あの運命の相手とやらに逃げられたらしい、と風の噂で聞いた
「すまないアーシャ。僕は真実の愛に目覚めてしまった」
「……は?」
「この気持ちは誰にも止められない。運命なんだ」
そう言って、彼──ルドリック=エルフォード、の隣にさっと歩み出でてきたのが、クレオラさん。後で知った話だけど、男爵家の娘さんらしい。
すごく綺麗な、宝石のようなルビー色の瞳と、くるくるの奔放な金髪を持つ子だった。顔もちっちゃいし、ひと昔前の真っ赤でフリフリの派手なドレスが似合ってしまう。クラシックな清楚さと豪華さが合わさってなんだか爛々と輝いて見える。
対する私は何の変哲もない黒髪の直毛。貧相な体。最先端のうち最も無難で波風立たない深緑のドレス。そして何より、いまいち常識を抜けきれない、つまらない言動というのが、ルドリック様によく指摘されていた。
「えっと、……え? でも、私たち、婚約してて」
「すまない、それは破棄ということになる」
「はい?」
その日の私も案の定、常識に囚われてぽかんとしてただけだった。
そんなことが本当に可能なんだろうかとか、お父様に何をどう説明すればいいのかとか、そういうこともぼんやり考えてた。
「でもわかってくれ! 僕はクレオラの魅力に抗えないんだ!」
「まあ! 私もルドリック様に夢中よ!」
で、クレオラさんはノリノリで嬉しそうに喜んでる。
まあ正直に言うと、混乱したのはもちろんなんだけど、当時の私は圧倒された挙句に傷ついてた。
クレオラさんからは、もちろんそもそもの容姿もそうなんだけど、こういう、なんというか、生命力? みたいなのとかで、女としての格の違いを思い知らされてた。私は侯爵家の娘でクレオラさんが男爵家で、家柄が全然違うのに負けたというのがよりいっそう辛い。本当に当て馬じゃないか。
しかも、貴族の娘に生まれて、幼い頃から婚約している相手がいたら、まあ物語を読んで憧れる恋とか理想の生活みたいなものは、婚約者に託すしかないわけだ。自然な恋ではなくて、気持ちを育てる類のものだったけど、まあこの人と結婚するんだなぁ、くらいの気持ちはあった。
その人に、
「クレオラこそが俺の運命の相手なんだ!」
と言われてしまった。実のところそういう事実だけで、私はすでにノックアウトされていた。
そういうふうに扱われてしまった私の人生の馬鹿らしさも込みで、起きたことが馬鹿馬鹿しすぎて、もう細かいことはあまり覚えていない。
ルドリック様の信じられない決意と教会との共謀によって婚約の破棄とクレオラさんとの婚約が実現しちゃったときには、まあそれが本当の決定打ではあったものの、もう気力なんて残ってなかった。私は普通の令嬢が婚約を固めきった年頃に、一人で放り出されてしまったのだ。
──ってくだりがあったのが、二年前の話。
私は今、辺境の地ブラストアで開かれたお茶会で、のんべんだらりとお話ししている。
「アーシャさま、ご存じですか。エルフォード公爵の息子さんの話」
「え? エルフォード、ですか」
その家の名前を久々に聞いて、驚いた。
そして、ルドリック様の父親であるエルフォード公爵の名前を何の気なしに私に出してきたことも。
この土地の人は、たとえ自分が仕える辺境伯の妻であっても、その経歴なんてぜんぜん知らないなんてこともままある。
そういう雑な空気が、心地いい。
「この前夫に王都に連れていってもらって、そこで聞いた話なのですけども」
「はいはい」
「結婚直前で、花嫁が逃げたんですって」
「え?」
花嫁、ということはクレオラさんであってるのかな。そういえば、婚礼の儀の様子とかは聞いたことなかったか。
「花嫁が逃げた?」
「ええ。今、そのエルフォード公爵の息子さんのー、えー、長男のー、えー、ルドリック? さんが血眼になって逃げた花嫁を探してるんですって。どこに逃げたかもわからないから、諸侯に片っ端から手紙を送ったりしてるそうで」
「結婚を辞めるとかじゃなくて、本当に逃げたんですか? 逃走ってこと?」
「って聞きましたけどねぇ。ですからここにも手紙が来るかもー、だなんて」
「いやでも、ブラストアにはさすがに……来ないんじゃ、ない?」
私は生垣の向こうにいる騎竜に目配せする。私と話していた夫人もくすくすと笑う。
そう、このブラストア領は辺境も辺境。馬なんて生き残れないほど魔獣が多いから竜に乗る。この土地の人は女であっても竜を駆らないとなんの仕事もできない。
ここに嫁いできたときには本当に苦労した。私が受けてきた淑女教育なんてまるで役に立たなかったから。
言葉も文法も、方言と言うには違っていたし、もう全部一からやり直しだった。身分の意識だって違って、なんか人の上下関係もいまいち緩い。主人であっても手が空いてたら乳しぼりくらいはする。ナイフだって使えて当たり前。
何度も何度も落馬(落竜?)して、ぷよぷよの二の腕に筋肉が詰まった末に、ようやく私はこの土地の一員になれたのだ。それで初めて、王宮とのやり取りとか、たまーに開かれる社交界で礼儀作法が役に立ち始めて、ちょっと喜ばれたりする感じ。
