空蝉比丘尼の憂鬱 その5
綿貫藤十郎が死んだ――そう紗灯尼庵に届けが来たのは、花散里たちが「綿貫に賭けるか否か」をようやく腹の底で決めようとしていた矢先だった。
賭けようとした男が、翌朝には死体になる。そんな偶然が、遊郭の世界にあるはずがない。
だからこそ、花散里だけでなく、雲隠も蜻蛉も顔をしかめずにはいられなかった。胸の奥に残る昨夜の湯気と酒の匂いが一息で冷える。これは終わりではなく、始まりの匂いだ。
「それで――どうして綿貫様はお亡くなりになったんだい?」
三人を代表して花散里が尋ねると、これを伝えに来た空蝉比丘尼もまた同じ顔をしていた。尼の顔が曇る時は、慈悲のためではない。厄介事はそのまま代官所の介入の口実になる。火が上がれば、まず女が焼かれるのを、この尼は誰より知っている。
「お酒を飲んで、湯殿で溺れたそうよ」
ない訳ではない話だ。春先の湯は気持ちが緩む。酒が入れば足も滑る。――だが、その言い方が軽すぎた。届くのが早すぎた。湯殿で溺れた、と“形”が整うまでの手順が、まるで最初から決まっていたみたいに。
「それで、綿貫様亡き後の遊郭はどうなるのかしら」
雲隠の声が硬い。あの夜「賭ける」と言い切った覚悟が、いま足元から崩れかけている。
空蝉比丘尼はその揺れを慰めもせず、淡々と続けた。
「しばらくは遣手婆が差配するでしょうね。
表向きは久世伝右衛門と柊新之助の二人が片づけると思うわよ」
「表向きは、ね」
花散里は息を吐くように呟いた。久世伝右衛門と柊新之助――どちらの名も、今の遊郭にとっては“揉め事を片づける顔”になる。だが顔が立つほど、裏が動く。綿貫の死が事故で済まされるなら尚更だ。
火は消えていないのに、煙だけが薄まる。煙が薄まる時、火種はたいてい別の場所へ移されている。
「遣手婆が差配するなら、話が早いわ」
花散里が言うと、雲隠がすぐ頷いた。
決めた女の目は、迷いの匂いを嫌う。
「行きましょう。今のうちに。……久世様が“片づける”前に」
蜻蛉は唇を噛み、袖を握りしめた。
遊郭の匂いを思い出したのだろう。白粉と椿油、酒の甘さ、湯気のぬめり。
あそこは女の声が甘くなるほど、男の都合が通る場所だ。
「私たちが行って大丈夫? あたしら、綿貫様の座敷にいたんだよ」
「だからよ」
花散里は蜻蛉の不安を切るように言った。“いた”女が黙れば、好きに物語を作られる。溺れた、で終わる。終わらせれば、次は私たちが都合よく消されるだけだ。
空蝉比丘尼は何も言わず、茶碗を置く音だけが乾いて響いた。肯定の代わりだ。庵の尼は助けるが、守り切りはしない。最後に足で立つのはいつも、女自身だ。
*
そうと決まれば、支度は簡単だった。借り物の木綿を整え、帯を締め直す。
蜻蛉は襟元の紅を引っ込め、雲隠は肩掛けを深く掛ける。花散里は髪を低くまとめ、簪を一本だけ残した。豪奢は要らない。要るのは“話を聞き出せる顔”だ。
「香の匂いがするものを持って行きなさい」
空蝉が小さな包みを渡した。沈香の薄い匂いが指に移る。匂いは言い訳になる。弔いにも、口止めにも。
「弔いの名目なら通るわ。綿貫の死を惜しむ顔をして、遣手婆の口を開ける。――それと」
空蝉は一拍置いて言った。
