05 特別な挨拶
街灯と月が照らす道を2人並んで歩く。
大通りではないけれど、人通りはそこそこあるおかげで一人歩きも不安は少ない。だから送ってもらわなくても大丈夫だと伝えたのだけれど。
(さっき、このあともお仕事だって言ってたのに)
すこしでも早く戻れば、その分早く仕事が片付くはずなのに、律儀なひとだ。私はそう思いながらウィンストンさんをちらりと見上げる。
淡い光を浴びる横顔は淡白ながらも整っていて、朝の光の下で見ると灰色がかった藍色の髪も、夜だと印象がすこし変わる。上背と肩幅があるせいか細身でも頼りない感じが無くて、優しくて、所作も美しくて、王宮勤め。
無愛想と寡黙なところがなんとかなれば、女性が放っておかなさそうだ。いや、むしろそれがいいというひともいるかもしれない。
(……って、なに考えてるんだろう。そもそも私には関係のないことなのに)
お客さんに対して失礼な上に余計なことを。いけない。ぶんぶんと首を振って思考を飛ばす。
「どうされました?」
当のウィンストンさんから話しかけられ、咄嗟に「いえ」と返す。まさかあなたを評価していましたなんて言えるはずもない。
「ウィンストンさんに家まで送ってもらっている状況が、なんだか不思議で」
「……僕も自分で驚いています」
これも嘘ではない。店主と客、という関係しか無かったころから考えると、信じられないくらいの変化だ。最近まで彼の声すらまともに聞いたことが無かったし、笑顔なんて論外。
先日あの本を読んでいなければ、きっと彼は私に話しかけることはなく、こうやって外を2人で歩くなんてことも無かっただろう。そう考えると、つくづくあの作家には感謝である。
(……そう。感謝、してる)
慣れた土地とはいえまともに歩いたことがなかった平民街に来てから、知り合いもほとんどいない生活を送る私にとって貴重な知人。
例えその相手が、いまの自分とは違う世界を生きるエリート文官だろうと、挨拶を交わせる相手が増えるのはありがたい。
「こんな風に女のひとと歩く日が来るなんて」
「ふふ、人生何があるか分かりませんね」
とりとめもないことを話していると家に着いた。カフェからすこし歩いたところにある小さな一軒家。せめてこれくらいは、と両親が私のために用意してくれた大切な場所である。
本当はもっと豪勢な家になりそうだったけれど、使用人もいない平民の一人暮らしにそこまで必要ない、と必死に説き伏せた。おかげで外から見ると普通だけれど、中には使い勝手のいい広いキッチンがあったり、素朴だけれどしっかりとした作りの家具があったりする自慢の家だ。
「今日はありがとうございました。夕飯までご馳走になってしまって」
「……こちらこそ」
「お仕事、無理しないでくださいね」
せっかくすこし仲良くなれたのだから、体を大事にしてほしい。そう思うけれど、どこまで踏み込んでいいのか分からない。せめて心配の気持ちを込めてそう言うと、彼はぺこりと頭を下げた。いまいち伝わっていない気がする。
(もどかしいなあ)
とはいえ、これ以上口出しする権利も義務も無い。私にできるのはおいしい紅茶をお出しして、快適な空間を提供するくらいだ。考えだすとキリがないから、ウィンストンさんの就労環境についてはあまり考えないようにしよう、と心のなかで決めておく。
家に着いたからすぐに仕事に戻るかと思いきや、ウィンストンさんは立ち止まったまま動かない。どうしたんだろう。謎の間が空いて困惑していると、すこし迷ったように口を開いた彼が小さな声で言った。
「……おやすみなさい」
その響きが懐かしくて、反応が遅れる。元々家族や使用人以外にはあまり機会が無いその挨拶は、平民街に来て以降もう随分と使ってない。
夜に遊ぶような友人はいないし、ご近所さんや常連さんたちもよくしてくれるけれど夜会うことなんか無い。まさか彼がそれを言ってくれるなんて。
胸の奥に、じんわりと温かいものが広がる。くすぐったい気持ちになった私は、そっとはにかんだ。
「はい、おやすみなさい」
長く伸びる影に小さく手を振る。
今日はよく眠れそうだ。