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空蝉比丘尼の憂鬱 その6

 門前町の楼で客をとった帰り道。夜明け前の空は薄墨を溶かしたようで、門前町の路地には湯の名残の湿り気がまだ残っていた。

 朝の匂い――炊き出しの煙と、川風に混じった土の冷たさ。

 その中に、廓の白粉と香の甘さが、しつこく袖に絡みついて離れない。

 花散里と雲隠と蜻蛉が先を歩き、少し距離を置いてついてくるのが三人。

 柊新之助と白妙と紫苑である。

 三人の足音は妙に揃っていた。揃えようとしているのではない。揃えていないと崩れてしまいそうだからだ。

 後ろの三人を気にせず雲隠が花散里に声をかける。薄い笑いの皮を被った声で。


「なんであんたがお仕置きされているのさ」


 蜻蛉がすかさず口を挟む。

 怒っているようでいて、どこか悔しさが混じっている。


「そうですよ。私たちも入ったのに」


 花散里は足を止めず、肩越しに二人を見た。

 言葉を返す前に息を整える。

 怒りでも嘆きでもない“太夫の形”で。


「客取って朝まで寝るあんたらが離れたら、それこそお仕置きでしょうが」


 冗談めかした言い方にしても、腰の奥に残る鈍い痛みが、笑いを乾かす。

 嬲られはしたが、歩けないほどではない。

 歩ける――それだけで、この町では勝ちだ、と花散里は思う。

 ふと、背後で衣擦れがした。蜻蛉の何となしの声に、当人である白妙と紫苑の体がぴくりと震える。


「あの二人どうするんです?」


 白妙は唇を噛み、紫苑は目を伏せる。

 目を伏せたまま柊が繋いだ手を強く握りしめる。握りしめられた柊の指がほんのわずかに震えた。

 恐怖の震えではない。怒りを飲み込む震えだ。若い。真っ直ぐだ。だから、折れやすい。

 柊を入れたあの三人は証人だ。

 綿貫の溺れ死に――そして勘次の刺し殺しに、誰の影が落ちているか。

 『誰が』についてはほぼ目処が立った。

 残るのは『何故』である。

 久世は、何を守っているのか。何を回収し何を隠したいのか。

 花散里の胸の奥でその問いだけが冷たく光っていた。


「花魁の二人は、尼になってもらうしかないだろうね」


 本当に剃るわけではない。

 空蝉比丘尼のもとへ入れる――庵籍に置く、ということだ。

 名目は救い。けれど本当は、帳面の外へ出す。

 売るも買うも、口にする前に切る。庵の理で。

 売り飛ばされる事もなく、柊も安心するし、だからこそ彼の証言が引き出せる。

 証言だけでは足りない。柊の目に映った“形”――湯殿の桶、台所の匂い、帳場の空気。その一つ一つが、久世へ通じる道標になる。


「わたしらも傾城町へ、そろそろ帰らないとね」


 蜻蛉が言うと、雲隠が即座に返した。


「帰っても家がないって言ったじゃないか」


 花散里は口元だけ笑う。


「しばらくは役宅暮らしね」

「私は花散里姐さんと一緒ならどこへでも」


 蜻蛉の軽口に、白妙と紫苑は小さく息を吐いた。

 ほんの一瞬、肩の力が抜けたのが分かる。

 救いがあると信じたいのだ。

 信じたいから誰かの言葉に縋る。

 六人は、そんなことを言いながら紗灯尼庵へ着いた。

 山の影がまだ濃い。門の鈴が、風に触れて一度だけ鳴った。

 鳴ったのは鈴だが、花散里の耳には“次は何を差し出せ”と告げる音にも聞こえる。

 ――『なぜ』を掴まねばならない。

 掴まねば、今度は自分たちが“形”にされる。

 花散里は門をくぐりながら、背後の柊の歩幅を聞いた。

 逃げない足音だ。ならば、次は聞き出せる。

 勘次が何を持ち、綿貫が何に気づき、久世が何を恐れたのか――。




 紗灯尼庵の茶室は、幾度か通えば慣れる――はずだった。

 畳の目、柱の節、障子の桟の影。

 どれも同じ場所にあるのに、今日は少しだけ違う。

 違うのは茶室ではない。こちらの息の浅さだ。

 花散里は空蝉比丘尼の差し出す茶を受け、口をつける前に一拍置いた。

 湯気が鼻を撫で、苦みが舌の奥へ先回りする。

 廓の香の甘さと違い、この苦みには逃げ道がない。

 花散里たちは所詮よそ者だ。

 だからこそ、庵の決まりに指を入れる気はない。