こんな土地に逃げてくる令嬢も、令嬢を追う手紙も来やしないだろう。
夫人は笑顔で続ける。
「なんだかねぇ、その花嫁さんというのが、男爵家の出らしいんですけど」
やっぱりクレオラさんであってるのか。
「どうも、作法がなってなかったみたいでねぇ。公爵の妻になるというのが肌に合わなかったらしくて。そんなに淑女教育って辛いのかしら」
「叱られはしますね。でも言われたことに従えば良いだけですから、そんなに辛かった記憶はないです」
「あら、そういうものですか?」
「みんなの前で鹿を捌く方がよっぽど辛いですよ」
また二人でくすくす笑う。
ブラストアの慣習。そのパーティーのホストが客の前で獲物の解体をするのだ。
ここに来たてのころ、そんなことはつゆ知らずにいきなり生きて吊るされた鹿とナイフを渡された私は、もう泣きながら夫にすがって解体を手伝ってもらった。
それからしばらく領民には「これだからよそ者は」なんて言われるかとビクビクしていたんだけど、反応はまったく別だった。
曰く、ブラストアであっても、最初はどこの家の娘もそんな感じになるそうだ。
「しかし、不思議です。教育は別に拒否しようとしてもできるし、結婚そのものを拒否しなくても」
「あ、それなんですけどねぇ、アーシャさま。どうも、そもそもその花嫁とルドリックさんが揉めていたらしくて」
あら、それは意外だ。
私が王都を去る前のクレオラさんとルドリック様は、それはもう仲睦まじくて、周囲もだんだん苦い顔を始めていたぐらいだったけど。
「じゃあ単に最近うまく行ってなかった結果、なのかな」
「でも男爵家の花嫁さんからしたらせっかくの玉の輿だったのに、どうして我慢できなかったんでしょうね?」
「……さぁ?」
この辺境の地では、伺い知れることなんてほとんどない。
結局その疑問は解決しないまま、お茶会はお開きになった。
***
お茶会の帰りに、竜を駆ってのんびりと帰りながら(といっても、速度は馬の三倍くらいある)、私はぼんやりと聞いた話を思い返していた。
──そっかぁ、クレオラさん、逃げたかぁ。
意外だったけど、実際に結婚した話を聞いてなかったこともあるし、合点のいくところといかないところと半々かも。
クレオラさんみたいな、生命力に溢れてて、綺麗で、男性を魅了できるような感じで、そうなるパターンもあるのかな。理屈がよくわからない。多少礼儀作法がなってなくて奔放でも、無理やり社交界に出て、みんなにキラキラしたものを振り撒けるような、そんな女性に見えた。
そういうふうに考えていると、同時に、あの婚約破棄に関することを、想像していたよりずっとずっと冷静に思い返せている自分に驚く。
婚約を破棄されてしばらくの私の状況というのは、そりゃもう酷かった。
「婚約者を繋ぎ止め損ねた女」って評価が付いて回ったから。
クレオラさんほど歴然とした差があったわけではないが、うちは侯爵家で、公爵家であるエルフォードに嫁げるのは良い話だったので、おかげ様で実家のおじい様はカンカンだし、周りの噂も辛かった。
まあただ、それは当時の私の未熟な一人称によるもので、実際のところ、大人たちの視線はそんなに冷たくはなかったと思う。
怒ってたのはおじい様くらいのもので、変な縁談の顛末に巻き込まれるなんてよくある話だ。同情すらされてたんじゃないかな。私に対して陰口を叩いていたのは、私と同じくらい未熟で視野の狭い同年代の子たちだけだった。
思い出に浸っているうちに、いつもの屋敷に帰ってきた。
建物自体は一世紀前の王宮様式で、北方の異民族の意匠が混じっており、それで辺境らしく広さだけはやたらある。でも管理なんてやりきれっこないから、一部はそういう趣もあるってことで蔦は絡ませ放題。外壁だけはやたら分厚く、戦争地域だってこんなに厳重じゃない。
つまりここは、魔獣と共に生きる、自然の中の屋敷なのだ。
竜小屋に相棒を繋いで、鞍を棚にかけて、薄暗い小道を通って玄関の方に行く。
もう明かりがついていた。竜の足音で私が帰ってきたことがわかったのか、扉がギイと音を立てて開く。
──で、話の続き。そんな、当時の私からすればひじょーに辛い状況で、急に求婚してきたのが、今の夫。
「おかえり、アーシャ」
ジェラール=ブラストア。ブラストア辺境伯。
両親が早世したせいで若くして爵位を継ぐことになった苦労人。
背はやたら高くて、ちょっと背筋が曲がってる。浅黒い肌と頬まで伸びた癖っ毛の前髪で、男らしいんだけどなんだか音楽家っぽい感じもする(なお本人は楽器を弾けない)。そのときに面識はなかったんだけど貴族学院時代の一つ上の先輩。で、慣れるまでは基本寡黙。
当初、彼が私に求婚した理由は、次のように説明された。
・ド辺境であるブラストアに嫁に来てくれる娘を探している。
・できれば辺境伯と同格くらい(辺境伯は伯爵~侯爵相当)の家の娘が良いが、その身分でうちに来てくれる人はまずいない。
・実務能力に長けていて、社交界に出られるくらい淑女教育を受けている人が適任。
・そんな中、婚約を破棄されて傷物同然の君はとっても都合が良い。行く当てもないだろう?
