表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

9/10

空蝉比丘尼の憂鬱 その2

 紗灯尼庵の門前に、朝の靄がまだ薄く残っていた。

 死体の周りだけが妙に乾いた空気で、見物人の息がじりじりと集まっている。

 声は出ない。代わりに視線が動く。遺体より、女の肌へ――。

 花散里は襦袢の襟を正し、わざと目を伏せた。露骨な視線を受け止めるのは慣れている。

 慣れているからこそ、気がつく。群れの端で、そっと背を向けた者がいる。

 見世物に混じりきれない、何かの臭いを隠した者だ。


「代官所へ使いは?」

「へい。もう走らせていやす」


 花散里と同じ襦袢姿の空蝉比丘尼は、遺体の足元で合掌したまま低く言った。

 人殺しで見物人が集まっていたが、そんな見物人も気怠そうな花散里のわざと着崩した襦袢姿と艶やかな肌に、昨日狂ったように男を求めていた女と気づくと、死体より女の肌と胸に目が行く。

 この殺しを大きくしたくないのは空蝉比丘尼も同じらしく、着替えて花散里と同じように肌と胸を晒し、その艶やかさとは裏腹に彼女は下男と話しながら詳しく聞き出してゆく。


「こいつ、いつ見つかったんだい?」

「明け方、朝日が差してきた頃に、近くの百姓がカラスに気づいて見つけたそうでさ。で、比丘尼様をはじめ名主の皆さまにも知らせて今にという訳で」

「じゃぁ、まだあんまり日は経ってないね。……傷の様子は?」

「見事なまでに後ろから一突きされてまさぁ。

 短刀が刺さったままで」

「……へぇ、いい腕だね」


 花散里は眉を顰める。

 つまり背中を見せるぐらい油断と言うか気を許していたという訳だ。それでも後ろから短刀で一突きではそれなりに腕がいる。


「で、この件どうするの?比丘尼様?」

「女を抱きに来た旅人が夜盗に襲われた。

 このあたりじゃあよくある話。

 ここは都の町奉行の手は届かぬ。代官殿に届けるにも、名目だけよ。名主らと話をつけねばならぬ」


「だからこそ、口が早い者が勝つ土地。

 夜盗で通すなら、通すための形が要る」


「形」――それは、証言の筋、遺体の扱い、見物人の口。

 花散里の言葉を聞いてか聞かずか分からぬ空蝉がやり慣れた声音で下男に目配せすると、下男は弾かれたように走り見物人の肩に手を置いては耳元で何事か囁いてゆく。

 怒鳴らない。脅さない。だが皆、従う。庵の門前にあるのは慈悲だけではない。


「怪しい奴はいたのかい?」

「比丘尼様。昨日まで庵でそちらの方が荼枳尼修行をしていたじゃないですか。

 何人男がこの庵の道を通ったか分りゃしませんよ」


 尼寺の紗灯尼庵が春を売る場合、性愛の仏様である荼枳尼天様への修行という体裁をとる。

 修行ゆえ代金はもらわないが、別の時に喜捨という形で支払われる訳だ。

 特に、阿片に苦しんだ花散里たちが快楽でそれを克服する為に派手に男を呼び寄せたのは、三日三晩まぐわった花散里自身が知っている。


「とはいえ、こいつが殺されたのは昨日の夜だろうね」

「どうしてさ。比丘尼?」


 空蝉比丘尼の艶やかな声に、花散里がまけじと艶色で尋ねる。

 仏になった死体に手を合わせる姿は、真似事でもそれをし続けたなりの貫禄が見えた。


「死体にお経をあげ続けるとなんとなく分かるわ。

 死体の臭いにカラスが寄ってくる。

 カラスは鳥目だから夜は飛ばない。だから、こいつが殺されたのは昨日の夜から朝にかけて」


 空蝉比丘尼は立ち上がって下男たちに尋ねる。

 彼らも同じ庵に住んでいるのだが、護衛と見張りの役目も兼ねた体格の良い男たちがそろっており、花散里の上に乗っていた者もちらほらいた。きっと同じように空蝉比丘尼の上にも乗っているのだろう。


「勘次って男らしいけど、何で名前がわかったの?」

「死体と一緒に荷物がここに。荒らされた跡もなく、西国行の手形と小判が一緒に。

 手形の身元保証人がこの間都を騒がせた出島屋平蔵で」

「物取りの線じゃないわね」


 空蝉比丘尼と下男の話に花散里が割って入る。

 何しろ、その出島屋平蔵の件に絡んで阿片をもらって紗灯尼庵に逃げ込んだのが花散里たちだったのだから。 それを思い出し、思わず苦い顔をしてしまう花散里だが、今はそんな事よりもこれからの話だ。

