06 出会いのきっかけ
ウィンストン視点です。
目が覚める。
若干疲れの残る体に鞭を打って心地のいい布団から這い出たら、その勢いのまま洗顔。きんと冷たい水は辛くないといえば嘘になるけれど、おかげで目は覚める。身支度を整え、本を掴んで家を出た。
(だいぶあたたかくなってきたとはいえ、この時間帯は肌寒いな)
顔を出したばかりの太陽があたりを照らす。まだ街も眠っているようだ。店や屋台が開いてないどころか、通りにも人影はまばらである。
僕は慣れた様子で閑散とした大通りを抜ける。まっすぐ向かうのは"ヴィオリの小窓"。こじんまりとしたブックカフェで、ここしばらく毎朝通っている。
すこし躊躇ったあとにドアを押し開けたら、からん、とベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
「……」
音に反応して掃除中の店主ーーリディア・エヴァレットが顔を上げる。目が合うとにこやかに迎えてくれた。
次いで鼻腔を蕩かす香ばしい焼きたてのパンと、甘い紅茶の匂い。深く息を吸うと、まるであたたかな春の空気に包まれたような心地になり、張り詰めた気持ちがふわりと緩む。
小さく頭を下げ、いつもの席につく。持ってきた本を広げ、ちらりと店主を盗み見たけれど変わった様子はなさそうだ。僕はこっそりと胸を撫で下ろした。
(よかった、いつも通りだ)
昨夜は自分らしくない挙動をした自覚があったので、もしかしたら困惑させたかもしれないと心配していたのは杞憂だったらしい。夕飯を押し付けたり、家まで送ったり……大きな仕事を終えた達成感でハイになっていたのだろうか。次回以降は気をつけねば。
(……彼女なら、受け入れてくれるのではないかと思った。その優しさについ甘えてしまいそうになる)
自分のつたない会話にも嫌な顔せず付き合ってくれたり、笑顔を向けてくれるのは、僕が客だからだ。そこはちゃんと自覚している。しかし、店以外でも彼女にそれを強いるのはよくない。分かっていたのに。
……思えば、この店に通うようになったのも彼女の優しさがきっかけだった。
『大丈夫ですか!?』
出勤の道中、冷や汗と吐き気が治まらずしゃがみ込んでいたら声をかけてくれたのが彼女だった。早朝の、しかも大通りから外れた道端に人影はほとんど無く、意識が遠のきそうなときに見つけてもらえたのは僥倖だったと思う。
『冷たいレモン水です、飲めますか?』
『何かお腹に入りそうならこれもどうぞ』
もらったチョコレートをひとかけ食べると体調は落ち着き、もう大丈夫だと伝えると、その女性はほっとしたように笑った。
『よかった……お忙しいと思いますが、そういうときこそ、朝食はなるべく召し上がってくださいね』
そのときの笑顔が印象的だった。うまく言えないけれど、気持ちがほぐれるような、ほっとするような、そんな感情になったのを覚えている。
(……不思議なひとだ)
僕の知っている女性はみな華やかに着飾り、媚びるような声や仕草をしながらも目だけは油断なく光っている。その計算高さが恐ろしく映り、物心ついた頃から苦手だった。
しかし彼女に会って、そうじゃない女性もいることを知る。お礼を申し出たところあっさりと断られたのも新鮮だった。
『じゃあ……近くでカフェをやってるので、たまにお茶を飲みに来てくれると嬉しいです』
何度目かの押し問答に根負けしたそのひとは、困ったように笑いながらそう言った。
ストロベリーブラウンの長い髪を結い上げ、柔らかな春の若草のような色の瞳を持つその女性は、リディアさんというらしい。彼女がそう呼ばれていたのを聞いた。
(彼女が働くカフェか、どんなものだろう)
興味が湧いて一度行ってみたら、居心地の良さに驚き、提供された軽食や紅茶のクオリティに驚き、気付いたら毎朝通っている状態である。
1日の活力の源であり、ほっと一息つく貴重な時間。最初はお礼のつもりだったけれど、いまでは僕の生活に欠かせない場所になっている。
「お待たせいたしました」
テーブルに置かれたのは、いつものクロックムッシュと、手のひら大のボウル。ボウルには数種類の果物が盛り付けられていた。店主を見上げると、彼女はそっと微笑む。
「昨日のお礼です」
声を抑えて言われたそれに対して抱いたのは、困惑。しかしそれ以上にじわじわと喜びが溢れていく。
こちらの一方的な押し付けを無かったことにもできただろうに、わざわざお返しを用意してくれるなんて。振り回してしまった罪悪感が完全に消えるわけではない。けれどーー後悔は、しなくてもいいのかもしれない。
(こんなふうにされたら、借りを返すどころかますます借りが増えてしまう)
僕がここに来ることでどれほど安らぎを得ているのか、初めて声をかけてもらったときどれほどありがたかったか、彼女は知らないだろう。
文官という職業は日々目まぐるしく、その内容も多岐に渡る。
主な業務は各省庁の対立や政策調整。時には王宮と貴族院、軍部との折衝も行うので心身ともに摩耗しやすい。
一見華やかに映るけれど、実際は泥臭く地道な作業がほとんどである。膨大な法や制度を駆使して相手とやり合うのは想像以上に大変だし、手抜かりなく準備するには時間も手間もかかる。
だからこの場所が僕の唯一の拠り所と言っても過言ではない。
「……ありがとうございます」
なんとかそれだけ返すと、彼女は嬉しそうに「今日もお仕事がんばってくださいね」と言ってくれた。
大事にすべて平らげて席を立ち、会計を済ませる。
「あの……ウィンストンさん」
「はい」
いつもは「ありがとうございました」と言われて終わりのはずだったけれど、店主に名前を呼ばれた。まだ聞き慣れない響きはなんとなく落ち着かず、そわそわしてしまう。
踵を返そうとした足を止めて顔を上げると、すこし口ごもった彼女が息を吸った。
「いってらっしゃい」
柔らかい笑顔に乗せた声がそっと僕の耳をくすぐる。
軽やかに吹き抜けるそれは、春を駆ける風に似ていた。