蛍葛が見たもの その4
昼下がり、薄曇り。
花散里は、傾城町の奥にある小座敷に灯を一つだけ入れ、卓に品々を並べていた。白手拭い、血で縁が褪せた懐紙、そして――螺鈿の簪。先端には小さな鈴がひと粒、息を潜めるように鎮座している。
「揃えたな」
障子の向こうから、長羽織の影が差す。例の浪人だ。花散里は顎で座を示し、静かに言った。
「鈴が鳴る前に、片をつけよう。問いは三つ。【なぜ叫びが上がらなかったか】【なぜ笑って死んだか】【誰が得をしたか】」
「お題が三つ揃えば、噺もできるでしょうね」
「そういうこと」
浪人は卓に座すと、懐から小さな紙入れを出した。中には、昨夜の座敷で彼自身が拭い取っておいたわずかな血の粒と、畳の目に入り込んだ黒ずみを薄く削いだ粉。
「証拠というほどじゃないが、手がかりにはなる」
「上等だよ。――一つめ、『叫びがなぜ上がらなかったか』」
花散里は懐紙を開いた。紙面に、透明の指先でなぞったような輪が三つ、淡く滲んでいる。
「何を見た?」
と浪人。
「香だね。もっと言えば“眠り香”。阿片を吟味し、練って溶いたもの。匂い自体は花の香に紛れるが、灯りの熱でゆっくり揮発する。部屋に居れば、身体の芯から緩む」
「男が苦悶の顔だったのは?」
「痛みは殺せない。だが、声を押さえるには十分。息が詰まっても、喉は叫ばない」
「つまり、二人とも仕込まれていた」
「“宇治の茶に一滴”。遊里じゃ珍しくない手だよ。心中でよく使う。――ただし、今回は心中でない」
浪人は頷き、二つ目の問いに移る合図を目で送った。
花散里は簪を指先で転がす。鈴が微かに鳴った。
「二つめ。『なぜ笑って死んだか』――この子(蛍葛)は死を知っていた。身の回りを処分し、簪を人に託すほどに」
「覚悟の笑い、というやつか」
「それにしては、澄み過ぎていた。……私はね、もう一つ可能性を見たのさ」
花散里は簪の小鈴を、爪の腹で軽く押す。ちり、と鳴って、止む。
「この鈴は表向きの音。――裏がある」
彼女は鈴の根元を捻った。ぱちり、と鈍い感触。小鈴の座が外れ、中から極細の芯が現れた。
浪人が身を乗り出す。
「空洞か」
「そう。だから音が鳴らなかった。中に何か入っていたのかもね」
浪人が息を呑む。
「港の名、積荷の符、金の動き……。南洲家と出島屋の関与……」
「蛍葛は見たんだ。“抜け荷の目録”。それを写して簪に仕込んだ。――だから笑えた。『もう用は果たした』ってね」
部屋の空気が、わずかに変わった。
浪人は紙を卓に戻し、三つ目の問いを引き取る。
「『誰が得をしたか』。この紙切れが外に出れば、誰が困る?」
「出島屋、南洲家、奉行所……そして、幕閣の誰か」
「奉行は、心中で押し切った。あれは“守り”だ。攻めたのは、別の手」
花散里は頷き、机上に指で簡単な図を描く。
「順番に並べよう。――まず、“眠り香”は女が用意できる。蛍葛は自分に、そして相手の盃にも落とした。次。誰も見ていない聞いていないなら、中の人間が下手人だ」
「出島屋の手、だな」
「風間新蔵――腕の立つ護りの浪人。彼なら、一突きで二人を仕留められる。実際、あの傷はそれを語ってた」
浪人の目が暗く光る。
「だが、その風間は死んだ。見事な一太刀で。口封じ……か」
「早すぎる口封じは、焦りの証。
あれは傾城町の用心棒の一人。そのあたりの連中に殺される奴じゃない。
となれば、殺したのはもう一つだろう?」
「……南洲家か。だが、出島屋と南洲家は組んでいるのだろう?」
「火がついたら消しにかかるでしょう?」
花散里が浪人を指さす。
憮然とした顔の浪人を前に続きを口にした。
「あんたが来るのが早すぎたのさ。
あんたが幕府の犬かどうかはこの際どうでもいい。
私が心中で片づけようとしたものを、現場で口を挟み、評定所が動いた。
出島屋と南洲家はそりゃ、怖かったでしょうね」
沈黙。
灯心がぱち、と小さく鳴った。
「残る問題は、誰が“段取り”を組んだかだ」
浪人が低く言う。
「出島屋の旦那だけで、ここまで綺麗に繋がるか?」
「旦那は港の伝手。でも、評定所に手を回すには貫目が足りない。南洲家の家中――いや、もっと上。幕閣の誰かが“心中”という蓋を望んだ」
「奉行は蓋を置いただけ。鍋の火加減を見ている別の手がある」
花散里は簪を懐に戻し、帯の内側に締め直した。
「今、私たちが持っているのは、油に投げ込む種火だ。――だが、投げれば町が燃える」
「燃やす気は?」
「燃やさないのが、掌侍の仕事だよ」
浪人が静かに笑う。
「俺の仕事は、燃える場所を指し示すことらしい」
「なら、指すだけにしておくれ。火を点けるのは、まだ早い」
花散里は卓を片づけはじめ、白手拭いで竹紙をくるんだ。
「まずは確かめる。抜け荷の答え合わせ。――港の番、積荷の符、揚げ代として支払われた金の額。白楽楼善平の帳場と突き合わせる。あの人は商いの数字に嘘をつかない」
「もう一つ。蛍葛だ」
浪人が立ち上がる。
「死を受け入れるほどの何か――それ確かめる。番所、なじみの客、人買い。そこにも答えがある」
「用心してお行き」
「用心する相手を、教えてくれ」
「出島屋の旦那は“見ている”。奉行所は“見ない”。南洲家は“見せない”。――一番怖いのは、“見えていないふりをしている誰か”だよ」
浪人は戸口で振り返り、軽く一礼した。
「太夫さん。あんたは、どうしてそこまで“町”に肩入れする」
「ここが私の居場所だからさ。居場所を守らない女は、女ではないよ」
長羽織の裾が闇に消え、座敷に静けさが戻った。
花散里は卓に肘を乗せ、簪の鈴に爪を当てる。ちり――と、か細い音。
蛍葛の笑顔が、灯芯に浮かび、消えた。
――おまえは、何を見た?
――何を、託した?
答えは懐の内に温い。けれど、この温さは刃にもなる。
花散里は立ち上がり、簪を帯の陰に深く押し入れた。
夜が降りる。
番所の鈴は、いつもより一拍、遅れて鳴った。
その遅れが、誰の手によるものか――それだけで、今夜の行き先が決まる。
花散里は簾を上げ、夜風を吸い込んだ。灯が揺れ、胸の奥の鈴が、遠い呼び声に応えるように震えた。
まずは死体。
次に鈴。
最後に、火消し。
掌侍の順番は、いつだってその通りだ。