 この殺しは出島屋平蔵がらみなのは分かっている。

 問題は、『誰が』で、『見ず知らずの旅人に後ろを晒すほどの信頼がある』人間の手の者なのは間違いがない。

 下男が戻ってきた。息が上がっている。


「比丘尼さま、呼びました。名主衆です」


 門前の道の先が、ひとつの塊のように動いた。

 先頭にいる老人は、歩幅が小さいのに、周囲の空気が揺れる。背は少し曲がっているが、目は濁らない。身なりは質素だが、袖口と足袋だけが妙に清い。


「久世伝右衛門でございます」


 花散里は、初めて会った老人の名を聞いた瞬間に理解した。門前町の骨だ。寺と宿を繋ぎ、代官の目を避け、時に代官の手足にもなる――古い男。

 その少し後ろから色の匂いが歩いてくる。

 着物は上等だが、どこか乱れている。扇子を持つ手が妙に軽い。笑っているのに、目だけが値踏みをする。

 花散里も覚えている。花散里や蜻蛉や雲隠を抱き、嬲り、楽しませて、三人に快楽を与えた男。 彼の眼は花散里だけでなく空蝉にも向けられていた。


「綿貫藤十郎にございます」


 空蝉が一瞬、視線を伏せた。ほんの一瞬だけ。

 花散里は見逃さなかった。尼の袂に金を忍ばせる男。女を扱い、男をも動かす男。


(……この男、本当に節操なしね)


 春を売る尼寺が、女手だけで切り盛りできるほど世の中甘くはない。

 この男が、この門前町の遊女達の元締めなのだろう。

 三人目は、二人から半歩遅れている。

 若い。顔立ちは真面目で、髷の結い方もまだ硬い。だが、目だけが落ち着かない。門前ではなく、土の匂いがする。外から来た者の気配だ。

 代替わりした庄屋。新しい肩書きに、まだ身体が馴染んでいない若者。

 そのくせ空蝉の前に出た瞬間、なぜか足が止まり目が迷う。まるで、庵の門をくぐるのが初めてではないような。


「柊新之助でございます。……先代の代わりに」


 花散里は覚えていた。

 有り余る若さと体力で花散里たちの上で何度も果てた男の事を。

 その男が神妙な顔で現れるのだから、花散里は顔を引き締めて出かかった笑みを隠す。

 空蝉比丘尼は、三人を順に見る。

 慈悲の面で、統制の目で。


「……話があります。こちらへ」


 花散里は襦袢の襟を指で押さえたまま、四人の後をついてゆく。

 板敷きの廊下は朝露で薄く湿り、裸足の下男の足跡が闇のように残っている。

 花散里は襦袢の裾を指でつまみ、わざとゆっくり歩いた。

 急げば、背中が見える。背中を見せた先に短刀がある――さっき自分で口にした言葉が、妙に肌に貼りついた。

 五人が向かったのは、門前の喧騒から少し外れた庵の茶室。

 この手の話にうってつけだが、花散里は部屋に染み付く淫臭に気づいてしまう。

 つまり、この茶室こそ、空蝉比丘尼がこの三人をもてなす場所なのだろう。

 茶でなく己の体で。

 空蝉は奥に座を据え、名主たちを座らせた。久世伝右衛門が迷いなく上座に膝を置き、綿貫藤十郎は一拍遅れて扇子を弄びながら腰を下ろす。柊新之助だけが、畳の縁を見つめてからそっと座った。草鞋の鼻緒に乾ききらない泥が残っている。山道の土だ――庵へ来る道の土。花散里はそれを見て、末客として座る。


「まず、表向きの話を」


 空蝉の声は柔らかいのに、座敷の空気だけが硬くなる。

 久世が黙って頷き、綿貫が「へえ」と笑った。柊は笑わない。


「旅人が夜盗にやられた。

 このあたりでは珍しくない――そう代官所へ届ける」


「……それで終い、って顔じゃねえな。

 比丘尼さま。あんたも、姐さんも」


 綿貫が扇子で口元を隠す。

 空蝉も花散里は返さない。返せば言葉が形になる。形は、誰かの都合に寄る。


「終いにしない。――勘次は身元保証が出島屋。物取りじゃない」


 空蝉が淡々と言う。

 都の傾城町を騒がせた出島屋平蔵の阿片の抜け荷と打ち首はこの三人にも聞こえるほどの噂だろうに、その件には触れないのか? それとも、気づいているのか、知らない振りなのか。どちらにせよ、三人は顔色を変えなかった。ただ、目線が少し下がる。


「出島屋……」


 久世の眉が、わずかに動く。

 わずかな揺れだが、老いた名主の顔でそれは“動揺”に近い。

 柊が喉を鳴らした。


「そんな大ごとを、ここで――」

「ここだからよ」


 柊の言葉を止めた空蝉が小さく笑う。悪い笑顔で、言葉を継ぐ。

 ただしその声は水に似て優しく冷たい。毒のような甘さもある声。

 言葉はそのままの意味なのだとしても、その言葉の背後にある思惑だけは見え透いている。


「都の町奉行小原正純様が病でお倒れになった今、町奉行と違う代官所の管轄のここなら目が届かぬ。

 だから、ここで揉み消せる。揉み消せないなら――燃える」


 燃える、という空蝉の言葉に、花散里の胸の奥が小さく疼いた。

 自分が守りたいのは傾城町で、女で、そして――燃やさぬための火だ。

 久世は視線を伏せ、綿貫は笑みを崩さない。柊だけが、畳に置いた拳を握り直した。

 まるで、昨夜の温度を思い出すみたいに。


「一つ、聞くわ」


 あえて花散里が口を開く。


「勘次が背を向けられる相手が、この座敷にいるかどうか」


 空蝉が静かに頷き、久世の目が花散里を射抜く。綿貫の扇子が止まり、柊の喉仏が上下した。

 名は揃った。嘘も、揃い始めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