思い返してみればクッソ失礼な求婚だったが、自分の価値がまったくわからなくなっていた私には、逆に響いた説得だった。多少は迷ったがまあ本当に行く当てもなかったし、こちらとしても家柄に申し分ない。私はけっこう早く、翌週にはいったんブラストアに行ってみることにしたのだ。
一応追記。後でわかったことだけど、上に羅列したことは全部方便だった。詳しくはまた今度説明する。
「……また一人で行ってきたの? 茶会だよね」
ジェラールは扉を押していた手を抱えるように曲げて、私を屋敷の中にいざなった。
「そう」
「いつも誰か連れていってって言ってるのに」
「大丈夫大丈夫。ほらこれ」
私は鞄からあるものを取り出して掲げた。
小さな水晶に閉じ込められた、羅針盤。私の居場所と状態を知らせる魔道具だ。
これはジェラールが、去年の年の瀬に私にプレゼントしてくれたもの。
私は不満そうかつ心配そうにしてる彼の目を下から覗き込んで、言ってみた。
「何かあったら、あなたがちゃんと気づいてくれるから」
ジェラールはぱっと目を伏せる。
可愛い。
玄関から二人でちょっと歩いて、食卓に向かった。
癖はあるけど良い香りがしてきた。兎の香草蒸しだろう。きっと私の好きな立麝香草が入っている。
その途中で、ジェラールは頬を緩めて、何かちょっと、諦めたように切り出した。
「あのさ、アーシャ」
「どうしたの」
「最初は、まあ言わなくてもいいか、と思ったんだけど、いずれ聞く話だろうし、一応」
彼は懐から、努めて無表情を保って一枚の便箋を取り出し、私に見せた。
見覚えのある刻印。
これ、エルフォードの紋章だ。
本当にエルフォード公爵から手紙が来た。
***
翌朝。
朝ごはん。でも肉。肉塊。干し肉の塊。ブラストアの人間は、魔獣と戦い、逃げる力を身に付けるために三食肉を食う。
まあ、さすがに朝なのでちょっとだ。私は食卓に置かれた研ぎ棒と削ぎナイフを手に取る。
で、シャッ! シャッ! と火花を散らしながら研ぐ。
ブラストアでは、領主であっても平日にわざわざ使用人に朝食を用意させたりしない。なので肉を削ぐとかも私の仕事になる。
シャッ! シャッ!
ちなみにこの研ぎ棒は私の特注品だ。
この前市場で見かけた鉱石が面白い色をしていたので、買って加工してみれば大当たり。これさえあればどんななまくらもものの数分で剃刀並みの切れ味に化けてしまう。
シャッ! シャッ!
