蛍葛が見たもの その7
朝の鐘が遠くで鳴り、傾城町の路地にざわめきが走った。出島屋平蔵が奉行所に捕らえられたとの報せが、風のように駆け巡ったのだ。
縄を打たれた平蔵は、なおも堂々と歩いた。見物に集まった町人たちの目を真正面から見返し、口角を吊り上げる。
「俺が消えても、この町は燃えるぞ……」
そう吐き捨て、平蔵は役人に引き立てられていった。
公儀が動くというのはこういう事なのだろう。
出島屋平蔵の打ち首後、彼の屋敷は取り壊され、財産は没収される事になった。
その蔵に眠っていた小判は数万両とも言われ、商人たちは出島屋の取引で火傷しないように必死に商いを整理する始末。
だが、その突発的な騒動にも関わらず首を傾げたのは、路頭に迷った人間が出なかった事。
その姿を群衆の中から見ていた花散里は、心に冷たい重石を抱いた。
彼は斬られるだろう。だが、あの言葉は嘘ではない。出島屋ひとりを斬っても、炎の種はまだ町に潜んでいる。
「見事なもんさ。出島屋の旦那は。
こうなる事を知ってて、手配なさっていたのだからな」
連れ込み茶屋で互いに何もまとわぬ姿で勘次と名乗った忘八者は、花散里の体を弄びながら感嘆の声を漏らす。
彼もまた、明日には傾城町を去るという。
「暇を出した上に金まで出して、働き先まで用意してくださった。
あの旦那はすごい御仁だ。まったくな」
「……あんた、傾城町を去って、何処に行くんだい?」
裸身を晒すことに羞恥心は覚えなくなって久しい。
そんな己の体を貪るこの忘八者がなぜ花散里の誘いに乗ったのか興味があった。
勘次は苦笑しつつこう答える。
「西国よ。 どうにも俺には行くあてがないんでな。
まぁ、しばらくはあちこちぶらぶらと旅をするつもりだ」
「なら、ここに残ればいいのに。
次からはお代を頂くけど、わたしの体も悪くないでしょう?」
勘次の顔を両手でそっと包み、顔を近づけると彼はふっと微笑みを返す。
その笑顔の裏に何があるかは知らないし、詮索する気もない。
ただ、この忘八者の彼が自分に興味があるというのならそれも良いだろうと考えただけだ。
「ははっ。出島屋の旦那の言付でな。
『好きにしろ。だが傾城町には残るな』って言ったのさ」
(俺が消えても、町は燃えるぞ……)
出島屋平蔵の最後の言葉が蘇るが、花散里はそう言って、唇を近づけてきた彼を拒まず受け入れる事にした。
傾城町の掌侍ともなると、昼もそこそこ忙しい。
情を交わした勘次を見送って傾城町の茶屋に入ったのは空が茜色になるかという頃だった。
茶室というのは、一期一会の空間である。
その中では主人と客という枠だからこそ誰とでも会える場所でもあった。
「遅くなりました」
花散里の声にそこに居た先客が静かに振りむく。
頭巾をかぶった侍の家紋は菱に蔦。南州家。
「お武家様もよろしいか?」
主人の確認に頭巾をかぶった侍は一言。
「構わぬ」
あの光源氏を名乗った浪人の声だった。
南州家にかかわってくる上に、上から『殺すな』と言われたあの浪人もどきが身なりを整えてここで茶を嗜むのだから、傾城町は嘘だらけだと花散里は心の中で笑う。
花散里は侍の隣に座り主人が静かに茶を立てる。
あくまで茶を立てているだけで、この中の会話にはかかわるつもりがないという意思表明でもある。
侍は卓に小さな鈴を置いた。
乾いた音が響き、花散里の胸を締めつける。
「番所で拾った。根元に出島屋の印があった」
「つまり、町の内側が出島屋に通じていたということね」
花散里は鈴を手に取り、掌で転がした。
蛍葛が命を賭けて残した簪と、この鈴。
二つの小道具が示すのはただ一つ――裏切り者は町の中にもいる。
「だが、もう平蔵はいない」
侍は淡々と告げた。
「残るは奉行所。そして、その背後だ」
花散里は頷いた。心の奥でひとつの名が浮かんでいた。奉行・小原正純。
「出島屋の蔵の金は幕府が没収する事になるだろう」
「それが狙いかい?」
花散里の言葉に男は小さく笑ってみせる。
仕草が様になっており、身なりからもこの侍がかなり上の身分であることが窺えた。
そうであっても気負う事なく相手できるのが茶の席というもの。
「まさか。出島屋が築いた数万両のからくり。知りたくないか?」
「やなこった。それで心中に殺しに出島屋取りつぶしまであったんだ。 たまったもんじゃないね」
「それは残念」
二人の間で笑いが起こったところで、お茶を立てる音が止まり、主人は静かに茶碗を差し出した。
先に侍が茶碗に口をつけ、次いで花散里が作法通りに口をつける。
静かな時間が流れた後で侍が席を立ち、次いで花散里が席を離れる。
先を行く侍におそらく護衛だろう侍が近づき、花散里を一瞥してから侍に向かって何かを伝える。
(やれやれ。あたしは一体何に巻き込まれるんだろうかねぇ?)
