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空蝉比丘尼の憂鬱 その7

 茶室を出ると、山の冷えが頬を撫でた。

 炉の匂いが背中に残るのに足元の土はもう外の理だ。

 花散里は袂を整え、蜻蛉と雲隠の顔を順に見て黙って頷いた。

 言葉は要らない。言葉は形を変える。

 門の内で柊が待っていた。背を伸ばしているのに肩が硬い。

 白砂と紫苑はその背後に半歩隠れ、目だけで花散里を追っている。

 二人の目は、怯えと焦りが同じ色で混ざっていた。


「……花散里さま」


 白砂が声を出しかけ喉で飲み込む。

 声は外へ漏れるほど危うい。


「どうしたの」


 花散里は優しくも厳しくもない声で返した。

 廓で身につけた“間”の声。

 紫苑が袖の中を探り、布の奥から小さな硬いものを取り出した。

 光を受けて艶が走る。

 印籠――だが、ただの道具ではない。

 家紋が削れていた。欠け方が乱暴で爪か刃で削ったように荒れている。

 白砂が震える手でそれを支え、花散里の前へ差し出す。


「これ……持って行ってください」

「……それは?」

「意味は分かりません。分かりませんけど、綿貫さまが――これを触る時だけ、目が変わって……」


 紫苑が言葉を継いだ。


「湯殿の後始末で、脱衣の籠の底に落ちていました。遣手婆さまが拾う前に、白妙が……」

「持ち出したの」

「はい。持ち出しました。……怖かったんです。あれが“ある”だけで、誰かが殺される気がして」


 花散里は印籠を受け取らず、しばらく眺めた。

 欠けた意匠の跡。南洲家の紋――その形を、花散里は見覚えていた。

 見覚えがあること自体が火種だ。火種は握り方を間違えると燃える。


「柊」


 柊が一歩前へ出る。


「はい」

「二人は、これを誰にも見せてない?」

「……見せていません。俺も、今はじめて見ました」


 柊の声が少しだけ硬くなる。誠実さゆえの硬さだ。

 花散里はようやく印籠を受け取り、袂の奥へ沈めた。

 布が少しだけ重くなる。重いのは物ではなく、名の重さ。


「よく持ってきたわ。……そして、もうこれについては忘れなさい」

「すみません」

「謝るのはあと。今は生きる形を作る」


 白砂は唇を噛み、紫苑は目を伏せた。

 二人とも、何を渡したか分かっていない。

 分かっていないからこそ渡せたのだと花散里は思う。

 分かっていれば手が止まる。

 止まった手を刃が切る。

 門の方から空蝉比丘尼の影が見えた。

 近づかない。近づかずにこちらを見ている。

 見守りではない。見届けだ。

 庵の主は情で送らない。形で送る。


「行くわよ」


 花散里が言うと、蜻蛉と雲隠が静かに並び、柊は白砂と紫苑を門の内へ戻し、二人に背を預けさせた。見送る形を作ったのだ。

 三人を庵の理に預ける。この庵に居る限りは空蝉比丘尼が守ってくれる。

 これも形だ。

 門をくぐる瞬間、花散里は振り返らなかった。

 ただ、背中にひとつ、声にならない圧が落ちた。

 空蝉が黙って“理”を渡した合図。

 山道へ踏み出す。足元の砂利が鳴る。鳴る音が妙に揃って聞こえた。

 こちらの足音ではない。どこか遠くで、誰かがわざと音を立てている――そんな気がした。

 花散里は袂の重みを指先で確かめ、息を吐く。


「今更だけど、庵に残ってもいいのよ?」

「本当に今更ね」


 花散里の言葉に雲隠が笑う。

 笑いは軽いが、軽さの底に覚悟が沈んでいる。

 この先に何が待っているのか、肌で察していた。


「そうですよ。三人並んで肌を晒した身じゃないですか。

 花散里姐さんだけ置いていくなんて、出来ませんよ。」


 蜻蛉の声も落ち着いている。

 落ち着きは諦めではない。刃に備える形だ。

