蛍葛が見たもの その3
幕府の闇というのはそこそこ深い。
たとえば、将軍家一門衆筆頭衆が御三家と呼ばれる前は四天王と呼ばれていた。
東西南北それぞれの方位に置かれた四天王家の内北洲家が没落したのは、お家騒動の果てに将軍裁断による改易となったからで、改易によって多くの人々の運命が狂う事になった。
それは、北洲家庶子として生まれた娘にも及び、末は大奥か内裏の姫と謳われた彼女は傾城町に売られその身を売りながら、その身を汚されながら傾城町の頂点に上り詰める事になった。
傾城町はお上の許しを得て営業する遊女屋であるから、そんな大奥か内裏の姫と謳われた彼女の元には、様々な客が訪れては彼女を抱いてゆき、将軍家や大名家の方々がお忍びで足を運ぶ事も珍しくない。
遊女らしからぬ掌侍という位階は、かつて高貴な客のお屋敷に呼びつけられた際に使われなくなった宮廷官位を自称したのが始まりらしいが、それも時が経てば本物と同じように扱われてゆく。
そんな掌侍に花散里が就いたのは、彼女の血と才覚と体を考えれば当然ともいえた。
見世物のように嬲られながら傾城町の中で出世していった花散里は、求められるがままに体を差し出し、体だけでなく教養も美貌も磨き上げ、傾城町の頂点に上り詰める。
頂点に上り詰めた花散里を豪商や大名家の御曹司が見逃す訳もなく、夜な夜な体を晒し、差し出し、嬲られ、貪られ、喘ぎ、鳴き、感じ、果てながら、花散里は豪商や大名家の御曹司を籠絡する。
体だけではない。傾城町の中に建てられた廓の主人である楼主や禿に誰が誰の客なのかを伝え、その客が他の誰とどんな遊びをして、どれだけ金を使ったのかまで事細かく報告し、その情報を元にして太夫としての地位を固めていった。
今や掌侍という地位は、お上の許しを得た遊女屋の枠を越え、遊女を束ねる遊女の頂点と化していた。
『かしこみて 摩羅の御前に 仕えつつ 掌侍を 照らす月影』
傾城町で流行った狂歌がそれを示している。
花散里の才覚と美貌はそれだけのものであったのだ。
しかし、そんな傾城町もお上から見れば廓であり、所詮花散里は遊女の一人でしかない。
その事に対してお上からのお咎めがないのは、傾城町が幕府公認であるからだ。
お上としては、傾城町に大金を落とす大名家や豪商は良い客であり、彼らに金を落とさせる花散里のようなの掌侍や太夫は良い駒である。
花散里は半ばお上の公認を得て傾城町の頂点に君臨し、花散里が纏めた傾城町が冥加金で幕府の懐を潤すという構造が出来上がりつつあったのだ。
花散里は傾城町を代表する遊女であり、その美貌もさる事ながら、その才覚と体を使えばどんな男でも手玉に取り、そして溺れさせる。
傾城町の太夫ともなれば、大名や豪商の妾になる事も珍しくなく、そんな花散里が己の城である傾城町の番所にて死体を確認する。
「確かに、こいつは風間新蔵さね」
花散里は死体に手を合わせる。
そこには一太刀で首を斬られた風間新蔵の死体があった。
「しかし、この斬り口は見事だな」
「ええ。見事な手並みで」
白楽楼善平の言葉に花散里は頷く。
白楽楼善平の見立てではこれは達人の剣技によるものだ。
「花散里。こやつを斬ったのは誰だと思う?」
「さあ?」
花散里はあえてとぼける。
白楽楼善平もわかって振っているのだ。
一つはあの光源氏に返り討ちにあった。それならまだいい。風間新蔵の殺しで町奉行に引っ張らせればいい。
もう一つは口封じのために出島屋平蔵が手の者を用いて殺した場合だ。
その場合、下手人は出島屋の手の者という事になるが、そうなると話が傾城町の心中がまた蒸し返される事になる。
「で、この仏様は何処でくたばったんだい?」
「それが、港の近くの浜で。港で聞き込みをしていたら、南洲行の船がその日出港していたらしく」
「何処の船だい?」
「出島屋で」
白楽楼善平の言葉に花散里は考えを纏める。
探れば探るほど南洲家と出島屋の繋がりが浮かび上がる。
終わった事件を蒸し返すのは野暮のする事だが、南洲家は危険だと花散里の直感が告げている。
「どうしたのかね? 花散里」
「いんや。なんでもありませんよ」
白楽楼善平の問いに、花散里は笑って返すのだった。
番所に詰めていた奉行所の同心が声を荒げる。
「どうでもいいが、この仏はだれが引き取るんだ?
