウサギだって、レベル100のドラゴンを殺し得る。


 だからね、おじさんたち。

 あなたたちの負けは、もう決まっているんだよ。


「……あ? なんだこのガキ、ビビって声も出ねえのか?」


 男がニヤニヤしながら、脅しのつもりで突き出したナイフをチラつかせている。

 その隙だらけの脇腹を見ながら、わたしはスカートの隠しポケットに手を伸ばした。


 そこにあるのは、屋敷の武器庫からこっそりと拝借してきた、黒塗りのダガーナイフ。携帯性と実用性だけを追求したシンプルな代物だ。

 だけど、その刃は本物。

 人を殺すために研ぎ澄まされた、冷たい鋼の感触。


 あなたたちは、ナイフを「脅しの道具」として持ってきた。

 対して、わたしは。


 ――最初から、これを「殺すため」に持ってきたんだから。


「……えいっ」


 わたしは、愛らしい掛け声と共に、男の手首の内側――橈骨動脈が走る一点を、正確無比に斬りつけた。



 ザリッ。



 嫌な手応え。

 肉が裂け、刃が血管を噛む感触が、柄を通して手のひらに伝わる。


「あ……が……!?」


 男が悲鳴を上げるよりも早く、鮮血が噴水のように吹き上がった。

 プシューッ! と勢いよく飛び散った赤い液体が、路地裏の壁を汚す。


 痛覚遮断のなんて優しい機能はこの世界にはない。


「な、なんだぁ!? 手が、手がぁ!?」


 男がナイフを取り落とし、手首を押さえてのたうち回る。

 動脈性の出血だ。放っておけば数分で意識を失うだろう。

 でも、わたしはそんな悠長な時間は待ってあげない。


 わたしは、のたうつ男の背後に回り込む。

 その動きは、ワルツのステップのように軽やかで、優雅だったはずだ。


 膝裏。

 体重を支えるための腱を、横薙ぎに一閃。


 ゴリッ、という、弦楽器の弦が切れるような音がした。


「ぎゃああああああああああッ!!」


 男の巨体が、崩れ落ちる。

 支えを失った肉の塊が、地面に這いつくばる。


 これで、視線の高さが合ったね?


 わたしは、這いつくばる男の顔を覗き込み、にっこりと微笑んだ。

 返り血が頬に一滴、ついてしまったかもしれない。

 でも、きっとそれも、今のわたしの美しさを引き立てるルージュ代わりになっているはずだ。


「……ば、化け物……ッ!」


 男の瞳に、原初的な恐怖が浮かぶ。

 そんなに怖がるなんて、ひどいなー。アリスちゃんはこんなにもかわいい顔をしているのに。

 わたしは、男の喉仏に、短剣の切っ先を突き立てた。


 柔らかい。

 まるで熟れた桃に指を沈めるような、抵抗のない感触。



 ズプッ。



 気道と血管を同時に破壊する。

 男の口から、ひゅう、ひゅう、と空気が漏れる音がして、やがてゴボゴボと赤い泡が溢れ出した。


 身体が痙攣し、やがて動かなくなる。


 生暖かい血の匂い。

 鉄錆の臭気。

 そして、命が消える瞬間の、なんとも言えない静寂。


 ――ピロン♪


 脳内で、軽快なシステム音が響いた。


【ミッション達成:スキル『殺人鬼の加護』の詳細情報が解放されました】


 おや?

 と思いながら、わたしは虚空に浮かぶウィンドウを目で追った。

 そこに記されていたのは、あまりにも極端で、あまりにも悪意に満ちた「仕様」だった。




【殺人鬼の加護】

・人間殺害時:獲得経験値増『極大』

・その他(魔物討伐・特訓等):獲得経験値0(無効)




「……ん?」


 思考が一瞬、停止する。

 魔物を倒しても特訓しても経験値ゼロ?

 それじゃあ、まともな冒険者として生きていくのは不可能では?

 完全に「人殺し」として生きるしかないレールが敷かれているような……。


 呆れている暇はなかった。

『極大』という言葉の意味を、わたしの身体が強制的に理解させられる。


 ――ピコン! ピコン! ピコン! ピコン! ピコン!


