第二章 研究所と《アダム》 第四話
「今、何か聞こえたか?」
「……? 警報の音が大きくて私には……」
「そうか。いや、勘違いだろうな」
制圧は順調に進んでいた。施設が広いこともあって敵の部隊が散らばっているのか、そもそも数が多くないのだろう。今のところ何回か接敵したが、出会った敵部隊は‶毒蜘蛛‶が瞬殺したのでこちらの被害は無い。
「しかし、妙だな……」
「そうですか? 順調そうですけど……」
「だからだよ。セキュリティが甘い。相手は侵入に気付いているようだが、まさか普通の戦闘部隊だけでどうにかなるとでも思うか? こっちは『能力』部隊なんだぞ。能力者を警備部隊や侵入者排除に使わないのはおかしいだろ」
「そういえばそうですね……」
「敵の装備も旧世代の物ばかり。これじゃ『倒して進んでください』って言ってるようなもんだ」
長い通路を走る契助と七海は、不穏な気配を察しながらも、それを証明する決め手に欠ける状態でいた。‶騎士団長‶もそれは同じようで、繰り返すように無線通信で異常はないかと連絡している。
「――契助しゃま」
「――‶殺人鬼‶」
先頭を行く‶毒蜘蛛‶と‶騎士団長‶の契助を呼ぶ声が被る。契助は七海を床に下ろして二人の元に向かう。二人が覗き込む曲がり角の先には、電子ロックされた扉があった。
「……中央制御室。あっさりとたどり着いたな」
「待て。この部屋はこの研究室の全てなのだろう? それを守る者がいないのは……奇妙としか言えん。各部隊の損傷も軽微。あの《アダム》がこうも易々と研究所を手渡すものか?」
「契助しゃまにびびって、みんなにげちゃったのかも」
うむむと唸る‶騎士団長‶に、なぜか自慢げに腕を組む‶毒蜘蛛‶。契助は自身の首に巻かれたチョーカーに指を当てて『ネコ』との通信を試みる。
『――――ザッ――――ザザッ――――』
しかし、何度コールをしようとも、相棒が通信に出てくることはない。不快なノイズだけがチョーカーから流れ込む。本来ならチョーカーはネコの『接続』によって電波妨害なども気にせず通信できるのだが、今回ばかりはそれが叶わない。契助も初めての出来事に思わず舌を打つ音が口の隙間から溢れる。
「ネコと接続できない。今回の作戦、なんか嫌な予感がするぞ。他の部隊との通信は?」
「妨害されておるな。オペレーターとの接続も潰されたのは問題だ。任務の遂行に支障はないとはいえ……この先、何が起ころうとバックアップは貰えぬぞ」
「ネコの能力を潰す程の干渉はありえない。あいつは地球の裏側だろうと情報を抜き取る奴だ。普通のジャミングじゃない。慎重になれ、‶騎士団長‶」
「想定内の事態だ。作戦は続行する。……お前らしくないぞ、‶殺人鬼‶」
「何があってもだいじょーぶ! 契助しゃまはさいきょーなんだから!」
「……イエッサー、‶騎士団長‶。ありがとな、‶毒蜘蛛‶」
契助は踵を返し、駆け足で七海の元へと戻る。契助たちの不穏な気配を察したのだろう、七海は不安そうな顔で手を震わせていた。
「これから中央制御室に突入だ。何があるか分からないが……行くしかない。着いて来れるか?」
「……行きます。それが、私がここにいる理由ですから」
「いい返事だ。行くぞ」
「はいっ!」
コクンと力強く頷く七海を見て契助は満足そうに口角を上げる。七海を連れて中央制御室の扉の前まで行くと、‶騎士団長‶の部下が扉の横に設置されているセキュリティロックパネルをハッキングしている最中であった。
「どうだ、‶アルファ‶。開くか?」
「イケるっすよ。任せてください。あの『ネコ』さんには劣るっすけど……こうして物理的に繋げてハッキングするくらいなら……ビンゴ!」
‶アルファ‶がエンターキーを押すと、ピピッという軽快な電子音と共に赤く灯っていたランプの色が緑色へと切り替わる。それと同時に扉の開錠音が鳴り響き、中央制御室の扉が自動的に開かれた。
「総員、突撃!」
‶騎士団長‶の号令により、‶毒蜘蛛‶が内部へ突入し、契助達もそれに続く。消灯された室内の闇が視界を支配するが、装備搭載の暗視スコープが一瞬の間をおいて起動する。闇を払った契助達の視界に映るのは机や床に散乱する資料、実験に使われるであろう器具や破壊されたノートパソコン、そして部屋の中心で蹲っている――人間の姿。
「動くな! こちらの指示無く動いた場合、抵抗したと見なして射殺する!」
即座に‶団長‶が警告を言い放ち、室内に緊張が走る。部下達の銃口が一斉に男に向けられ、命令次第では瞬時に引き金が引かれる状況に、誰かの喉が鳴る音が響いた。
「今からお前を拘束する。そのまま動くなよ。……おい、拘束具を出せ。念の為、対能力者用の方だ。それと部屋の照明を付けて部屋を調査しろ」
「い、イエッサー!」
時が止まるような緊張から一転して時の流れが急速に戻る。隊員が拘束具を男に取り付けようと群がる中、契助は室内を見渡して床に何か落ちているのを見つけた。
(注射器……?)