 けれど、決まりの方から袖を掴んでくるなら話は別である。

 向かいの空蝉比丘尼が茶碗を畳に置く。

 器の触れる音は小さいのに耳には妙に響いた。

 障子の外で風が一度鳴った。鈴ではない。だが鈴の代わりに背筋を撫でる音だ。


「弔いに行ったはずなのに、なんで客を取って帰ってくるのさ。

 おまけに、門前町一二の花魁を連れて」


 責めるでも慰めるでもない声が、喉の奥を冷やす。

 花散里は笑わない。笑えば誤魔化しになる。誤魔化しが許される場所ではない。


「あのまま置いておけば、口封じで連れ去られるからよ」


 言い切って花散里は茶碗を戻す。

 音を立てない。音を立てないことが、ここで手放していい矜持の限界だ。


「柊との取引で、あの二人はここで尼にする。――名目だけでもね」


 空蝉比丘尼の眉がわずかに動いた。

 ほんの僅かが、むしろ重い。


「……それを決めるのは私だけど?」

「だから取引よ」


 畳の上に言葉を置く。

 投げれば跳ね返る。置けば相手の手元に残る。


「こちらが出すのは、筋の輪郭。

 勘次が何を持ち、綿貫が何に気づき、久世が何を恐れたのか――匂いと手順と、繋がり方」


 空蝉比丘尼は答えない。

 沈黙は拒絶ではない。値を量る間だ。

 花散里の腰の奥で、昨夜の痛みが鈍くうずいた。

 罰ではない。縄の締め具合を確かめる指――そういう“触れ方”だった。誰が、何のために。


「私たちがここへ来たのは治すためよ。阿片のために傾城町を離れた」

「その結果、出島屋が隠した阿片と金の行方が宙に浮いたと“外は”決めつけた」


 空蝉比丘尼の目が、湯気の向こうで少しだけ細くなる。

 花散里は続けた。


「それに綿貫は“気づいたつもり”になって奪おうとした。――だから消された。

 でも本当は、綿貫は確信していない。

 勘次が殺されたから、宝が動いたと“思い込んだ”だけ」


 空蝉比丘尼が何か言いかけて、言わない。

 その言わなさが、脅しに近い。


「出島屋が潰され、私たちが傾城町を離れ、お奉行小原様がお隠れになった。

 抜け荷の阿片と、その莫大な小判の行方が分からなくなったのよ」


「あんたがそれに関わっていたと?」


 花散里は首を振らない。

 否定を急げば焦りに見える。焦りは弱みだ。


「関わっていたら、この庵まで来て嬲られているものですか。

 小原様と共に――お隠れになっていたでしょうよ」


 笑いも怒りも挟まず言い切る。

 空蝉比丘尼の指先が畳の上で僅かに揃う。

 花散里はそこに“決裁”の癖を見る。


「知らなかったからこそ、ここまで逃げられた。

 けどそれは、傾城町の内側の話。

 外から見れば、女が一斉に消えたとしか見えない」


「勘次は?」

「勘次を呼んだのは、おそらく綿貫藤十郎」


 死人の名は軽く言わない。軽く言えば、死が軽くなる。


「あの男は私たちが来たことで、阿片と金の行方が宙に浮いたのを嗅ぎ取った。

 手形のせいで西国へ逃げられない勘次を引っ張ってきた」

「勘次に何をさせた?」

「勘次は私と――私の体を知っている」


 花散里はそこで息を止め、言葉の端を畳に落とした。

 空蝉比丘尼は茶を注がない。ただ炉の湯の鳴りだけを、問いの代わりに聞かせる。

 そこだけ声を落とす。

 言葉は落とすほど重くなる。


「それを道具にして、私から阿片と小判の行方を聞き出そうとしたのよ。

 抱けば口が緩むとでも思ったんでしょうね」


「それをされたら困ると、久世伝右衛門が勘次を殺したと?」


 花散里は頷かない。

 ここで線を固めすぎれば、折られやすい。


「そこは久世に聞かないと分からない。……ただ」


 花散里は次の一点だけを、刃物のように置いた。


「勘次は、後ろから刺された」


 炉の湯が鳴る。さっきより少し高い。

 気のせいではない。室内の気が揺れたのだ。


「無頼の忘八者が背中を見せられる相手は限られる。

 久世。綿貫。柊――その三人だけ」


 空蝉比丘尼の視線が、口元ではなく喉の奥を見ている。

 言葉ではない“息”を測っている。


「綿貫は死んだ。柊はこの庵にいる。