 山を下りきる頃には、春の匂いが土から立っていた。

 湿った草、川の冷え、炊き出しの煙――庵の苦い茶の香りはもう袖から薄れ、代わりに門前町の甘い白粉と香が、先回りして鼻の奥にまとわりつく。

 足元の砂利はいつしか踏み固められた道になり、道の脇には茶屋の軒が並びはじめた。

 花散里は袂の奥の重みを、指先で一度だけ確かめる。

 重いのは物ではなく名の重さだ。

 背後の足音が妙に揃って聞こえる気がしたのは、気のせいではないのかもしれない。


「――姐さん、臭いが戻ってきましたね」


 蜻蛉が鼻で笑う。笑いの皮を被せた声だ。


「戻ってきたんじゃない。こっちが戻されたのよ」


 花散里は歩幅を変えない。

 歩幅を変えれば、こちらが怯えた形になる。

 門前町の廓は昼でも眠ってはいない。

 格子の影に男の目が潜り、暖簾の裏で湯が鳴り、端唄が遠くで切れては繋がる。

 路地の角に立つ提灯が、風で一度だけ揺れる。

 灯りは昼でも灯る。灯りは呼ぶためにある。呼ばれたくない者ほど灯りの輪に入れられる。

 その灯りの端で、二人の男が立ち上がった。

 奉公人のように見せた着物だが、裾の泥の付き方が違う。

 歩いて付いた泥ではない。わざと付けた泥だ。


「――お通り、かたじけない」


 先に口を開いたのは、年のいったほうだった。腰は低いのに目だけが低くない。


「どなた?」


 花散里が問うと男は笑った。

 笑いは歯の間から漏れ、礼にはならない。


「お忘れ物をな。庵から降りてきた女が持ってるって聞いてよ」


 雲隠が半歩前へ出ようとしたのを蜻蛉が袖で止める。

 止めた袖が震えるのは、恐怖より先に怒りが来るからだ。


「忘れ物なんてないわ」


 花散里は声を丸くした。太夫の声は刃を包む布になる。


「いやいや。あるはずだ。小さくて、硬くて、紐がついてて……表に“家”が彫ってあるやつ」


 もう一人が言う。

 若いほうで声が軽い。軽い声ほど躊躇いがない。


「それを見せりゃ、面倒は起こさねぇ。俺らも仕事が終わる」


 花散里の袂の奥が、熱を持ったように感じる。

 白砂と紫苑が震える手で差し出した印籠の艶が、一瞬だけ脳裏に閃く。

 ここで袂を押さえたら“ある”と告げる。

 押さえないのも不自然だ。廓は不自然を嗅ぎ分ける。


「仕事?」


 花散里は首を傾げた。

 わざと遅い動きで。


「仕事なら、筋を通しなさい。誰の使い?」


 男たちは互いの顔を一瞬だけ見た。

 視線が交わる――合図。そこに雇い主の形が透ける。


「誰の、って……」


 年嵩の男が笑い直す。


「この町じゃ、“上”の名を出すのが一番野暮なんだよ、姐さん」


 路地の奥で、どこかの店の戸が閉まる音がした。

 見物人が息を引っ込めた音だ。

 廓は助けない。廓は見て値を決める。

 花散里は笑みを作った。甘くもなく、怯えもない笑み。取引の印になる笑みだ。


「なら、野暮にしないで。――私も、野暮は嫌いよ」


 そう言いながら花散里は三人の立ち位置をわずかにずらした。

 格子の灯りを背にしない。路地の奥へ追い込まれない。

 通りへ抜ける道を残すが、向こうもそれを知っている。


「姐さん。その後の台詞、分かって言ってるか?」


 背後から足音が増えた。

 増えた足音は軽くて多い。軽いほど嫌な音だ。

 囲まれた形になる。

 だが、それは花散里たちも分かった上での理。

 力で勝てる相手ではない。

 ここは廓で、男と女――ならば戦う術は、まだ残る。


「『体に聞いてみようか』でしょう?」


 花散里が嗤う。

 嗤いは刃だ。

 蜻蛉と雲隠も息を合わせ、色香を薄く漂わせる。

 殺す気の男ほど欲を先に出す。

 欲が出れば刃はすぐには降りない。

 そこに道が生まれる。


「分かってるじゃねえか」