 脳内で鳴り響くレベルアップ音は、もはや祝福のベルではなく、けたたましい警報のようだった。



【レベルアップ! レベル7になりました】

【レベルアップ! レベル8になりました】

【レベルアップ! レベル9になりました】

 …………

 ……

【レベルアップ! レベル21になりました】



 視界が明滅する。

 全身が熱い。細胞の一つ一つが、強制的に作り変えられていく感覚。


 たった……一人だよ?

 たった一人、そこらへんの小悪党を殺しただけで、レベルが6から一気に21って!?


「……あはっ」


 笑いが漏れた。

 なるほど、そういうことね。

 このクソ運営は、わたしに「人類の敵」になれと言っているんだ。

 魔物を狩る英雄ではなく、人を喰らって成長する化け物に。


 うん、上等じゃない。

 効率厨のゲーマーとして、その「最適解」、喜んで採用させてもらうよ。


 わたしは血のついたダガーナイフを軽く振り払い、立ち上がった。

 ミッションは達成。これでもう用はない。


 ……はず、だったんだけど。


「ひ、ひぃぃ……ッ! な、なんだお前! なんなんだよぉ!」


 もう一人の、小太りの男。

 彼は腰を抜かして、ガタガタと震えながら後ずさりをしていた。


 わたしは、とろけるような視線で彼を見つめた。

 さっきまでは「ただの小汚いおじさん」だった。

 でも今は違う。

 わたしの目には、彼が「経験値の塊」に見えて仕方がない。


 ねえ、おじさん。

 魔物を倒しても1経験値も入らないこの身体で、どうやって強くなればいいと思う?


 答えは簡単。


 ――あなたたちを、食い尽くすしかないよね?


「や、やめろ! くるな! くるなぁぁぁ!」


 男が背を向けて逃げ出そうとする。

 けれど、恐怖で足がもつれたのか、無様に転んだ。


 わたしはその背中に飛び乗る。

 おんぶをする子供みたいに、無邪気に、軽やかに。

 レベル21のステータスは、わたしの身体を羽のように軽くしていた。


 そして。




 ザシュッ!




 頚椎の隙間へ、正確に刃を滑り込ませた。

 神経を一瞬で断裂させる、慈悲の一撃。


 男は声を上げることもなく、糸が切れた操り人形のようにぐたりと沈黙した。


 ――ピコン! ピコン! ピコン! ピコン!


 わたしの脳内で、再びあの電子音が狂ったように鳴り響き始めた。

 レベルアップの通知音が止まらない。

 まるでこの世界をわたしが祝福でもしてくれているファンファーレのようなものが重なり合って聞こえてくる。


 ……ふぅ。


 静かになった路地裏に、わたしの吐息だけが白く残る。


 足元には、二つの死体。

 広がる血の海。

 靴の裏が、ねちゃりと音を立てる。


 わたしは、自分の手を見つめた。

 小さくて、白くて、華奢な手。

 それが今は、赤黒く染まっている。


 不思議だ。

 手が震えていない。

 吐き気もしない。

 むしろ、パズルの最後のピースがハマった時のような、奇妙な「達成感」と「全能感」が胸を満たしている。


 ゲームの中なら、何千回とやってきたことだ。

 でも、ここは現実にそっくりな世界。

 骨の硬さも、肉の粘りも、血の温度も、すべてが本物と同じなのに。


「……んー?」


 わたしは血のついた頬を指先で拭いながら、困ったように眉を下げた。


「もしかしてわたし、自分で思っている以上に……『殺しの才能』があったりするのかな?」


 だとしたら、ちょっと複雑なような……。

 だって、こんなにかわいいわたしに、そんなかわいくない才能似合わないじゃん。知られたら、みんなドン引きだよ。


「ま、いっか。……とりあえず、ステータスを確認しよっと」


 わたしは死体の上で、可愛らしく舌をぺろりと出した。

 今のわたしはきっと、地獄の底で咲く花のように、残酷で美しい「ドヤ顔」をしているに違いない。

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