邪魔だからとっとと片付けてくれ!」
「ああ。そいつは無縁仏として葬ろうかね。
手配は私がしよう」
白楽楼善平はそう言うと彼の忘八者たちが同心と共に無縁仏を葬る手配を始める。
ただの浪人が殺されて無縁仏として葬られる。
そういう事になるのだが、花散里は胸騒ぎがする。
必死に隠蔽しようとしても、あの光源氏が全てを暴こうとしている。そんな胸騒ぎが。
「ああ。面倒ったらありゃしない」
「花散里。何か言ったか?」
白楽楼善平の言葉に、花散里は頭を振る。
「いんや。何も言ってませんよ」
「そうかね? まあ、いいが」
その後、色気と金で出島屋の忘八者をたぶらかすと、蛍葛の話を聞くことができた。
連れ込み茶屋で互いに何もまとわぬ姿で勘次と名乗った忘八者は煙管を咥えて口を開く。
「出島屋の親分と南洲家の繋がりは、まあ、お察しの通りさ。
出島屋の旦那が大きくなったのは南洲家の抜け荷を扱いだしたからだ。
南洲家のお侍がいつの間にか出島屋に出入りして、その縁で旦那は大儲けをしたのさ」
「それで?」
「抜け荷で儲けるならば、何かしかの伝手が必要だろう。
その伝手を出島屋は持っていた」
「それが、傾城町?」
花散里の問いに勘次は頷く。そして煙管を咥えると火打ち石で火をつけて一服する。
勘次の手は花散里の体をまさぐっていたが、花散里は偽りの喘ぎ声をあげる気にもならず勘次に続きを促す。
「そうよ。あんたら『源氏太夫』の揚げ代には莫大な銭が動く。
それに抜け荷の銭を隠したのさ。抜け荷は『源氏太夫』の下賜として商人や大名の手に渡り、その代金は揚げ代という形で払わされるという訳だ。
傾城町の中で片付く限り、奉行も幕府も動かない……はずだった」
「はずだった?」
花散里の疑問に勘次は頷く。
勘次の花散里をまさぐる手も止まる。勘次はその不安に答えを出すように、煙管の灰を灰皿に落とす。
「俺も詳しくは知らんが、先の将軍様がお隠れになった時、南洲家は妙な動きをしていただろう?
抜け荷で儲けた銭の先が幕閣なら……答えは一つだろう?」
「なるほど、そういう事。
ならば、あの殺しは口封じかい」
先の将軍がお隠れになった時にお子はおらず、御三家の中から選ぶか先々代の庶子を選ぶかで幕閣は大いに揺れた。
結局幕閣は大奥の意見も取り入れて、先々代の庶子を今の将軍様に選んだが、御三家で次期将軍にと動いていた南洲家は当主と次期当主が流行り病に倒れるという不幸が続く事になり、今は庶子の四男が南洲家を継ぎ立て直しを図っていると聞く。
花散里は勘次の答えに納得して、その体を勘次に預ける。
それでも勘次は花散里の体を貪ろうとはせず、いつの間にか彼の震えが花散里にも伝わる。
「怖いんだ。平然としている出島屋の旦那が。
南洲家絡みでこれだけ死人が出ているのにあの旦那は顔色一つ変えない。
あの女もそうだ」
「あの女?」
勘次から出たあの女に花散里は心当たりがあった。殺された蛍葛だ。
勘次は震える声で続ける。
その震えが彼の恐怖と不安を物語っているようで、花散里はただ黙って彼の言葉を待つ。
「あの女、殺されるのを知っていたんだ。
身の回りのものを処分して、俺にも高価な簪をくれてな。
『もう必要がない』って笑ったんだ。
あの後、その笑顔に俺はぞっとしたよ。
風間新蔵に男と共に刺し貫かれた時ですら、あの女声すらあげなかったんだ」
「その簪は、今持っているのかい」
花散里の言葉に勘次は懐から簪を取り出す。
それは見事な細工で、一目見ただけで高価なものだとわかる。
そんな簪を花散里に手渡しながら、勘次は言った。
「この簪は、俺が持つには重すぎる。
あの女が何を考えていたのか、俺にはわからん。でもな」
勘次は花散里にその簪を渡すと、花散里の体を抱きしめる。
「俺は怖いんだ。あの笑顔を思い出すだけで震えが来るんだよ」
「そうかい」
花散里は勘次の震える体を抱きしめ返す。
その体は恐怖に震えていたが、それでも彼は優しく抱きしめ貪るように花散里の体を抱く。
喘ぎ声をあげながら花散里は思わずにはいられなかった。
(死ぬと分かってなお笑えた蛍葛は、何故笑えたのか)
その疑問は花散里の胸に刺さり、勘次が恐怖を欲望と共に花散里に吐き出し続ける間決して抜ける事はなかった。