蛍葛が見たもの その6
夜の底を、鈴の音がかすかに横切った。
障子の向こうで月が薄くにじみ、寝間の灯心がひとつ、めらりと揺れる。交わる吐息が、その揺れに合わせて高まり、そして急にしぼんだ。
「……今の音は?」
額に汗の光る男が動きを止め、耳をそばだてる。
女は濡れた唇に静かな笑みをのせた。
「さぁ。わたしには、何も」
花散里は平然と嘘をつく。
鈴は傾城町で事が起きた合図――呼ばれた者だけが知る、声なき触れ。
逢瀬の相手、出島屋平蔵も、その意味を承知しているはずだ。男は短く息を吐き、肩で笑った。
「行け。遊びは逃げぬ。命が逃げたら元も子もない」
前の逢瀬と同じ台詞を出島屋平蔵は告げる。
ただ違うのは花散里の次の言葉。
「良い夢の為に香を焚きましょうか?」
互いに繋がったまま動かない。
もしここに風間新蔵が居たら、出島屋平蔵ごと刺し貫かれていただろう。
心中となった蛍葛と南洲家の侍のように。
「いつ気づいた?」
沈黙のあと、出島屋平蔵は静かに問うた。
嘲笑する男を、花散里も鼻で笑う。
「初めからですよ。無理を押して心中にするものだから、更に死人が出る始末」
出島屋平蔵はゆっくりと身を引く。つながった部分に痺れるような快感が走り抜け、花散里は嬌声をあげるが、目は出島屋平蔵からそらさない。
男の口元からは笑みが消えていた。
「何であの時、鈴が鳴ったのか?
わたしが出なければいけなかったからだ。
掌侍が奉行所に行けばもみ消せる。
それこそが狙い」
忍ばせた簪を取り出すと鈴がちりんと鳴り、静かな夜を切り裂く。
蛍葛の笑顔が脳裏によみがえった――死の間際、なぜ彼女は笑ったのか。
「恨みじゃない。
恨むなら呪う。
愛じゃない。
愛なら微笑むものさ。
あの娘は笑った」
花散里は足を絡めて抱きしめる。
蛍葛がしたように逃げられないように。出島屋平蔵は身体を引こうとするが、花散里はそれを許さない。
違いは、ここには二人を貫く風間新蔵がいない事。
吐き出された精を感じながら花散里は出島屋平蔵に囁く。
「笑ったのなら、勝ったのでしょう。
あの娘の命、何で買ったのです?」
沈黙の中互いの吐息のみが闇に溶ける。
やがて出島屋平蔵は、静かに言った。
「あれの家は商家で傾いていてな。
傾城町に来たのもそれが理由よ。
助けたまでの事」
「命に値段をつけたのですから、さぞ高かったのでしょうね」
「そこまでする価値があったというのだ」
出島屋平蔵が堰を切ったかのように責め、花散里は微笑んだまま唇をねだる。
汗ばんだ背に腕を回し、足は男の腰を絡めて。
やがてどちらともなく動き出し、吐息が絡み合う中、出島屋平蔵が仕掛けを睦言のように漏らす。
「あの浪人。何であのように早く来たのか分かるか?
繋がっておったのよ」
「ほ、蛍葛とですか?」
「いや。刺し殺された南洲家の侍とよ」
その一言で花散里の全てがひっくり返る。
互いに絡み合いながら今度は花散里が出島屋平蔵の上になる。
花散里は出島屋平蔵に深く深く己を沈めながら、蛍葛の笑顔を思い浮かべる。
「南洲家はご当主様が代替わりをして、先代の抜け荷を探っておられた」
出島屋平蔵は花散里の胸を弄びながら、言葉を続ける。
淡々と話される言葉は花散里を更なる深みへ落としていく。
「侍が蛍葛に近づき、蛍葛が抜け荷を調べた所で、俺が取引を持ち掛けた。
蛍葛は笑っておったぞ。
これで家が助かるとな」
傾城町の愛は嘘だが、出島屋平蔵の銭は本物だ。
蛍葛は愛と銭、どちらを取ったのか言うまでもない。
だから簪の鈴の中は空だったのだ。
花散里の脳裏に蛍葛の笑顔が浮かぶ。
その笑顔は、どこか寂しげで。
「この話、要するに出島屋と南洲家の抜け荷の話が元。
蛍葛と共に死んだ侍は南州家の勘定方あたりでしょう?
