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10 過去



「貴族だったんですか?」

「はい、まあ。といっても、落ちこぼれだったんですけど」


 実家の姓を出すと、ウィンストンさんは小さく「ああ」とこぼす。文官だし、もしかしたら聞いたことがあるかもしれない。貴族令嬢だったころ、伯爵家の現当主である父が王宮へ向かう姿を、何度も見たことがある。


「家族仲が悪いとか没落したとかそういうのではなくて、恥ずかしい話なのですが……向き合うことができなかったんです」


 貴族の務めを果たすことができなかった。領民の血税で何不自由なく育ててもらったのに、それを彼らに返すことができなかった。兄や姉妹に押し付けてしまったのだ。情けなくて笑ってしまう。


「とある夫人に、私の所作が拙いことを遠回しに指摘されたのがきっかけで、その……社交界から爪弾きにされてしまって」

「……」

「奮起して見返すことができればよかったんですが、あのさざなみのような笑い声を聞くと、足がすくんで、動けなくなって」


 それから、だんだん社交界に行くのが怖くなった。人前に出るだけで足が震えるようになった。誰かと喋ることができなくなった。

 ……こうしてまた話せるようになるまで、だいぶ遠回りをした。根気強く接してくれた家族や使用人たちには本当に頭が上がらない。


「でも、紅茶を淹れるのだけはずっと得意だったんです。我が家の侍女も太鼓判を押してくれたのが、私の自慢でした」


 紅茶なら、相手を笑顔にすることができる。唯一自信を持てる私の特技。私を肯定してくれる、たったひとつのお守りを手に入れたような気がした。

 毎日毎日紅茶を淹れ続けて、伯爵家のなかで一番おいしく淹れられるようになった。そしたらお茶請けのお菓子や軽食に目が向くようになり、次はテーブルコーディネートも学んだ。

 でも、それを披露する機会は無かった。


「披露する相手もいませんし、侍女でもないのに給仕までする貴族なんて、それこそ笑いものですから」


 だから貴族籍から抜いてもらって、平民になった。念願だったカフェを自分で持ち、憧れていた屋台の食べ歩きもできるようになった。自分で稼ぐのはもちろん大変だし、一人暮らしは不安になることもあるけれど、いまの私は幸せだと胸を張って言える。


「そんな感じです。長々とすみません」


 へらりと笑いながら立ち上がり、カウンターへ向かう。震える手を誤魔化してポットと茶葉を取り出し、水を入れた鍋に火をつけた。


(……ウィンストンさんのほうを向けない)


 どんな反応をするだろう。怖くて顔を上げられない。彼が口を開かないよう、わざと明るめの大きな声で「のどが渇きましたね」と言ってみる。かちゃかちゃと音を立ててカップを2つ用意してみたり、こっそり個人用に置いておいたフィナンシェを取り出してみたりする。

 彼のことだからきっと笑うことはしないだろう。でも、失望されたり、軽蔑されたりするかもしれない。だとしたら、その表情は見たくない。

 エリート文官である彼には、きっと理解できないだろう。落ちこぼれの気持ちなど。


「……そうだったんですね」


 びくり、と震えた。彼の冷静な声には温度が無く、どんな感情で声を発したのか分からない。だから俯いたまま身を固くして息を詰める。

 大丈夫。話を聞いてくれただけでも嬉しかったのだ。何を言われても、ちゃんと笑って返せる。


「では、僕はその無作法な夫人に感謝しなければ」

「え……」

「彼女のおかげで、居心地のいい場所とおいしい紅茶を得られたのですから」


 顔を上げると、ウィンストンさんの視線は蝋燭に固定されていて、こちらをまったく見てこない。相変わらず平坦な声で、柔らかさなど欠片も無い。そのぶっきらぼうな態度が、照れ屋の彼らしい言葉が嬉しくて、嬉しすぎて、胸のあたりが苦しくなった。

 不器用な彼の優しさが涙腺を刺激する。


「……そうですね」


 私はポットの様子を確認するふりをして、熱くなった目をぎゅっと閉じる。ふんわりと香る茶葉の湯気が、心ごとそっと包んでくれた。

 きっと私は、この静かな夜を忘れないだろう。こんなにもあたたかく感じたのは久しぶりだった。

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