蛍葛が見たもの その1
夜の底を、鈴の音がかすかに横切った。
障子の向こうで月が薄くにじみ、寝間の灯心がひとつ、めらりと揺れる。交わる吐息が、その揺れに合わせて高まり、そして急にしぼんだ。
「……今の音は?」
額に汗の光る男が動きを止め、耳をそばだてる。
女は濡れた唇に静かな笑みをのせた。
「さぁ。わたしには、何も」
花散里は平然と嘘をつく。
鈴は傾城町で事が起きた合図――呼ばれた者だけが知る、声なき触れ。
逢瀬の相手、出島屋の顔役・平蔵も、その意味を承知しているはずだ。男は短く息を吐き、肩で笑った。
「行け。遊びは逃げぬ。命が逃げたら元も子もない」
「恐れ入ります。次の折には、きっと良い夢を」
身を離すと、花散里は乱れを素早く整え、襦袢をひっかけて廊下へ出た。
控えていた禿の玉鬘が、血の気の引いた顔で頭を下げる。
「姐さん……殺しです。客と花魁が」
「番所へは?」
「まだで。ですから、お呼びに」
短いやりとりののち、二人は音もなく歩きだす。
楼の廊は夜香の匂いが濃い。
襖の隙間からは三味線と笑い声、硝子灯の白い光。外れに行くほど人は少なく、代わりに闇が濃くなる。
傾城町――華やかさの裏を、金と欲と沈黙が支配する町。ここでは、見てよいものと見ないほうがよいものの境が、いつだって紙一重だ。
玉鬘の導きで奥の座敷へ。戸口の前には、誰もいない。だが、匂いがあった。鉄と海藻を混ぜたような、温い血の匂い。
襖を開ける。灯りが一度、風もないのに揺らいだ。
畳の上に、二つの裸身が重なり合っていた。
背中を刀でひと突き。男は口を歪めて目を剥き、女は――血に頬を濡らしながら、なぜか微かに笑っている。畳の目に沿って赤い筋が広がり、枕元に転がった簪がひときわ冷たく光った。
「……いい女だったのにねぇ」
思わず零れた言葉は、誰に向けたものでもない。
花散里は膝をつき、女の顔を覗く。怯えも悔いもない、穏やかな笑み。まるでずっと前から、こうなることを知っていたかのように。
ふと、別のものが目に留まる。男の袖口の縫い取り――菱に蔦、きりりと結んだ意匠。
「南洲家……御三家の紋だよ」
「まさか」
玉鬘が喉を鳴らす。その意味を理解しているからその音は思ったより大きかった。
「そんな大身の侍が、ここで?」
「ここで、だよ。だから厄介なんだ」
花散里は懐から白手拭いを抜き、女の顔をやわらかに覆った。
掌を合わせ、短く念仏。声を終えたその背で、低い男の声が落ちた。
「心中にしては、腑に落ちねぇな」
振り返る。襖の影から一人の若い男が現れた。長羽織、揚羽の羽織紐、足元は塵ひとつまとわぬ白足袋。遊び人めいた風だが、目だけが鋭い。血の匂いを吸い込みながらも眉ひとつ動かさない。
「誰だい、あんたは」
「名乗るほどの者じゃない。ただの浪人さ」
花散里は目を細める。
太夫が名を明かしているのに、自分は隠す。礼をわきまえぬとも言えるが、臆さぬ胆も感じる。
「そうかい。じゃあ勝手に、光源氏とでも呼ばせてもらおうかね」
口元に笑み。男は肩をすくめた。
「ずいぶん気前のいい二つ名だ。返歌は後で考えよう」
彼は畳に片膝をつき、侍の背の傷に目を落とす。
「見事な一突きだ。ためらいも、二の矢もない」
「うちの連中が騒がなかったのは妙だろう?」
と花散里が渋い顔をするが男はにべもない。
「妙だ。叫びが出る間もなく落ちたにしても、物の倒れる音や息詰まる音は残る。なのに、誰も聞いていないという」
男の視線が、花散里に戻る。
「――口裏、合わせてんだろう?」
玉鬘がはっとして花散里を見る。花散里はかわりに笑って肩を竦めた。
「この町はね、黙ることで守られてきた。『見ざる、言わざる、聞かざる』は、お上のためじゃない。自分たちのためさ」
「お上と言えば」
男は袖の紋を顎で示す。
「こいつが南洲家なら、なおさらだ。心中、で片付けるのが賢い」
「賢いけれど――それで済むなら、鈴は鳴らない」