口封じを心中に見立てて話は終わるはずだった」
しかし、実際に起こった事は、花散里と浪人が調べ出して風間新蔵が口封じに殺され、花散里自身も刺客に襲われる始末。
芝居として破綻しているこんな滑稽な物語はない。
だから、最初から見抜く目を持つ人間が居れば簡単に看破される程度のこと。
二人は互いの腹を探りながら会話を交わす。
「傾城町を守る為に、わたしは旦那の筋書き通りに動いたのですよ。
にもかかわらず、あの浪人を邪魔しようとしなかった。
あれは一体どうしてです?」
「なら一つ聞かせてやろう。俺は浪人を殺すなと命じられている」
「浪人を? 誰からっ」
出島屋平蔵が考えにふけっていた花散里を突く。花散里は髪を振り乱しながら嬌声をあげ続ける。
だがそれでも、出島屋平蔵は止めない。
「名までは知らん。評定所を通じて伝えられた。『あの浪人は泳がせておけ』とな」
花散里の心がざわめいた。浪人――光源氏を名乗る男。彼はただの余所者ではない。
傾城町という場所の、全ての秘密を知ろうと動いている。
それが意味するのは何か。
出島屋平蔵が、激しく動く。
花散里は問いつめる事もままならず嬌声をあげ続けるだけ。
やがてちりんという鈴の音が残り、二人は果てる。
気だるく吐息を漏らしながら、花散里も出島屋平蔵は何も語らない。
「出島屋の旦那は“見ている”。奉行所は“見ない”。南洲家は“見せない”。――一番怖いのは、“見えていないふりをしている誰か”。
ねぇ。旦那。
旦那はどうして、そこまで分かっているこの浪人を見ないふりをしているんですかねぇ?」
出島屋平蔵の手が花散里の首にかかる。
ゆっくりと力を込めて締め上げていく。
息苦しさに顔をしかめながら、花散里はそれでも笑っていた。
手の力が抜ける。 首にかかった手が外れ、出島屋平蔵は深くため息をついた。
しばらくそのままの時が流れた。やがて重い口が開く。
「……それを言えばこの傾城町が燃える事になるからだ」
その声はとても静かだった。
しかし、その奥に秘められた何かがあった。それが何であるか、花散里にはわからない。
花散里は蛍葛が南洲家の侍にしたように繋がったまま出島屋平蔵に足を絡めて笑う。
だが、風間新蔵はもうすでにいない。
出島屋平蔵の吐いた言葉――「傾城町が燃える」――は、花散里の耳に刺さり、胸の奥でしばらく抜けなかった。
絡めた足を解き、襦袢を整えながら花散里は軽く笑った。
「燃える燃えないは旦那次第さ。あたしは町を守るためにいる。
だから足を絡めたのさ。蛍葛と同じように」
「掌侍の言うことは難しい。だが、一つだけ言える。評定所の上が『浪人を殺すな』と言った。
上とはだれの事だと思う?」
「幕閣の……誰か?」
花散里の目が鋭くなる。
「小原様直々に伝えられた。それを考えろ」
「……」
その瞬間、花散里は理解した。浪人はただの余所者ではない。
彼自身が“誰かの手”によって、意図的にこの町に放たれている。
「なら、あんたはただの人形かい」
吐き捨てると、平蔵は苦笑し、煙管に火を点けた。
「人形でいい。動くたびに銭が積もるなら、それでな」
「動くたびに死人も増えているよ」
皮肉を込めて言う花散里の言葉を、出島屋平蔵は聞き流した。
もう用はないとばかりに煙管を咥える。
それに合わせるように、部屋の隅に置かれた燈台の炎が揺れて、二人の影がゆらり揺れた。
「良い夢だった。
また見たいものだな……」
立ち上がりつつ、出島屋平蔵は淡々とした口調で言った。
もう話すことはないと言わんばかりに足早に去って行く姿を、花散里は黙って見送るしかなかった。
翌朝。
出島屋の前に人だかりができていた。奉行所の役人が平蔵を縄で縛り、引き立てている。
「出島屋平蔵、御法度を犯した抜け荷の罪により、打ち首申し付けられ候!」
町人たちのざわめきが広がる。花散里は人混みの中からその姿を見ていた。
平蔵は笑っていた。
「俺が消えても、町は燃えるぞ……」
その言葉を残し、彼は連れて行かれた。
人々は震え、ざわつき、やがて沈黙した。大店の主が一夜にして倒れる。その衝撃が町全体を揺さぶった。