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空蝉比丘尼の憂鬱 その3

 元々が傾城町の住人である花散里たちだからこそ、修行と称して傾城町を長く離れると憶測を呼ぶ。

 噂とは煙で、煙は火を探す。火の気配があれば、傾城町の者は勝手に油を注ぐ。


 蜻蛉太夫と雲隠太夫は潰された出島屋の太夫――つまり「落ちた者」である。

 落ちた者の身には、世間は石を投げるだけで、余計な興味を持たない。

 だが花散里は違う。傾城町に顔が利く。遊女側の、いわば“顔役”の位置にいる。いなくなれば、誰かがその空席に座りたがる。座れば、座った者は花散里の名を踏み台にする。

 だからこそ、傾城町から白楽楼善平がやってきたのはある意味当然と言えよう。

 善平は「知らせ」と「探り」を同じ懐に入れて運ぶ男だ。

 口は軽くない。だが、その沈黙がいつも“傾城町の都合”に寄る。


 紗灯尼庵の茶室には、朝の湿り気がまだ残っていた。障子越しの光は白く、畳の目の影が細く落ちる。炉の灰は均され、釜の湯が小さく鳴る。その音に混じって、香の名残が鼻に触れた。尼寺の香は乾いている。甘くない。喉の奥にわずかに苦味が残る――白檀か、沈香か。

 空蝉比丘尼が茶を点てる手は静かで無駄がない。

 薄墨色の衣の袖が、湯気に少し濡れて暗くなる。

 客として花散里と白楽楼善平は並んで座り、互いの呼吸の間だけで距離を測った。


「また掌侍も厄介な事件に巻き込まれましたな」


 善平の言い方は、気遣いの形をした探りだった。

 花散里は茶碗に目を落とし、器肌の景色を眺めるふりをする。茶室では、目線ひとつで武器になる。


「全くよ。おかげで戻れやしない。……新しい奉行様は?」

「いまだ音沙汰なく。組頭の有馬伝八郎様がそつなく業務をこなしている故、困る事はありませんが」


 その名を聞いた瞬間、花散里の記憶の底で、ひとつの“冷たさ”が立ち上がった。

 奉行の政務を司り、同心たちの締役をしていた男。帳面と書付の匂いがする男。物腰は丁寧で、しかし指先まで堅い。


 ――たしか、抱こうとしなかった。


「お役目に差しさわりがある」


 そう言って断った堅物だが、花散里からすればつまらない男だった。

 自分の価値を男が欲しがるか欲しがらないかで測る趣味はないが、“欲しない男”は扱いにくい。

 その堅物が今、奉行不在の穴を埋めてうまく立ち回っていると聞いて、花散里はわずかに驚く。

 驚きはしたが、それはそれで良しだとも思った。堅物の方が、火消しには向く。


(私も、いつまでもここに居られるわけでもない)


 分かっている。だが、紗灯尼庵の麓で出島屋の勘次が殺された以上、ここを離れる訳にもいかない。

 傾城町に戻れば噂が燃え、留まれば噂が腐る。どちらも火だ。今できる範囲で、火種の形を見極めるしかなかった。

 差し出された茶碗に口をつける。苦味の奥に、わずかな香の甘さがある。――尼寺の香の下に、別の匂いが一筋混じっている気がした。傾城町の白粉でも、酒でもない。もっと冷たい匂い。紙と薬の匂い。花散里は思考をそこで止め、表情は崩さずに呟いた。


「新しいお奉行様が決まるまでには傾城町に戻るわ」

「そのお言葉、有馬様にお伝えしても?」


 善平の目が、茶碗の縁の向こうで笑った。

 花散里はその笑いを“傾城町の報告書”として受け取る。


「もちろん。伝えて頂戴」


 茶席が終わり、白楽楼善平が去っても、花散里と空蝉比丘尼は座ったままだった。

 湯の鳴る音が少し大きくなる。外の風が障子を撫で、香の残りを薄く散らす。

 互いに目線を交わし、先に口を開いたのは空蝉比丘尼の方だった。


「有馬様ってどのようなお方?」


 空蝉は笑っている。だがその笑みは、慈悲の面ではなく、商いの面だ。花散里は分かっている。ここは尼庵で、尼は聖女ではない。


「御家人で、町奉行の中では同心たちのとりまとめ役。堅物よ。私を抱こうとしなかったのだから」

「あらあら。天下の花散里掌侍を振るなんて」


 空蝉の声に、からりとした色気が混じる。茶室の空気が一瞬、遊郭のそれに寄る。

 花散里は、その寄り方をわざと無視した。


「私の事はいいとして。そろそろ勘次殺しの件について聞きましょうか?」

「何を聞きたいわけ?」


 互いに笑顔のまま、しかし腹を探り合う言葉のやりとりが続く。

 笑みは扇子で、言葉は針だ。針を刺せば、血が出る。血の匂いは、香より早く広がる。

 先に折れたのは空蝉比丘尼だった。

 折れたというより、折れる“ふり”をして主導権を取りに来る。尼はそういう女だ。


「ま、いいわ。勘次という流れ者が、誰に背中を見せたのか?

