蛍葛が見たもの その5
夜が更ける前、花散里は白楽楼善平の帳場に足を運んでいた。
帳場は紙と墨の匂いが漂い、算盤の珠が小気味よく弾かれる音だけが支配していた。酒や香の匂いに満ちた遊郭とは正反対の静けさだ。
「太夫殿が帳場に来るとは、珍しいことだ」
善平は算盤を弄びながら、眼鏡越しに花散里を見やった。
「今夜は客ではなく、算盤に会いに来たんだよ」
花散里は懐から螺鈿の簪を取り出した。鈴を外し、芯から竹紙を引き抜く。蠟燭の灯で炙ると符丁が浮かび上がる。
善平の目が細まり、珠を止める。
「……これは出島屋が港で使う符だな。荷の符、日付、そして揚げ代」
「じゃあ、帳簿で確かめてほしい」
善平は奥から分厚い帳簿を運び出した。頁を繰る指は迷いなく走り、ある一行で止まる。
「七日前の夜。南洲行きの船に茶と銅を積み、戻り荷に金銀細工。揚げ代は百両。太夫揚げとして計上してある」
太夫揚げの相場は三両が相場だ。百両は法外すぎる。
数字をなぞる善平の声は重く、花散里の胸に冷たいものが落ちた。
「蛍葛は、その額を見抜いた。太夫揚げにしては大きすぎる。だから写した」
「そして簪に忍ばせ、命を賭けた」
善平は帳簿を閉じ、深く息を吐いた。
「花散里。これは遊里の些事では済まぬ。南洲家が抜け荷で得た銭が幕閣に流れているなら、傾城町など一夜で吹き飛ぶ」
「だから奉行所は心中で片をつけた。でも……片はまだ付いていない」
紙をそのまま蝋燭に近づけると燃えた紙は火鉢の中で灰になる。
簪を懐にしまい、花散里は善平に頭を下げる。
「数字を示してくれてありがとう。命の借りができたよ」
「借りは重いぞ。数字は嘘をつかんが、人は嘘をつく」
「だからこそ、数字に縋るんだよ」
帳場を辞した花散里の背に、善平の声が追いかけた。
「出島屋の背後に南洲家がある。だが港を仕切るには町の内側の協力者が要る。奉行所か、評定所か――いや、もっと身近かもしれん」
花散里は一人夜の路地に出る。月は雲に隠れ、町は異様に静まり返っていた。そんな中で――ちり、と鈴の音が鳴る。
闇の奥に人影。浪人は柄に手をかける。
「来ると思った」
花散里への返答はなく、再び鈴の音。
花散里は動かない。彼女の目の前で刃が月下で閃く。鋼と鋼が打ち合い、火花が散る。
刃を防いだのは光源氏と名乗る浪人だった。
刺客の踏み込みも鋭いが浪人は受け流し、畳み込む。肩口を狙う刃を弾き、柄を捻り上げる。
鈴が転がり落ち、乾いた音を響かせた。
「……誰の命で動いた」
「……」
刺客は歯を食いしばり、目だけで怯えを示す。
「出島屋か、南洲家か。それとも奉行所か」
「……」
返答の代わりに、刺客は懐から小瓶を引き抜いた。瓶を砕き、中の液を飲み込む。
次の瞬間、泡を吹いて倒れた。
「毒か……」
浪人は倒れた刺客の手から鈴を拾い上げる。根元には、出島屋の印が彫り込まれていた。
翌日。
花散里と浪人は小座敷に並んで座った。卓には善平の帳場から引いた数字と、浪人が持ち帰った鈴が置かれている。
「で、まだ探るのかい?」
花散里は吐息をついた。
蛍葛と心中した侍、風間新蔵に昨日の刺客。
心中で片付けている事件なのに、まだ死人が出ている。
「やめると思うのか?」
「わたしなら命は惜しいからね」
分かっていたやり取り。浪人は笑みを浮かべて口を開く。
「この抜け荷。出島屋が段取りを組み、南洲家に繋げた。奉行所は蓋をした。だが、その背にまだ“上”がいる」
「上?」
「抜け荷の規模が大きすぎる。港だけで済む話じゃない。評定所にまで口を利ける者がいる」
評定所にまで口を利ける者なんて幕閣しかいない。
浪人は鈴を転がし、乾いた音を響かせた。
「蛍葛はその仕掛けを見た。だから殺された。――笑ったのは、『託した』からだ」
「託したのがあんただ。だから襲われた。あんたが居る限り出島屋も南洲家も安穏じゃいられない」
「そう動かされただけだけどねぇ……光源氏の君に」
花散里は簪を取り出し、灯にかざす。螺鈿が光を返し、鈴が小さく震えた。
「でも、私を消せば町が燃える。だから――反撃に出る。正面からじゃない。まずは“内側の裏切り者”を炙り出す」
浪人が目を細める。
「どうやって?」
「出島屋の旦那は“見ている”。奉行所は“見ない”。南洲家は“見せない”。――一番怖いのは、“見えていないふりをしている誰か”だよ。必ず誰かが動く。動いた者が、次の敵だ」
沈黙が落ちる。灯が揺れ、二人の影が壁に長く伸びた。
やがて浪人が口元に笑みを刻んだ。
「火遊びは嫌いじゃない」
「燃えすぎないようにね。燃やすのは、まだ早い」
花散里は簪を懐に仕舞い、帯の奥に押し込んだ。
「これからは、こちらの番だよ」
外では夜風が吹き、遠くで鈴の音がひとつ――不気味に鳴った。