「湯殿で溺れた、って筋書きに乗らないこと。
乗った瞬間、代官所の“口実”になる」
花散里は包みを懐に入れて頷いた。
麓へ降りる道は春の湿りを含んでいた。若葉の青い匂いが立つのに、風はまだ冷たい。
門前町が近づくにつれ、草の匂いに酒と湯と油が混じってくる。
匂いが変わる。世界が変わる――女の命の値段も、男の顔色も。
遊郭の格子の前で、遣手婆か番頭か、誰かの目が一瞬こちらを舐めた。
借り物の着物、足袋の継ぎ当て、女三人の並び。値踏みの目だ。
花散里は一歩前に出て、懐の包みを見せた。
「綿貫藤十郎様の弔いに来ました。お世話になった身として、線香を一本あげたいの」
遣手婆の目が細くなる。線香の匂いが、白粉の甘さの上に薄く乗った。
「……お世話、ねえ」
含みのある声に蜻蛉が息を呑む。雲隠が肩掛けの端を握り直す。花散里は笑わない。ただ、目を逸らさない。
「湯殿で溺れたって聞いたわ。――でも、溺れるには、溺れるだけの“形”があるでしょう?」
遣手婆の瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。
その揺れを見て、花散里は確信した。事故ではない。
少なくとも、この女は事故だと信じていない。
信じていないのに、事故の顔をしている――そこに“誰かの手”がある。
「奥へおいで。……余計な耳が多いからね」
格子の向こう、湿った廊下の先に湯の匂いが濃く漂う。
三人は目線を交わさず、足音だけを揃えて、遊郭の腹の中へ入っていった。
やがて、廊下の奥から嬌声が漏れた。格子の外で聞く艶声とは違う。壁に吸われ、湿り、奥歯に残る声だ。
遊郭の“奥”はだいたい決まっている。逃げようとした遊女、粗相をした遊女、あるいは――誰かに見せしめが必要になった遊女が、形を整えられる場所。
遣手婆が、わざとらしく足を止め、振り向きもせずに言った。
「粗相をした白妙と紫苑を忘八者が責めているのさ。
おかげで今夜は客が寄って寄って、困ったもんだよ」
困った、と言いながら声は弾んでいる。教える口ぶりではない。試す口ぶりだ。花散里は沈香の包みを懐の中で押さえ、返す言葉を短くする。
「……それを、私たちの前で言うのは、奥へ入れってこと?」
「いやなに。可哀想だなぁ、って思っただけさ。
この遊郭に来てくださるお客様方が、ね」
遣手婆の声は、蜜のように甘く、針のように尖っていた。
ここで怒れば負けだ。だが黙れば、相手の筋書きに乗る。
花散里が口を開くより先に、閉口した雲隠が堪えきれず吐き捨てた。
「ああもう、分かったわかった!
入れはいいんでしょ、入れば!」
雲隠が襖を引く。湿った空気が一息で流れ出し、鼻の奥に湯と汗の重さが刺さった。
裸の女が二人――白妙と紫苑が、畳に額を擦りつけるようにしている。
泣いているのか笑っているのか分からない顔で、涎を引き、肩で息をしていた。
忘八者の手つきは荒いが、どこか計っている。傷をつければ売り物にならない。売り物である限り、責めにも“限度”がある。その限度が、いちばん残酷だと花散里は知っている。
遣手婆が、部屋の中へ一歩踏み込み、声を張った。
「感謝する事だね!
今日の稼ぎはこのお三方が稼いでくれるそうだ!
