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空蝉比丘尼の憂鬱 その8

花散里どの


 湯の匂いが薄くなった。湯殿のそれではない。釜の口から立つ湯気の匂いだ。

 障子越しの光が白く、畳の目の影が細く落ちる。

 炉の灰は均され、湯は小さく鳴る。鳴りは絶えず、けれど増えもせぬ――庵という場所はそういう「形」で人を落ち着かせる。

 そなたらが去ってから、香の残りが少しだけ薄くなった。

 白檀でも沈香でもない、紙と薬の匂いが喉の奥を刺す日がある。

 誰かが道を知っている日だ。女の噂より静かに、火種を運べる手が、どこかで息をしている。


 昨夜、代官所の使いが一通を置いていった。

 戸は叩かぬ。名も告げぬ。紙を渡す指が早い。朱の油がきつい紙だ。墨は乾いておらず、角に触れれば指が黒くなる。

 文は短い。「筋の者、召し上げ」とだけ。名は無い。名を書くほどの者ではないという形であった。


 そして、その朱の下にもう一枚――乾いた紙が挟まっていた。

 こちらは役所の匂いがしない。名もない。だが、結び目だけが端正だった。

 端正すぎる結びはかえって人の手を思わせる。

 庵の作法ではない。庵の理に外の理が触れた痕だ。


 朝、門前の婆も消えた。履き物が揃っていない。帳面の端が裂け、名義が一つ落ちた。

 名が落ちれば声も落ちる。残るのは癖と匂いだけだが、匂いは風に散る。

 探すな。散ったものを集める手になれば、また追われる形になる。


 ここで一つ、そなたの胸の内を締めるために書く。

 そなたは阿片の取引を知らぬ。小判の在処も知らぬ。割符の意味も、相手の名も、手順も知らぬ。

 知らぬことを恥と思うな。

 知らぬ者ほど追われるのは、追う者が真実を欲するからではない。

 真実は口を閉じれば消える。彼らが欲しいのは掴みやすい「形」だ。


 印籠は今朝、庵を出た。

 名を書かぬ紙の下にあった乾いた紙――その結び目の手が同じ手順でそれを引いた。

 ここには置かない、という形で。

 私は止めぬ。止めれば、庵が取引の場になる。

 庵は取引をせぬ。庵は、境を引くだけだ。


 だが、何も残さぬのではない。

 仏前には空箱を置いた。紐だけを切り取って封じ、結び目はほどかぬまま残した。

 欠けた紋の触り――削り跡のざらつきは指が覚えている。

 物は去っても形は残る。残る形がこちらの盾になる。


 そなたらが戻れば、追う者は町に目を向けるだろう。

 だが庵には来させぬ。来たとしても、ここにはもう“物”がない。

 あるのは理だけだ。

 理は奪えぬ。奪おうとする者は自分の足の音に躓く。


 そなたらは傾城町へ戻れ。

 戻るなら形を崩すな。言い訳を積むな。肩を落とすな。畳の目を乱すな。目を伏せ過ぎるな。

 伏せれば「隠し事の形」になる。知らぬと言え。知らぬのは真実であり、真実は最も固い盾だ。


 火種の匂いがしたら、まず息を整えよ。

 匂いに先走れば形が崩れる。

 形が崩れれば理が裂ける。


 ――空蝉




 傾城町の掌侍の役宅に届けられた手紙を、花散里は読み終えると竈へくべた。

 紙はよく燃え、灰は軽い。

 残るべきものは残らず、残してはならぬものは残らない。

 理は火に勝てぬ――けれど、理の在り処は紙ではない。

 灰は残らない。

 けれど結び目の形だけが、あの夜の声の形と同じだった。

 ――借りが残る。


 外へ出ると、日が傾きかけていた。

 白粉の匂いに煤の匂いが薄く混じる。

 町はまだ昼の顔を保っているのに、影の端はもう夜の形を急いでいる。


「おかえりなさいませ。掌侍様」


 白楽楼善平が何も変わらぬ声で迎えた。

 変わらぬというのは強い。

 ほんの数日この町を抜けただけなのに、紗灯尼庵の時間が夢幻だったのではないかと息の奥が言い訳を探す。

 けれど指先には、畳の冷えがまだ残っている。夢ならこうは残らぬ。


「変わりはないと言ったら噓になるわね。

 出島屋がお取りつぶしになって、お奉行がお隠れになったのだから」


「それでも、この町の夜が変わることはありませんとも」


 帳が降りれば傾城町は本来の姿へ戻ってゆく。

 欲に溺れる男たち。男を狙う女たち。男と女の間を舞う銭の音。笑い声の隙間にため息の湿り。灯りがともれば匂いまで整ってしまう。


「庵の日々はいかがでしたかな?」


 善平の声は顔役としての声のままだ。

 花散里はその声に形を合わせる。

 掌侍の声――角の立たぬ、けれど揺れぬ声を選ぶ。


「なにもなかった。

 太夫三人が庵にお参りをした。それだけよ」


 なかったことは、罪に問えない。

 問う者がいても、形がない。

 形がないものは掴めぬ。掴めぬものは火種にならぬ。