うんうん、いい音。
「あ、アーシャ、もう十分研げてるんじゃない?」
とか思ってたら、夫がジト目で意気揚々とナイフと研ぎ棒を振るう私を見てきていた。
ので、さっさとご飯にすることにした。
削った干し肉と、追加した葉野菜のサラダをもぐもぐ。塩気が効きすぎている気がするがもう慣れたしなんなら美味しい。私もジェラールももくもく頬張る。
その途中に私は呟いた。
「駆け落ちだったんだねぇ」
昨日のエルフォード公爵からの手紙。
結局、あの手紙は別に私に宛てられたものでもなくて、広く諸侯に届くよう一斉に送信されたものだった。
内容はまあ、いろいろ脚色があった(クレオラさんが魔女だった~、結婚詐欺も同然~、みたいな恨み節)けど噂通り。クレオラさんが結婚から逃げたので、行方を捜しているということ。
でも、噂より詳細な情報が一つだけあった。誤魔化そうとはしていたけれど、さすがに勘所はここだろう。
クレオラさんと共に、17歳の若い騎士見習いが逃げているかもしれないらしい。
外見の特徴からするに、そう明記はしていなかったが、どうも相当な美男っぽい。
合点がいった。
要は恋多き人が、次の恋に行っただけだったのだ。
ルドリック様との大恋愛に飽きたクレオラさんが、エルフォードで奉公していた騎士見習いに手を出した結果、夢中になってしまって、今の婚約が嫌になった。
それで二人で結婚直前に駆け落ちしたのだ。
哀れなのはルドリック様だ。自分の意志で結婚を翻して、身分が下の、愛する女性と引っ付いた……までならまだ恰好がつく。過去の勝手な王族にそういう人はいくらでもいる。
でも、その挙句に騎士見習いに愛する人を取られたなんて赤っ恥も赤っ恥だ。そりゃあ血眼になって探して、なんとしてもクレオラさんを糾弾しないと一族の沽券に関わる。
「どうしたの、アーシャ」
「いやぁ、ルドリック様が可哀想だなぁって」
「……ふーん」
食卓には私たち二人だけ。毎朝の光景だ。
「アーシャ。今日の予定は?」
「えーと、牧場の管理かな。あと隣の沢で測量の練習したくて。ほら、来年に必要だし」
「それは明日以降に回せる?」
「問題ないけど」
「そう」
一瞬だけ、妻として過ごしてきたからわかる類の、もやっとした感情をジェラールから感じ取った。
ほんの一瞬だ。本人が私に見せようとしていなかったからこその、一瞬。
彼はポツリと言った。
「じゃあ、共駆けに行こうか」
***
屋敷の北に高原があって、そこで私たちは、それぞれの相棒の竜を駆った。
並走したり、追いかけっこしたり。私は竜のいるこの暮らしが好き。こうやって愛する夫と共に駆けるのが、人生で最高の時間だとさえ思う。
昼過ぎにジェラールが、今度は私を乗せて空を飛ぶと言い出した。
彼の相棒は飛竜だ。領主にのみ許された力の象徴。飛竜を従えるからこそ、辺境の地で主として君臨できる。
飛行用で、二人乗りの鞍に付け替えて、二人で飛竜に乗った。飛竜は短い距離を地竜よりも速く駆けて、一気にぶわっと空に舞い上がった。
体が竜の体と、ジェラールに押し付けられる。それで飛行が安定したころに、下の方を横目で見る。
青空と対比になる荒々しい山と、くすんだ色の草原。
でもちゃんと植物は豊かに、深々と岩に根を突き刺してる。
これが、ブラストアの大地。
鋭く冷たい、でもどこか優しい風が吹きすさぶ中、私は夫の背中に尋ねた。
「ねえ、ジェラール」
「どうしたの?」
「今日は何か、気になることでもあったの」
「……まあ、正直に言うと」
「うん」
「正直に言うとね」
「言うと」
「ちょっとだけ、君の過去に妬いた」
それを聞いて思わず吹き出した。
あとで判明したことだけど、ジェラールは前々から私に求婚する機会を窺っていたらしい。
悲しいことに私は覚えてないものの、貴族学院時代、私はジェラールに道案内をしたことと、そして、怪我の治療をしたことがあるらしかった。確かに治療の実習みたいなことをしていた時期に、複数人誰かを助けた気がする。それで、ジェラールは貴族学院へ嫁探しに来た身でもあり、私を良いと思ってくれたので、求婚しようとした。でもちょっと調べたら婚約者がいるとわかって身を引いた。
その折に、私が婚約を破棄された。これを逃す手はないと踏んだそうだ。
最初の求婚の台詞があんな感じになったのも、相当言い方を考えた結果、あのときの私には、ああ言って自身の実利に訴えかける方面がもっとも勝率が高いと踏んだらしい。
確かに、あのときに愛とかなんとか言われても信用できなかったかもしれない。
しかし、振り返ってみるに、ちょっと「良いな」と思われた程度にしては行動力がありすぎるし、あのときの私の心理状況の把握と言葉選びが適切すぎる。
……なぜそこまで適切にできたかは聞かないでおくことにしている。
彼は気恥ずかしそうに微笑んで前を向く。
「ねえジェラール」
飛竜を駆るその背に、私はゆっくりと体を預ける。
彼は言わなかったけれど、きっと、ただ妬いただけじゃない。そう言って自分が恥じらうだけに留めてくれた。
本当は、私のことを心配してくれたのだ。
「私、今、とっても幸せよ」
私の旦那様はちょっと嫉妬深いけど、本当に温かい。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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