 男が吐き捨てるように言った。


「姐さん。――連れて行け」





 近くで息が荒い。肌が触れ、酒と汗の匂いが鼻を刺す。

 ――抱かれて分かる。こいつらは忘八者ですらない。

 欲に溺れ、こちらの作り声を真と取り違え、ただ吐き捨てるだけのごろつきだ。

 廓から外れた空き家。雨戸の立てつけが悪く、月明かりが板の隙間から細く差す。

 暮れ六つの鐘を聞いてから、花散里と蜻蛉と雲隠の三人は、そのあばら家に押し込められていた。

 息を整える間もない。

 言葉を選ぶ間もない。

 夜は長く、長いほど理は遠のく。


「こんな印籠が小判に化けるなんてな」

「おまけに女は好きにしていいと。楽な仕事だぜ」

「今夜は寝かせねえからな! がはははは」


 笑い声が障子を震わせる。乾いた板が軋む。

 ごろつきは五人。顔つきも言葉も土地の者ではない。流れ者――そういう手合いだ。

 紗灯尼庵もその里もこの廓も関係がない。

 関係がないからこそ後腐れがない。

 久世が選ぶとしたら。こういう刃だ。

 奪われた印籠は床の間に置かれていた。欠けた家紋が、月明かりの中で妙に白い。

 裸の男が二人、酒に酔って笑い、残りは裸の女を貪る。獣が餌に張り付く仕草だ。


「ああ。堪忍して。こんなの……ぁぁ」


 花散里は息の形を崩さないように慈悲を請う。

 太夫の体と手管は男を極楽に導きつつ、その嘘に気づかせない。


「旦那様。お情けを……後生ですから」


 蜻蛉は愛しそうな声で男を蕩けさせ、男を酒に酔わせ精を吐き出させてゆく。

 酒に酔って精を吐き出した男はそのまま眠るのが廓の理。


「やめて。そんなの……ああ。旦那様ぁ」


 雲隠は足を絡めて床のきしみを耳に刻む。

 逃げ道はあるか。戸は。鍵は。釘は。誰が先に眠るか。

 最初に上から覆いかぶさってきた手は、いつの間にか下へ回り、こちらへ選択を迫る形を作る。

 女が笑い、女が縋り、女が誘う――そういう形に見せかけて、刃を一寸だけ鈍らせる。

 作り声は、屈辱ではなく時間だ。

 時間は、次の一手のためにある。

 床の間の印籠が、黙ってそれを見ていた。




 夜がほどける前に板の隙間の月が白み鶏も鳴かぬ時分に家は静まった。

 静まりは安らぎではない。獣が腹を満たして眠りに落ちた隙の形だ。

 花散里は息を数えた。吐いて、吸って、もう一つ吐く。

 痛みはある。だが痛みは今、刃ではない。刃は外にある。

 外の刃に触れぬためにはこちらの形を崩さないことが先だ。

 蜻蛉が畳に頬を寄せたまま指先だけで三度床を叩いた。合図。

 雲隠が目を閉じたまま、わずかに顎を引く。返事。

 男たちは散らばって寝ていた。

 酒に溺れた者は眠りが深い。

 深い眠りは無防備だが、無防備ほど爪が届かない位置へ刃を置く。

 床の間の印籠は、夜のうちに何度も弄られたのだろう。

 欠けた家紋が煤けた月明かりを吸って鈍く光っている。

 花散里は視線をそこへ寄せない。寄せれば心が引かれる。引かれた心は動きが遅れる。動きが遅れれば、終わる。

 蜻蛉が眠る男の肩へそっと掌を置いた。

 雲隠が男から降り土間に足をつける。

 花散里は板戸の釘へ指をかけた。

 爪の先でほんの僅かずつ、木が鳴らぬよう息を合わせる。息が合えば木は鳴らない。

 戸が開き、三人が裸のまま出る。

 服も着らず印籠も置いてゆくが、命は助かる。

 夜の寒さも、男に使われ続けた体が火照っていて気にしない。

 駆けて、駆けて、近くの社に逃げ込む。

 何も持たないのは強みだ。

 払うのは体しかないからで、男ならそれで話は聞く。


「はぁ……はぁ……追ってくるかな?」


 地に尻をつけて雲隠が息を吐く。

 今更泥など気にする事もない。

 その隣で蜻蛉が肩で息をしてぼやく。


「どうでしょう?