忘八者ども、とっとと仕事に戻りな!」
忘八者が名残惜しそうに手を離し、女たちが畳に崩れた瞬間、花散里の鼻が動く。白粉、汗、湯、酒――しかし、あの甘く重い臭いがない。喉の奥を痺れさせる阿片の匂いが、ここには混じっていない。
「……良かったです。阿片は使っていないみたいでした」
蜻蛉の声は安堵に寄りかけて、すぐに引っ込んだ。
三人とも、その阿片でここまで来て客を取る羽目に陥っている。忘れられる匂いではない。
雲隠が、さらに声を落として続ける。
「嬲り始めてから、まだ一刻も経っていない。
喘ぎ声に張りがあった。……庵に知らせを送ってから嬲ったのなら、時間が合う」
花散里の頭の中で、湯殿と廊下とこの部屋が、一本の線で結ばれた。事故の“形”が整う速さ。知らせが届く速さ。責めが始まる速さ。
「あいつら、私たちに仏様を拝ませたくないらしいね」
雲隠の言葉に、花散里はうなずかない。うなずけば“物語”にされる。
だが線香をあげに来た三人に綿貫藤十郎の遺体を見せたくないのは、よそ者である三人が見れば、溺れたなんて言えない何かがあるからだろう。
表向きは、酔って湯殿で溺れた綿貫に酒を飲ませた罰――そう見せたいのだろう。だが裏は違う。誰かが「事故の顔」を急いで作り、その上で“見せしめ”という飾りを乗せている。
花散里はそれを口にしなかった。ここは敵地だ。言葉は壁を越え、すぐに人の首へ値を付ける。――ただ、ひとつだけは確かだ。死人が出て、益を得た者がいるなら、真っ先に疑われるべきは“差配する者”――遣手婆だ。
だが、その遣手婆が、誰の顔を立てているのか。そこまで見抜かなければ、火は消せない。
遣手婆が襖を半分だけ閉めた。奥の部屋の嬌声は薄い紙一枚で途切れ、代わりに、濡れた畳と汗と湯の匂いだけが鼻に残る。
白妙と紫苑は床に伏したまま、息を整えることもできず、肩が小刻みに震えていた。
忘八者が去ったあとも、責めの余韻だけが肌に貼りついている。
「……可哀想だと思ったなら、今すぐ湯を引いてやりゃいい」
雲隠が吐き捨てると遣手婆は笑った。笑いは軽いのに、目は重い。
「湯? 湯は引くさ。湯殿は商売の顔だもの。……けどねぇ」
遣手婆は白妙の髪を指先でつまんで持ち上げた。痛みで白妙の喉が鳴る。紫苑が反射で手を伸ばしかけ、雲隠がそれを止めるように肩を押さえた。
花散里は何も言わない。代わりに遣手婆の指の動きだけを見た。爪の縁が妙に整っている。女手だが帳面を繰る手だ。
「湯殿で溺れたって顔にしたいなら、店もそれなりに“形”を整えなきゃねえ。
粗相をした女は責める。責めたら客は寄る。寄れば店は回る。回れば――誰も深入りしない」
言いながら、遣手婆は沈香のような匂いを一瞬だけ纏わせた。白粉の甘さに混ざった、芯の硬い香り。花散里の懐の包みと、似ているのに違う匂い。誰かの真似ではない。真似できる立場の匂い。
「格子窓の中に入るのだから、着物を」
花散里は淡々と言った。
「綿貫様は私たちを買おうとしていた。――それ相応の支度は、用意しているのでしょう?」
廓の理で話をすれば、遣手婆よりも花散里の方が強くなる。
言葉の上手さではない。“格”の上だ。
花散里が一歩も引かぬのを見て、遣手婆は鼻で笑い、禿に顎をしゃくった。
笑いの奥に、ほんの少しだけ苛立ちが混じる。差配する女が、差配される形になるのが癪なのだ。
禿が走る。襖の向こうで布擦れの音が増え、香の匂いが重なった。雲隠が短く命じる。
「二人を洗ってやりな」
禿たちに抱えられて、白妙と紫苑が奥から連れ出される。
着てきた着物を脱いで、廓の着物を纏う。泣く暇もない。震える暇もない。女は“形”を与えられる。そうして売り場に戻される。