 残るのは、久世しかいないでしょう?」


 沈黙が落ちる。

 茶室の沈黙は、情ではなく勘定で動く。


「……それで終わりかい。綿貫の粛清は」


 花散里は、そこで初めて“次の札”を出した。

 出し方を間違えれば、庵ごと燃える。


「終わらないわ。

 勘次が死に、私たちも身体が戻ってきた。

 白楽楼善平が傾城町から来て、私たちが帰るとなるところで綿貫は焦りだす」


「焦った? 何を」

「綿貫は、私たちが阿片と小判を知っていると勘違いしていた」


 同じ言葉を繰り返すのは、念押しではない。

 墓穴の位置を示すためだ。


「大店が囲いに来た――そう思ったんでしょうね。

 快癒祝いを開いたのはそのため。

 祝いの形で、私たちを縛る」


「……それで、久世が困る?」


「困る理由までは私の目には映らない。

 けれど、困る“気配”は見える」


 花散里は断定を避け、気配だけを渡す。

 ここで断定は毒だ。


「綿貫が私たちを囲えば、線が動く。

 線が動けば、久世の手が露わになる」


 空蝉比丘尼の目が、ほんの僅かに揺れた。

 感情ではない。計算だ。


「ともかく――」


 花散里は最後を簡潔に締める。

 飾りは後で首を絞める。


「私たちを囲って阿片と小判を手に入れようとした綿貫は、遣手婆に薬を飲まされ、湯船で溺れた。

 その薬を飲ませた花魁二人は売り払われようとして、ここへ逃れてきた。

 ……これが私から見える今回の形よ」


 炉の湯が静かに鳴った。

 鳴っているのは湯なのに、花散里の耳には鈴に聞こえた。


「……なるほどね」


 空蝉比丘尼はようやく言った。

 穏やかさは刃になる。


「廓の内側で片がつくはずだったものが――庵へ転げ込んだ。

 転げ込んだだけならまだいい。追ってくる」


 障子の外で風が一度鳴る。山の気配が室内を撫でる。


「追ってくるのは、薬を飲ませた花魁じゃない。

 追ってくるのは、その薬を“許した理”だよ」


 花散里は頷かない。

 頷けば、理に飲まれる。


「庵と里を焼かせるつもりはないわ」

「焼かせない、じゃない。――焼かれない形にする」


 空蝉比丘尼が茶碗を畳に置く。

 その音で、ここが取引の場から“裁きの場”へ変わったと知れる。


「紗灯尼庵庵理第一条:庵を荒らすな。

 あんたらが持ち込んだ火種を、火種のまま囲い、火の粉を外へ飛ばさない形に」


 花散里はその冷たさに、かえって息が楽になるのを感じた。

 慈悲ではない。勘定だ。

 勘定で動く者は、少なくとも理由が言葉になる。


 ――そのとき。


 障子の向こうで足音がした。

 忍び足ではない。わざと音を立てる歩き方。誰かに聞かせるための音。

 次いで、もうひとつ。

 さっきの足音より軽い。軽いのに、躊躇いがない。

 禿が顔を覗かせ、目だけで合図をした。

 外に誰かがいる。門前の者ではない。里の者でもない。土の踏み方が違う。草履の擦れが違う。

 空蝉比丘尼も気づいている。

 気づいていて、何も言わない。言わないことが、庵の決まりになる。


「……花散里」


 名で呼ぶ。客ではなく当事者にする呼び方だ。


「三人とも傾城町へ帰りな。

 庵に置けば、庵ごと刃が来る。

 刃は外で受ける。外なら刃の形が見える。庵の中では、刃は火になる」


 淡々と言い渡す。

 理屈として正しい。正しいからこそ苦い。


「……門前の道で?」

「山を下り、里を抜け、門前宿まで。そこから先は、あんたらの理だ」


 花散里は立ち上がり、袂を整えた。

 身支度ではない。覚悟の形だ。

 空蝉比丘尼が、ふいに下の句だけを落とす。


「――『物言ず来にて 今ぞ悔しき』」


 理で声をかければ縛りになる。歌なら縛りが薄い。

 花散里は笑みを作り、返す。


「――『白雲の こなたかなたに 立ち別れ』」


 ふたりの笑みは同じ形をしていて、同じではない。

 障子の外で、軽い足音が一寸だけ止まった。止まって、また動く。


 花散里はその間を、聞かなかったことにして歩き出した。

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