 印籠は置いてきたし、良かったんですか? 姐さん?

 あれ、大事なものじゃ……」


「そうよ。大事なものよ。

 だから人死にがここで二人も出た」


 花散里が社の隣にある小屋の戸を開ける。

 柊から聞いた話が本当ならば……


「あった。傘と蓑。とりあえず、これを着な」

「裸で帰らなくていいのはありがたいね」

「姐さん。草履はありますか?」


 傾城町でも名が通る源氏太夫が蓑姿なのが花散里は面白くて笑みを見せる。

 その時、外で砂利が重たく鳴った。

 三人とも動きを止める。

 止まるのは怯えではない。聞くためだ。

 砂利の音がもう一つ。今度は意図がある。わざと鳴らしている。

 次いで、戸の外から声がした。

 低く、乾いて、感情がない。


「……印籠は何処だ?」


 男の声ではない。ごろつきの声でもない。

 花散里は声だけで悟った。

 これは“始末”の声だ。

 眠っている者も、置き忘れた印籠も、女も――まとめて切り捨てるための声。

 板戸の隙間から覗くと、庭先に黒い影が立っていた。

 旅装を整え、顔を隠すほどでもない隠す必要がない者の立ち方だ。

 手には短い刃。腰にはもう一本。

 足元の泥に紛れるような鈍い朱色。血だ。

 仕事人。流れの刃はその火種のありかを探ろうとしている。

 火種がここに残っているなら、火元ごと消す。それが上の理だ。


「印籠?」


 蜻蛉の小声を雲隠が塞ぐ。

 あの小屋に印籠は置いてきた。

 あの仕事人が小屋のごろつきを始末して印籠を手に入れていないからこそ、こうして声をかけている。


 ――私たちが逃げ出した後、誰かが印籠を奪った?