支度が整えば、遣手婆すら声をかけられない。
声をかければ“客”になる。客になれば、こちらの土俵だ。
花散里を先頭に雲隠と蜻蛉が続くと、格子窓の中に座っていた遊女たちが、言葉もなく場所を空けた。妬みでも憐れみでもない。ただ、格に従う動きだ。
三人は気だるそうに格子窓の向こうを眺め、指先で袖を整えた。
それだけで男たちの視線が釘付けになる。目線の糸が絡み、値を測り、欲を膨らませる。誰も「買う」と口にする前に、喉が鳴り、指が財布の紐を確かめた。
木札を握り直す音が、噂話の間を縫うように小さく鳴る。
格子の外は春の冷えを抱いたまま、熱だけが先に立っていた。旅人の土埃、香具師の脂、侍の汗――それらが廓の甘い匂いに溶け、男の鼻孔をくすぐる。咳払いが増え、笑い声が不自然に大きくなる。欲を隠すために、声を張るのだ。
花散里が格子に指を添え、袖口をわずかに払う。飾り気の少ない身支度なのに、崩れない形がある。背筋はまっすぐで、笑みは薄く、視線だけが深い。
男は女に欲情するのではない。自分の手が届くと思うから、欲が立つ。――だが花散里の気配は、「届く」と思わせておきながら、最後の一寸だけ遠い。
隣に座っていた遊女が、口元を引きつらせた。簪はきらびやかに揺れ、紅は濃いのに、目の奥に焦りが透ける。
「……姐さんたち、どこの楼?」
甘える声を作っても、舌の先が尖る。嫉妬は香のように隠せない。
雲隠がゆっくりとその女を見る。見下ろすでも睨むでもない。――ただ、見て、置く。格とはそういうものだ。
「どこの楼でもいいでしょう。今夜、ここに座っているのが答えよ」
言葉は柔らかいのに逃げ道がない。隣の遊女は一瞬だけ息を止め、笑みの形を作り直した。
廓では、誰が上かは帯の値で決まらない。男の視線が一番先に向かう女が上だ。今、この格子窓の“前”にいるのは三人だった。
蜻蛉は視線を伏せ、襟元を整える。ほんの少し指先を滑らせるだけで、男の想像が勝手に走り出す。見せないから見たい。触れないから触れたい。
雲隠は逆に、何も見せるつもりがない顔で膝を組み直す。衣擦れの一瞬、太腿がちらりと覗いた。狙っていないのに見えてしまう――その無造作が、男の喉を鳴らした。
「今夜は……高くつきそうだ」
誰かが笑って言い、周囲が同意の笑いを重ねる。高くつくと分かっているのに、引けない。引けば隣の男に奪われる。奪われるくらいなら、多少無理をしてでも。男の意地が、欲に火を入れる。
隣の遊女が耐えきれず、小さく舌打ちした。
「……ふん。どうせ、病上がりのくせに」
吐き捨てたはずの言葉が、逆に彼女の負けを告げる。病上がりでこの座にいる。つまり、どんな状態でも“頂”を譲らない女だと、男に教えてしまう。
花散里は笑わなかった。格子の外の熱を、ただ静かに受け止める。
欲情は波だ。波は高いものにぶつかって音を立てる。そして、その音が大きいほど、こちらの立場は揺るがない。
「……源氏の、だ」
男の声がひそひそと連鎖し、さざ波のように広がる。
「傾城町で姿を消したって噂の……」
「三人いた、って――」
「まさか、あれが……」
名はまだ出ていないのに、空気が変わった。噂は名を先に運び、名は格を先に決める。
「蜻蛉、だろ」
「雲隠ってのは……あれか。あの目だ」
呼ばれた蜻蛉が、わずかに笑みを深くする。媚びではない。値を吊り上げる笑みだ。
雲隠は呼ばれても顔色を変えない。変えないことで、男に「こちらから届かない距離」を思い知らせる。
「蜻蛉と雲隠を左右に置いて……」
隣の遊女が、怯えと諦めと羨望をいっぺんに滲ませて花散里を見る。
その瞬間、後ろから低い声が届いた。
遣手婆だ。笑っているのに、喉の奥が乾いている。