 花散里は袖の内で、灰になった紙の軽さを思い出し、息を一つ整えた。


 空蝉比丘尼の手紙は、庵を守っていた男たちのうち、二つの名が消えたあとでも紗灯尼庵が健在であることを――紙の匂いではなく、整えられた「形」で伝えていた。

 久世が消え、綿貫が消えた。

 勘次と綿貫は死んだ。

 死に方の違いだけが残り、理由は灰と同じく散る。

 それを差配していた久世は、名もなく召し上げられた。

 名がないのは赦しではない。名を書く必要がないという手つきだ。

 召し上げたのが幕閣か、南洲家か――そこを問うても無駄だろう。

 問えば問うほどこちらの息が乱れる。

 息が乱れれば形が崩れ、形が崩れれば火種になる。

 ただひとつ確かなのは、庵が代官所の向こう――そのさらに向こうの理の下に置かれたということだ。

 庇護と言えば聞こえはよい。

 だが実際は、火が移らぬように境を引かれただけだ。


 書かなかったのは、書く必要がなかったから。

 書けば名が生まれ、名が生まれれば矢が立つ。

 空蝉比丘尼は名ではなく、条で守る。――第一条:庵を荒らすな。

 白妙と紫苑は、少なくとも生き残った。

 売られず、名を剃られず、息だけを残して。あとは柊がうまくするのだろう。

 彼は手を汚さずに手順を回すことができる――そういう顔をしている。

 門前町の廓では、名もない遣手婆が消えていた。

 名がないのだから消えても音が立たぬ。

 傾城町と同じく遣手婆のことなどすぐに忘れ去られてゆくのだろう。

 忘れるという形がこの町の手入れだ。




 日が落ちるのは早い。傾城町の灯はそれを待っていたかのように一つずつ起きる。

 障子の白が薄闇に溶け、格子の影が細い筋になって路地を撫でる。

 風は冷えを連れてくるが、白粉の匂いが先に勝つ。町は匂いで夜を整える。

 襖の向こうで衣擦れが重なり、笑い声が一つ、すぐに消える。

 戸が開くと雲隠が簪を直し、蜻蛉が帯の端を指でつまんで結び目の位置を確かめながら出てくる。

 三人とも似た色は選ばない。似せれば群れに見える。群れは狙われる。狙われれば火種になる。だから、違う色で同じ形を作る。

 雲隠が先に笑いを作る。


「おや、白楽楼の旦那も来ていたのかい?」


 その軽口を受け流すように、蜻蛉が丁寧に膝を折る。


「お久しぶりです。善平様」


 善平は顔役の声で、二人を褒めた。

 声は変わらない。変わらない声は、町を安心させる。


「雲隠太夫に蜻蛉太夫。相変わらずお美しい」


 すると花散里がほんの少し顎を上げる。

 笑みは浅い。けれど刃先は鈍らない。


「……私は?」


 善平は一瞬だけ視線を揺らしすぐに戻した。

 掌侍の顔には、褒め言葉より“扱い”が要る。

 声にすれば軽くなる。軽くなれば、誰かが真似をする。真似は乱れを呼ぶ。


「掌侍様は――声に出さずとも」


 花散里は返さない。返さないことで、答えを整える。

 蜻蛉が小さく息を漏らし、雲隠が肩をすくめた。


「行くわよ」


 花散里が言うと、二人は返事の代わりに衣の裾を揃えた。

 余計な言葉は増やさない。増やせばどこかから矢が立つ。言うべきは客の前だけで足りる。

 玄関を出た瞬間、夜の匂いが肌に触れた。

 油と煤と、甘い酒と、銭の湿り。

 町はいつも通りに見える。だからこそ恐ろしい。

 いつも通りに見えるように、誰かが整えたのかもしれない――そう思うと喉の奥が一度きゅ、と鳴る。

 花散里はそれを飲み込み、歩幅を一定にした。

 歩幅が乱れれば心が乱れる。心が乱れれば顔が揺れる。揺れれば客が値踏みを始める。

 茶屋へ向かう道すがら、提灯が揺れている。

 揺れは風のせいだけではない。見えぬ手が夜の帳を引く音だ。

 三人の背はまっすぐで、髪は高く結い上げられ、襟足だけが白い。

 白は弱さではない。白は、こちらが見せる刃だ。

 三人はそのまま歩き出す。振り返らない。

 振り返れば、残した灰を思い出してしまう。

 紙の軽さと、結び目の形と、消えない借り――それらは今夜の化粧には混ぜない。

 混ぜれば匂いが変わる。匂いが変われば、客が嗅ぎつける。

 三人の足音が遠ざかり、提灯の下へ吸い込まれていく。

 町はすぐにそれを飲み込み、何事もなかったように銭の音を鳴らし始める。善平はその後ろ姿を見送りながら、息を一つだけ整えた。

 戻る者は戻る。戻り方だけが、いつも問われる。

 灯の列の向こうで、花散里の袖が一度だけ揺れた。

 風か、あるいは夜そのものが手を添えたのか。

 善平は目を細め、声のないまま、いつもの顔を作る。

 この町の夜は変わらない。変わらないように、形を整え続ける。

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