 思考の端を刃で削がれるような感覚に、花散里は息を落とした。

 ここで息が乱れれば、形が崩れる。形が崩れれば、声が震える。震えた声は、相手に確信を与える。

 板戸の隙間の外、黒い影は微動だにしない。

 声だけがもう一度乾いて落ちた。


「印籠はどこだ」


 花散里は蜻蛉と雲隠へ目だけで合図した。

 黙れ。息を揃えろ。怖れを形にするな。

 そして、板戸に額を寄せるでもなく、わざと離れた位置から声を出した。

 近づけば、相手の支配する輪に入る。


「……誰の使い?」


 影が、ほんの僅かに首を傾けた。

 礼ではない。計算だ。


「名を聞いてどうする。死ぬ前に覚えるのか」


「死ぬと決めるのは、あなたじゃないわ」


 花散里は言葉を丸くした。

 刃を包む布だ。布で包めば、刃はすぐには振り下ろせない。すぐには、だ。


「女が三人。――庵の太夫か」


「太夫かどうかは、あなたの仕事に関係ないでしょう」


「関係がある。口が動く女は、後で面倒になる」


 その一言で、花散里は悟る。

 こいつは“回収”ではない。“始末”だ。

 印籠があろうがなかろうが、ここで一度火元を消す。火元とは人だ。


「印籠は置いてきたわ」


 花散里は嘘を、嘘の形で差し出した。


「廓の空き家。床の間。欠けた家紋が、月に白かった」


 影が沈黙する。

 沈黙は迷いではない。確かめている。言葉の重さを量っている。


「……なら、今ここでお前らを斬る理由はないな」


 その言葉は、甘くない。刃の甘さ。

 花散里はそこへ、もう一枚布を重ねた。


「なら、取引にしなさい。あれは“火種”よ。持ち帰るなら、火種の扱い方を知っている者が必要になる」


 影が、笑ったような気配を出した。

 気配だけで笑える者は、慣れている。


「女の知恵で刃を止められると思うな」


「止めたいんじゃない。早まって、燃え広がるのを避けたいのよ」


 言った瞬間、花散里は自分でも可笑しかった。

 燃え広がる先は“上”だ。

 上の名を恐れるのは、この刃も同じ――そこに賭けるしかない。

 影が一歩近づいた。砂利が鳴る。鳴り方が重い。刃が近い。

 蜻蛉が喉で息を殺し、雲隠が拳を握る。その拳は震えていない。震えは恐れだ。これは怒りだ。


「――出てこい」


 影が言った。


「出て、案内しろ。嘘なら、ここで終わりだ」


 花散里は動かなかった。

 動けば、外の理に身を晒す。晒せば、刃の都合になる。


「……あなた、わたしたちを生かす気はないでしょう」


 影の返事は早かった。


「生かす気があれば、こんな声で呼ばない」


 空気が固まる。

 固まった空気の中で花散里は一息ゆっくり吐いた。ここまでだ。布は尽きた。


「そこまでにしておけ」


 声が、別の方角から落ちた。

 低く、澄んで、重い。刃が声を持つと、こうなる。

 花散里には聞き覚えがあった。

 蛍葛が死んだ夜、声をかけてきた侍。

 光源氏を名乗り、出島屋平蔵の件で動いていた男――南洲家の匂いを纏った侍だ。

 仕事人が止まる。止まったのは驚きではない。匂いを嗅いだからだ。

 自分と同じ刃の匂い――いや、それ以上に静かな匂い。

 鳥居の影から、一人の侍が現れた。

 旅姿。だが足運びが違う。砂利が鳴らない。鳴らない足は逃げない足。

 そして剣はきちんと鞘に収まっている。抜く前から相手を止める形だ。


「誰だ」


 仕事人が問う。

 問うのは礼ではない。格を測るためだ。


「通りすがりだ」


 侍は一歩進み、淡々と言った。


「女をまとめて斬るのは、手間が減るだけで、仕事が上手いことにはならない」


「……口が利けるな」


「口が利けるから止める。

 刃は、理由を選べ」


 仕事人が短く息を吐いた。

 苛立ちではない。計算だ。

 ここで刃を振れば、自分の“上”に火が移るかもしれない。

 火が移れば命令主が変わる。命令主が変われば仕事が変わる。


「名は」


 仕事人が問う。

 侍は少しだけ目を細めた。

 名を名乗るのは札を切ることだ。だが、この場では札を切ってでも止める価値がある。


「……削られた家紋の側の者だ」


 一拍。

 そして、淡々と続ける。


「そこの女は俺を、光源氏と呼ぶ」


 その名が落ちた瞬間、影の肩がほんの一寸だけ沈む。

 火花が散り、刃音が後に届く。

 格がついた。

 腰を落としたのは仕事人。立っているのは侍。


「……今日は縁がない」


 影は低く言い、足を引いた。


「だが、火種は必ず追う」


「追うなら追え。――ただし、女の命を踏み台にするな」


 侍の声は最後まで揺れなかった。

 揺れない声は理の外にある。

 理の外のものだけが、理の中の刃を止められる。

 影は闇へ溶けた。砂利の音が、消える。

 しばらくして、侍が板戸へ視線を投げた。


「まだ出るな。形を整えろ」


 花散里は板戸の内側で、袂の奥の重みを思い出した。

 重いのは名だ。名は人を呼ぶ。刃も呼ぶ。

 だからこそ――呼ばれた刃の前で、こちらの形を崩してはならない。

 仕事人の気配が闇へ溶ける。砂利の音が消える。

 しばらくして、光源氏が板戸へ視線を投げた。


「……源氏の君。あなたは、何を嗅いでいるの」


 光源氏は答えない。

 答えないまま一歩戻る。

 足音が鳴らない。鳴らない足が砂利を踏むと、こちらの心臓だけが鳴る。

 風が入った。雨戸の隙間が、細く唸る。

 白粉の甘さが、妙に濃くなる。甘さは、血の前に立つ匂い。

 花散里は、その光を見ない。見れば火が移る。火が移れば、また誰かが来る。

 蜻蛉は息を殺し、雲隠は指先を握り、握ったまま離さない。

 形を保つ。形だけが、今は命を繋ぐ。

 光源氏が、闇の中で小さく言った。


「……まだだ」


 それが何に向けられた言葉か、花散里には分からない。

 だが、光源氏の声で、どこかで聞いた都で聞かない音が南洲訛りというのを花散里は知る。

 ただ――“まだ”と言われるうちは、終わっていないのだと分かる。

 風がもう一度、小屋を撫でた。

 火種の匂いが、夜明けの匂いに混じって、遠くへ薄く伸びていく。

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