「……花散里、掌侍……傾城町の顔役じゃないかい……」
格子の外の男たちが、息を呑む音を立てた。名が落ちると、場が締まる。
花散里は、そこで初めて笑みの端だけを上げた。笑いではない。合図だ。
「名を知っているなら、騒ぐことはないわ」
澄んだ声が格子を越え、欲のざわめきを一息で押さえる。
「今夜は――値を私が決める。
金の値じゃない。口の値よ。……開けるのは、誰?」
雲隠が軽く顎を上げる。蜻蛉が息を整える。花散里は、格子の向こうにいる“最初の一人”を選ぶように、視線を一筋だけ落とした。
男たちの欲が、ひとつの点に収束する。
そのとき、熱い視線の束の中に、ひときわ硬いものが混じった気がした。刃物のように薄く、土の匂いをまとった目。
花散里は顔色を変えず、匂いの変化だけを探る。次にここへ“客”として入ってくるのは、誰だ。
まず蜻蛉が、呼び込みの声に導かれるように客と共に部屋へ消えた。
買ったのは行商帰りの都の番頭で、傾城町で一夜遊べば十両は下らぬところ、この廓なら一両で済むと利口ぶった笑みを浮かべていた。
だが蜻蛉は、男の算盤など見ていない。目を伏せ、指先を袖に滑らせ、夢を売る女の速度で男を座敷へ誘う。
次に雲隠が買われてゆく。相手は近くの寺の坊主。紗灯尼庵でも散々嬲っていた覚えがある生臭さだが、雲隠は眉一つ動かさない。むしろ、あれほど露骨な色欲がなければ男の方が持たない――そういう諦めと手練れが、雲隠の背中にはある。
そして残った花散里の前に男が現れる。
それを偶然と呼ぶには、花散里は廓で長く生き過ぎていた。だが悪意と呼ぶほど、その男は廓の理を知らない顔をしている。
「あら。柊様。何か?」
花散里が笑みの端だけを上げると、柊新之助は一瞬だけ言葉に詰まった。
格子の外で浴びせられていた男たちの熱い視線とは違う、硬い視線をこの若者は持っている。
欲の目ではない。値を測る目でもない。確かめる目だ。
「……今夜は、あなたが残ると聞いた」
声音は丁寧で、けれど喉の奥が乾いている。廓の男の喋り方ではない。
花散里は、その不器用さをわざと見逃してやる。見逃してやること自体が、女の格だ。
「残ったんじゃないわ。残したのよ」
格子の向こうで男たちがざわついた。柊はそのざわめきに背を向けるように小さく息を吐き、懐へ手を入れた。紙包みが覗く。墨の匂いが先に立つ――そこへ薬の冷たさが混じる。役所の紙の匂い。柊が普段扱う米や薪の匂いとは、明らかに違う。
「……一夜、頼む」
柊は包みを差し出す。花散里は受け取らない。
受け取れば、こちらが“買われた”形になる。花散里は一歩だけ格子から身を引き、禿に目配せした。
「遣手婆さんに渡しなさい。帳面に付けて。柊様は――奥へ」
禿が走る。柊の目が一瞬だけ禿の手元を追った。
金の行方より、紙の行方を追っている。やはりこの男は“買い”に来たのではない。
「久世様の差配?」
花散里は声を落とし、針だけを刺すように言った。
「違う」
柊は即答した。即答の速さが、逆に危うい。
だが怪しさの質が違う。黒く塗った怪しさではなく、泥を被った怪しさだ。
「……話がしたいだけだ。あなたに」
「私に?」
花散里は格子越しの熱を背中に感じながら、ゆっくり頷いた。
見世の顔のまま奥へ通す。廓の理屈はいつもこうだ。女が先に歩き、男はその背に従う形になる。
廊下を曲がると匂いが変わった。白粉の甘さが薄れ、湿った木と湯気と、どこか金物の冷たさが混じる。
耳に届く女の嬌声。澄ませば蜻蛉と雲隠の笑い声も遠くに揺れる。
襖の向こうは小さな座敷。灯りは柔らかいが影は濃い。
花散里が先に座り、柊に向かいの座を指で示す。
