蛍葛が見たもの その2
夜が明け、傾城町に薄曇りの朝が訪れる。
楼の屋根に残る夜露は光を鈍く反射し、朝靄の中で街の華やぎは夢の名残のように霞んでいた。
花散里は遅い朝を迎え、昼の顔に着替えていた。
艶やかな唐衣ではなく、女官装束――掌侍の衣。夜の花魁から昼の宮仕えへ。誰もが笑う二面性だが、この町にとっては必要な顔だった。
腰に短刀を差し、髪を結い直す。玉鬘が裾を整えながら小声で問う。
「姐さん、やはり奉行所へ?」
「ええ。評定所が口を出したと聞いたからね。動かずにいれば、いずれ町ごと呑まれる」
牛車に乗り込むと、金箔を散らした車体が朝の光を鈍く照り返した。通りを歩く町人や侍が足を止め、その視線に欲と羨望が混じる。
「太夫のお成りだ」
「一夜で二十両はかかる女が、昼は役人の座敷へ通うとはな」
「まるで狐の嫁入りだ」
そんな囁きを耳にしながらも、花散里は顔を崩さない。牛車の中、手にした報告書を広げる。
そこには『侍と遊女、心中』と淡々と記されていた。叫び声を誰も聞かなかった、と。
「嘘だらけだねぇ」
苦悶の表情を浮かべた侍が、声もなく死ねるものか。皆が口裏を合わせている。理由はただ一つ――背後に、南洲家がいるからだ。
奉行所に着き、掌侍としての名を告げる。門番の目がいやらしく光ったが、花散里は気に留めない。
迎えたのは町奉行・小原正純。四十を過ぎた中年で、書物好きの学者めいた顔をしているが、実際は賄賂に塗れた悪徳役人である。
部屋に通されると、彼は千両箱に目をやりながら薄く笑った。
「掌侍殿。来るとは思わなんだ。昨夜の件か」
「はい。南洲家の名が絡むと聞きまして」
花散里が一礼すると、小原は女官装束の襟元に視線を這わせた。手が伸びかけたのを、花散里は身じろぎひとつせず受け止める。
「傾城町の安寧をお守りいただきたく」
「評定所が騒ぎ立てておるな。だが――南洲家となれば、老中の中でも意見が割れよう」
小原の声が鋭さを帯びる。
「先の将軍が亡くなられた折、南洲家は動きが怪しかった。新将軍の御世に挨拶も控え、抜け荷で銭を肥やしている噂もある。放っておけば幕閣を揺るがしかねん」
「ですから」
花散里は静かに頭を下げる。
「あれは心中でございましたと。傾城町は、ただの遊里でございます」
小原は下卑た笑みを浮かべ、懐に銭をしまいこむ。
「心中として片付けるのは容易い。だが、南洲家の侍が女と死んだとあっては、評定所も黙らぬぞ」
「そこは……お奉行様のお力を」
花散里は衣を緩め、白い肩を晒す。小原の手がその肌をまさぐる。吐息を飲み込みながら、花散里は心中の真実を必死に隠し込む。奉行所と評定所の綱引きに、この町を巻き込むわけにはいかないのだ。
翌日。
奉行所は『侍と花魁の心中』と正式に公表した。
検死は行われず、葬儀も簡素に。だが、それがすべてを隠せるはずもない。
葬儀の帰り、墓地の端で花散里は立ち止まった。女――蛍葛の無縁仏に手を合わせる。
隣から声がかかる。
「よく心中で通したもんだ」
振り向けば、あの浪人がいた。夜と同じ長羽織、遊び人の顔に皮肉めいた笑みを浮かべている。
花散里は睨むように目を細めた。
「そこはお役人様のなさること」
「へぇ。掌侍のあんたが言うのなら確かだろうな」
浪人は墓石を見やり、声を落とす。
「だがな――あの女は、死ぬと知っていた顔だった」
「……何を言いたい」
「笑ってたろう。背から刺されて、相手を見て、声も上げずに笑った。死ぬとわかっていて笑える奴なんざ、そうはいない」
花散里の胸に、鈍い痛みが走る。
蛍葛は死の前に、身の回りを処分していた。簪を人に譲り、「もう要らぬ」と笑っていたという噂もある。まるで死を迎える準備をしていたように。
「……何を知っている」
「知りたいのは俺の方だ。南洲家か、出島屋か。それとももっと上か」
浪人の眼差しがまっすぐに花散里を射抜く。
その眼は、欲でも野心でもない。ただ「真実」を追う鋭さだった。
花散里は目を逸らし、籠に乗り込む。外から護衛の浪人・風間新蔵が声をかけた。
「消しますか?」
「やめておきな。あれは犬だよ」
「犬なら尚のこと、早めに首を……」
花散里は首を振った。光源氏と名乗るその男は、危うい火種を抱えている。だが、その火を消すのはまだ早い。
二日後。
風間新蔵の死体が町外れで見つかった。
一太刀。首を斬り落とされた鮮やかな剣筋。達人の業としか思えぬその死は、花散里の胸に重い影を落とした。
笑って死んだ蛍葛。
そして、影のように現れては真実を追う浪人。
傾城町の闇は、まだ口を閉ざしたままだった。