一人残された花散里は大きなため息をつくしかなかった。
その夜、花散里は傾城町の出島屋がらみの後始末を名目に、町奉行小原正純の所に出向く。
奉行所でなく彼の屋敷の方に牛車を着けると彼の部屋から嬌声が聞こえる。
「掌侍。お呼びにより参上いたしました」
「構わぬ。入るがいい」
甘い香が漂う部屋の中で花散里の他に先に来ていた源氏太夫が二人裸で並べられて喘ぐ。
部屋の中ほどに千両箱の蓋が開き、黄金色が部屋一杯に燦めいている。
これほどの女達にこのような真似をするような男だったか?
花散里の疑問もよそに、二人は体を汗だくにしてよがり狂っている。
「幕閣へは数万両と報告したが実際はもっとあった。
それは既にここに運び込んである」
女を嬲りながら小原正純は笑みを浮かべる。
月に照らされたその顔は下卑ていた。いや、もしかしたらこれがこの男の本質なのかもしれない。
いや、それよりも、この男はこうも堂々としていただろうか?
女達が果ててぐったりとすると、彼は傍らから小さな包みを取り出す。
そしてその中の粉を口に含み女の口に流し込むとそのまま激しく口づけをする。
しばらくして息ができなくなった女が小原の背中を叩く。咳き込んだあと彼女は再び喘ぎ始める。
彼女の恍惚とした顔を見て満足そうにうなずくと、彼は畳の上に置いた金入りの千両箱を無造作に開け、中から一握り掴むと掌に乗せて見せる。
「掌侍殿。簪を渡せば、すべて丸く収まる。傾城町も守られる」
「渡さねば?」
「さあ、どうなろうな?」
そう言うとまた女たちを戯れる。
これほどの女達にこのような真似をする女癖が悪い男だっただろうか?
花散里もこの場の空気に当てられたのか、自分の中の情欲が高まるのを感じる。
女たちも狂ったように嬌声を上げ続けるの見て、花散里はその臭いの強さを感じるのだった。
(しかしこれは何なのだろう? 媚薬のようなものなのか。それとも何か別のものなのか……)
花散里は髪に刺した簪を思い出した。蛍葛が笑って死んだあの夜、この簪に託した想いを。
甘い臭いが花散里の鼻をくすぐる。 その臭いが体を疼かせ痺れさせてゆく。 思わず体がよろけてしまい、着物の裾を手で押さえる。
そんな様子を見ていた小原正純は少し驚いた顔をした後、下卑た顔を花散里に見せる。
「蛍葛はそれでも笑ったわ」
「愚かな女だ」
小原は鼻で笑う。目の前の女たちを弄りながら、目で花散里を誘う。 花散里の体の底から熱いものが込み上げてくる。
熱病のように理性が飛び、体の奥底から欲望が溢れ出てくる。
もう我慢できなかった。
まるで操られるようにふらふらと近づいてゆき、目の前の女たちと同じ生まれたままの姿になり土下座をする。
「だが愚か者ほど扱いやすい」
髪から簪が抜き取られるのを気にすることなく、他の女と同じく粉を口に流し込まれると、そのまま激しく口づけし、夢中で小原に奉仕し始めた。
今自分は何をしているのだろう? そんな事はどうでも良かった。ただ、こうしなくてはいけないような気がしたのだ。
それに、ここでそうしないと自分が今まで信じていたものが壊れてしまうような予感がしていた。
だから何も考えずにただひたすら彼を求め続けた。
一夜百両は軽く飛ぶ花散里の体を貪りながら小原正純は誇る。
「これを賄賂として、幕閣に付け届けをする事になる。
いずれは大目付に、あわよくば大名に!」
そこから語られる話はひどいものだった。
前は、花散里の体を貪る程度の男だったのに、今、花散里を貪る小原正純の目は真剣そのものだったからだ。
人は金と権力で変わる。それを散々見てきたというのに、自分が関わるとは思わなかった花散里は小さく嘆息したが、そんな男にまるで狂ったように求める事に不思議と喜びを感じるようになる。
(なんだ……?あたしはどうなっちまったんだい?)
自分でも理解できない感情の渦の中で激しく求められ果てた際に花散る里も気を失った。
結局、一晩中抱かれ続けて解放された時にはすでに東の空に日の光が差し込もうとしている時刻になっていた。
夜通し男を迎え入れ続けるなど普通の女であれば耐えられない。
帰りの牛車の中、二人の太夫は着物すら着る余裕もなく痙攣して転がっている。
そんな彼女たちを見て裸の花散里は思う。自分もこれに近い目に遭わされたのだと。
帰り道の最中、花散里の足の間から熱いものがあふれ出し、股を伝って流れ落ちてゆくのがわかった。
甘くつんとした臭いが牛車の中に漂い、今更その臭いが何なのか気づく。
出島屋平蔵が禁制の抜け荷で数万両とも言える財を築き、南州家が怪しい動きをしていた荷の正体に。
「ちょっと止めておくれ」
そう言うと、牛飼い童の男が怪訝な表情で止まる。
三人の源氏太夫の裸を拝めて幸せそうな彼に花散里は言った。
「水を持ってきておくれ」
着るのも気だるく裸を晒した花散里はそのまま牛車から出ると、その場で手を合わせる。
無縁仏として葬られた蛍葛に墓はない。
だが、蛍葛が見たものに花散里は手を合わせずにはいられなかったのだ。
出島屋平蔵が『町が燃える』と言った意味も。
(燃やしはしないよ……あたしは掌侍なんだ……阿片なんかで、幕閣の陰謀なんかでこの町を灰にしてなるもんかい……!)
その決意と共に改めて強く祈ったのだ。