「で、“話”って何かしら。庄屋様が、わざわざ廓に来てまで?」
柊は膝に手を置いた。指が強張っている。欲で強張る男の手ではない。言葉の順を探している手だ。
「綿貫藤十郎のことだ」
花散里の胸の奥で火が小さく鳴った。来た。やはり、この男は“形”を確かめに来ている。
「湯殿で溺れた――そう聞いているなら、話は終わりよ」
わざと突き放す。柊の反応を見るためだ。
柊は花散里の目をまっすぐ見返した。
「終わらせるな、と……そう言われた」
「誰に?」
柊は口を開きかけ、閉じた。廓の壁には耳があると知っている顔だ。
花散里は沈香の包みを懐の上から押さえ、匂いだけで場を落ち着かせる。
「名を出さなくていいわ。代わりに――形を言いなさい」
柊は息を吸い、吐いた。喉の乾きが少しだけ引く。
「……湯殿の桶が、いつもと違う位置にあった。俺は薪を――いや、水を……」
言い直した。薪か水か。どちらでも柊が“裏口”へ出入りする理由になる。
花散里は追及しない。今欲しいのは、柊が知っている“形”だ。
「誰が最初に見つけた?」
「……遣手婆の手の者だ。女中が走って――そのあと、すぐに“事故”の口になった」
早い。やはり早い。花散里は心の中で線を引く。見つけた者、走った者、口を作った者。事故の顔は、誰かが急いで塗った。
「庄屋様が見た桶の位置、もう少し詳しく」
「入口から見て左……湯気が逃げる側だ。溺れるなら、もっと奥へ倒れるはずだ」
柊がそこまで言ったところで、花散里は確信する。
この男は口止めに来たのではない。むしろ――自分が疑われるのを恐れ、形を確かめに来た。あるいは、誰かに使われる前に筋を掴みたい。
襖の外で微かな衣擦れがした。禿か、遣手婆か。耳だ。
花散里は声の調子を変え、艶のない言葉を艶のある形に包む。
「柊様。そんな話をしに来たの? 私を買って?」
柊の頬がわずかに赤くなる。だが目は逸らさない。
「……買った形にしないと、ここでは話せない」
花散里は笑いそうになった。世間知らずの真面目さが、廓ではいちばん危うい。
「正しいわ。廓は形で人を縛る。――でもね」
花散里は身を乗り出さず、ただ指先で盃の縁を撫でた。音もなく。
「形を作るのが上手い人間は、あなたみたいに赤くならない。紙包みも、自分の匂いをさせない」
「……それが、さっきの包みのことか」
「ええ。あれ、あなたの懐の匂いじゃない。役所の匂いがした」
柊は唇を噛んだ。言うべきか、飲み込むべきか迷っている。
花散里は急かさない。急かせば形が崩れる。崩れた形はすぐに利用される。
「……呼び出されたんだ」
柊がようやく吐き出す。
「“今夜、花散里を買え”って。そうしないと――白妙と紫苑が、明日には“移される”って」
花散里の背筋に冷たいものが走った。
口入れだ。移し先だ。遣手婆の帳面の先にある筋だ。
「誰の口から?」
柊は首を振る。名を出さない。出せないのではない。出した瞬間に焼かれると理解している。理解してしまった。だからこそ危ない。
襖の外の気配がほんの少し濃くなった。耳が近づく。
花散里は声をさらに落とし、逆に“客の話”へと舵を切る。
「ねぇ。ここにはよく来ているのでしょう?」
「ああ」
「じゃあ、教えて頂戴。……台所の場所を」
柊の眉が僅かに動いた。廓の台所へ、女が行くはずがない。
だからこそ、そこは盲点になる。
花散里は柊の戸惑いを畳みかけず、沈香の匂いを一息、座敷に落とした。
「湯殿の桶が動くなら、桶を動かす手がある。
手があるなら、手を洗う場所が要る。――台所よ」
柊は短く頷いた。二人は息を殺して座敷を出る。
廊下の曲がり角で禿が一瞬こちらを見たが、花散里は“買われた女”の顔のまま、視線を逸らさない。逸らさないことが通行手形になる。