沈黙が落ちる。灯心が小さく泣いた。
男は女の顔を覆う手拭いに一瞬触れ、そっと離すと、枕元の簪を拾い上げた。
銀の地に淡い螺鈿が走り、先端に小鈴。揺らすと、さっきの音に似た、細く涼しい音が鳴る。
「この鈴、よく鳴る」
「花の名は蛍葛。あの子の持ち物だよ」
「知り合いか」
「客筋もやり手も悪くない、気の利く子でね。近いうちに太夫に上がる、と皆が言ってた」
「なのに笑って死んだ」
男は女の簪を見つめる。
鳴るのは何かあった時の為に。
「背から刺られて、刺した相手を見て、笑った。――どういう心持ちだ?」
どういう、だろうね、と花散里は視線だけで返す。
怖れや怒りで歪む代わりに、笑った。その笑いは、快楽の余韻にも、諦念にも見えた。
花散里は胸の奥に生まれたざらつきを、言葉にしない。代わりに玉鬘へ視線を振ると、禿は心得たように下がった。部屋に残るのは、花散里と浪人だけ。
「心中に見せかけた殺し。そう見立てるのが無難だろうさ」
「無難は嫌いでね」と男。
「真実は、どこにある」
「真実は、時に誰の役にも立たない。ましてここは傾城町。真実より高いものが三つある――金と面子と沈黙さ」
「それでも俺は知りたい」
「どうして」
「知りたいからだ。理由はそれで足りる」
まっすぐで、厄介な眼だ。
花散里は小さく笑い、襟元を整えた。
「じゃあ、覚悟の有無で手打ちにしよう。あなたが真実を追うのは止めない。ただし――」
「ただし?」
「命を賭けな。南洲家を敵に回すってのは、そういうことだよ」
男は一瞬だけ目を細め、それから笑った。
「賭ける命は、とうに買い戻せない」
「買い戻せない人生は、高くつく」
「安売りする気はない」
ふたりは同時に口をつぐみ、死体の間で灯りがぼうと明るくなる。
花散里の耳の底で、さっきの鈴がまた鳴ったような気がした。違う、鳴ったのは胸の内側だ。
この男は、町の暗がりに火を持ち込む。火は便利だが、燃やす相手を選ばない。
「で、傾城町の太夫さん」
男が立ち上がる。
「俺を『光源氏』と呼ぶのは面白いが、あなたは何者だ」
「没落した女官が、今はこの町の掌侍――昼は官衣で役人の間を歩き、夜は簪を挿して月の下を歩く。二つとも、嘘じゃないよ」
「太陽と月、か」
「どっちも照らすけど、どっちにも影ができる」
男は簪をひらりと空で回し、花散里へ差し出した。
「預かっておけ。持ち主が取りに来るなら、それが一番いい」
「……生きていれば、ね」
「死んでも来る。笑って死んだ女なら、なおさら」
その言葉が冗談なのか本気なのか、判断がつかなかった。
花散里は簪を受け取り、懐の奥にしまう。鈴が肌の内側で微かに鳴った。冷たい音が、逆に熱を覚えさせる。
「番所に報せは?」
「こちらで」
花散里は答え、ふっと視線を和らげる。
「心中で処理されるよ。世間は騒がず、町は回る」
「誰かが笑い、誰かが泣く」
「そういう仕掛けさ」
廊から玉鬘の気配が戻る。
花散里は一度振り返り、血の部屋を見納めた。
笑って死んだ女。――あれは、勝ち顔だったのか、赦し顔だったのか。それとも、もっと別の。
答えはまだ闇の中だが、闇は勝手に口を開かない。誰かが、こじ開けるまで。
部屋を辞すると、夜気が肌に触れた。楼の外では三味線が別の曲を弾きはじめ、酔客の笑いが戻っている。世界は何も知らないふりをするのが上手い。
隣に並んだ浪人が、歩幅を合わせた。
「太夫さん。今夜は、もう一度どこかで鈴が鳴る気がする」
「嫌な当て勘だこと」
「当たるといいな」
「外れてくれないと、うちは忙しい」
二人の会話に、玉鬘が不安げに目を揺らす。
花散里は禿の肩に軽く触れて安心させ、浪人にだけ聞こえる声で囁いた。
「今夜、鈴が三度鳴ったら、町は燃える。二度で止めるのが掌侍の仕事さ」
「なら、俺は一度目を聞き逃さないのが仕事だ」
それぞれの仕事へ向かう足音が、夜の石畳に溶けていった。
遠くで、ほんとうに鈴がひとつ、鳴った気がした。