 考えられるのは、花散里。貴方よ」


 花散里は茶碗を畳に置き、音を立てないように指を離した。

 背中を見せる――その言葉が、死体の冷たさを連れて戻ってくる。後ろからの一突き。叫ぶ間もない。あれは“油断”だ。


「私たち三人が荼枳尼天様への修行をしていたのは、どのぐらい知られていたの?」

「門前町の遊郭なら誰もが。源氏太夫の三人がただ同然で抱けるのだから、そりゃあ噂にもなるわ」


 空蝉はさらりと言う。さらりと言えることが既に統制だ。

 噂を流すのも、噂を止めるのも、同じ口。


「勘次は西国に行くと言っていたわ。

 西国に行くなら船を使う。

 わざわざ街道の、しかも紗灯尼庵の方に行く必要はないわ」


 花散里がそう言うと、空蝉の目が一瞬だけ細くなる。

 線香の煙が、ちょうどその間を通った。


「つけられていた?」


 花散里が短く返す。

 空蝉は首を傾け、笑みを消さずに言った。


「もしくは、誰かに教えられた」


 その言い方が、教えた者の顔を隠す。隠すということは、守るべき何かがあるということだ。

 花散里は、茶室の乾いた香の下に混じる“冷たい匂い”を、もう一度だけ意識した。匂いは言葉より先に真実を指す。だが指す先が人か、組織か――そこまではまだ、香も教えてくれない。


「誰が私たちの事を教えたか……?」


 流れ者が背中を見せても安心できる人間となれば、その土地の顔役でしかない。

 つまり、久世伝右衛門、綿貫藤十郎、柊新之助の三人の誰かという事なのだ。


「で、比丘尼様は誰が怪しいと思うの?」


 花散里の胡乱げな声に空蝉比丘尼はくすりと笑う。その声で空気が変わる。互いに体を売って得たものも守るものもあるからこそ、ここでは気を抜いてはならない。

 どんな時も手の内の全てを見せてはいけない相手で、女同士の密談は常に命懸けで、弱み一つ見せたら喰いつかれてしまうものなのだから。

 空蝉が茶碗の縁を指でなぞり、止めた。

 花散里も同じ場所で息を止める。線香の煙だけが二人の間を渡った。


「それを聞いてどうするつもり?

 既に代官所には流れ者が夜盗にやられたと届けているのに?」


 空蝉の声が冷たく響く。声だけでなく姿までも冷徹に見える。

 花散里は聞き方を間違えた事を悟り、改めて問いを空蝉比丘尼に向ける。


「そうね。質問を変えるわ。

 このまま終わると思う?」


 空の陽の光が、茶室の隙間から強く射す。

 二人の女はそれに背を向けるように、そっと背を向け合ったまま言葉をやりとりしている。まるで、背後に刃を突きつけられたかのように。

 それでも声は和やかに続く。穏やかに、そして強かに響く。


「さてねぇ……」


 間延びした声が、含みを持たせたまま流れる。

 それでも今度の問いは良かったらしく、空蝉比丘尼の言葉は間延びしつつも止まる事はなかった。


「傾城町の大店だった出島屋が抜け荷で潰され、お奉行様も病でお隠れ。

 そんな中、出島屋の源氏太夫二人を連れて掌侍がここを訪ねたあげくに、出島屋の忘八者が後ろから刺された。

 偶然って言い切るには、出来過ぎでしょう」


 言い終えると同時に、空蝉の口から小さく息が漏れる。

 ため息なのか、それとも別の意味を含んだものなのかそれは分からない。その仕草が彼女の強みでもあり、弱点でもあるのだが。

 花散里は黙って、その話の続きを待つ。ここまで話を引き出せば後は簡単だろうと踏んでのことだった。案の定、空蝉はすぐに次の言葉を続けた。

 門前の骨、色の元締め、土の若者――顔役は三つに割れる。


「……この紗灯尼庵で巻き込まれるのならば、久世伝右衛門は容赦しない男よ。

 それだけの男でなければ、こんな所の名主を長く続けていないわよ」


 空蝉比丘尼の言葉の端に出ているのは彼への信頼。

 開け放したままの扉からは外が見え、傾き始めた日の色が鮮やかに広がる。風が強くなってきたのだろう、庭の木が揺れ始めている。

 木漏れ日に目を細めつつ、空蝉比丘尼は再び口を開く。


「逆に、野心で動くなら綿貫藤十郎ね。

 出島屋が潰れたという事は、その場所に別の遊郭が建てられる訳でしょう?

 そうなれば、自分がそこの楼主に収まる事もできるかもしれないもの」


 なるほどと花散里は口に出さず思う。

 確かにその通りで、阿片の抜け荷で莫大な金と阿片が消えているのだ。

 それすら手に入れたならば、その夢も叶うかもしれない。


「柊の村はこの庵の“腹”を通る。薪も米も、あの若者が道を決めるの。

 ――夜に人を通すなら、柊の知っている道がいちばん静か」


「なるほど。彼には動機がないけど、理由はあると?」


 口に出した花散里に、空蝉比丘尼が少し眉を寄せ皮肉げに笑う。

 空蝉自身そう考える自分に思うところがあり、それを笑ってごまかそうとしているようにも見える。

 そうして、ゆっくりと首を縦に一度振った後、目を眇めて断言する。


「理由もあるのよ。柊新之助は若いのに、目がいつも乾いてる。村が干上がりかけてるのよ。

 年貢の工面に借りた銭がある……出島屋筋にね。だから“手形”の話が出た瞬間、喉が鳴る」


 空蝉の確信的な言葉に、花散里は一瞬黙り込む。

 茶室の香が、ふと冷たくなった気がした。白檀でも沈香でもない――紙と薬の匂いが、わずかに喉の奥を刺す。

 誰かが教えた。誰かが道を知っている。

 そしてその“誰か”は、女の噂より静かに、火種を運べる手を持っている。

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