台所は夜更けの割に、妙に静かだった。
釜の余熱と油の匂い、酢の酸味、湿った木の匂いが混じる。
そこに、別の匂いが薄く刺さった――甘い腐れ。蠅の羽音が一筋、灯の周りを回っている。
置かれていたのは漬物桶が三つ。朝には運ばれるのだろう、縄が固く縛られている。
花散里は柊の袖を手で制した。蓋を開ける音は、夜の廓では鐘より響く。
蠟燭の灯りでも分かる。ひとつの桶だけ、蠅が集っていた。匂いが違う。酸でも塩でもない、濡れた布のような匂いが混じる。
花散里は残り二つの縄を解く。柊が黙って手を貸した。手慣れた動きだ。庄屋の手だ。
蓋がわずかに持ち上がった瞬間、白い肌が見えた。
「白妙っ……紫苑姉さん……!」
裸で桶に押し込まれていた二人は、まだ息をしていた。
口封じで殺せば早いものを、欲をかいて売り払おうとしたのだろう。
売り物である限り、命は繋がれる――その繋がれ方が残酷だ。
花散里は最後のひとつ、蠅の集る桶を見た。
蓋は開けない。開けずとも分かる。匂いが、湯殿の“形”と同じ冷たさを持っている。
そこにあるのは“女”ではない。女の口を塞いだ何か――証文か、薬か、灰か。
本当に封じた口は、残った桶にある。
「さて……どう説明してくるのかしら?」
背後で、呆れたような声がした。
遣手婆だ。影の中に立ち、笑っているのに目は笑っていない。
「あんたらも口を封じられるとは考えなかったのかい?」
遣手婆が言う。後ろに忘八者が数人。短刀が月明かりを吸って鈍く光る。
だが花散里は一歩も退かない。ここは廓で、しかも夜だ。
夜の廓で刃傷沙汰を起こせば、噂は火より早く走る。
太夫に傷を付ければ、客の顔が潰れる。顔が潰れれば、代官所が嗅ぎつける。嗅ぎつければ――“片づける手”が降りてくる。
花散里は短く笑った。
「始末をしたら、今度は誰が隠すのかい?
隠したいのはあなたの方でしょう。だから蓋を開けさせなかった。……違う?」
忘八者の手が揺れた。躊躇いだ。躊躇いは弱さではない。
ここで切れば、全員が沈むと知っている。
「何が望みだい?」
遣手婆が問うた。
「この三人の安全」
花散里は言い切る。言い切った瞬間、廓の空気が“取引”の形になる。
「私はここで見たことを――今夜の外へ持ち出さない。
柊様と白妙と紫苑は生かして逃がす。
その桶の行方を私は追わない」
遣手婆の目が細くなる。
「罰は受けてもらうよ。示しがつかないじゃないか」
「もちろん」
花散里は帯に指を掛け、結び目をほどく――が、完全には脱がない。襟元をわずかに落とし、肌を一寸だけ見せる。男の欲が動く“形”を作るためだ。
柊には、今夜自分が“買わされた男”であることを思い知らせるため。
遣手婆には、廓の筋は自分が理解していると突きつけるため。
忘八者には、刃ではなく欲で飼いならせると示すため。
花散里は、この夜いちばん静かな笑顔を作った。
甘くもなく、怯えもない笑顔だ。太夫の笑顔は、取引の印になる。
「“形”は私が受ける。けれど――その理は持たないわよ」
花散里は、蠅の集る桶を見ずに言った。
見れば、欲が勝つ目がある。見なければ、まだ“形”で縛れる。
遣手婆が鼻で笑う。その笑いは蜜でも針でもない。――諦めの笑いだ。
「いいよ。奥へお行き」
遣手婆の素の声がなぜか耳に残った。
どこかで聞いた都の音と違う声に花散里は一度だけ柊を見た。言葉は不要だった。
廓の理で縛られた若者が、ようやく廓の理で動く顔になっている。
花散里は襟を整え直し、帯の端を禿に握らせる。
そして、自分の足で“お仕置き部屋”へ入っていった。
受けるのは罰の形。守るのは、理の中身だ。