パチン、とスイッチの切り替わる音が鳴り、世界が明転する。そして、はっきりとした視界を得たことで契助は気付く。目の前に落ちている注射器が使用済みであることを。
「――ッ」
嫌な予感、それを察知して契助が振り返ると同時に捕らえた男の近くに居た隊員が吹き飛んだ。
「ォオオオオオオオ!」
特殊繊維で編まれた拘束具を引きちぎりながら雄叫びを上げる男。拘束作業が途中までで完了していないとはいえ、対能力者用の拘束具が易々と引きちぎられる様子に全員の行動が固まった。その体躯は叫びに呼応するかのように膨れ上がり、纏っていた服が裂けて筋肉が露わとなる。
「撃てェ!」
誰よりも早く動揺から立ち直った‶騎士団長‶の号令により一斉に構えられた銃が咆哮する。しかし、狙った先に居たはずの男の姿がブレる。残像が見える程の超高速移動――その余波で室内の物が吹き荒れた。机が破壊され、銃弾を受けて飛び散った試験管の欠片が風圧で吹き飛ぶ。
七海の絶叫が響き渡る中、舞い散る破片から七海を守りつつ、悲鳴に劣らぬ声量で契助は「‶毒蜘蛛‶!」と名を叫ぶ。
‶毒蜘蛛‶は契助の命令と同時に指を巧みに操り、瞬く間に糸の結界を展開して室内に鋼糸の巣を張り巡らせる。
『直接触れた繊維状の物質を自在に操る』能力を持つ‶毒蜘蛛‶の糸――契助達の装備する防具や衣服にも使われる特殊繊維『ミスリルファイバー』、それは能力伝達効率が極めて高い繊維状物質である。
超精密な操糸能力に、能力伝達効率の高いミスリルファイバーの相乗効果――訓練された戦闘員でも眼で追えぬ速度で展開される攻撃も防御も完璧な布陣で、目の前の敵をバラバラに引き裂く……はずだった。
しかし、その身を糸で削られながらも男は張り巡らされた糸の隙間を縫うように、床を、壁を、天井を蹴って突破する。目にも映らぬような極細の鋼糸を掻い潜るその姿は、まるで歴戦の暗殺者だ。
ただしその技は荒々しい。荒々しく、強力なのだ。敵の移動だけで、床、壁、天井が踏み抜かれるように。立体高速移動を繰り広げる敵の足音は反響に反響を重ねて地鳴りのような重みを生み出していた。
能力で固定していた糸を外し、瞬時に新たな形の糸の結界を張り直している‶毒蜘蛛‶は焦る。必殺の糸を掻い潜られ、着々と敵が自分へと迫る状況に焦りを感じていた。
そしてその僅かな焦りは指先へ伝わり、指先から糸へと伝播する。糸の結界は緩み始め、防御の隙が生まれてしまった。
「ガァアアアアッ!」
それは正に好機だったのだろう。獣のような咆哮を放ちながら敵の速度は更に加速した。瞬く間に眼前にまで迫られた‶毒蜘蛛‶は恐怖で硬直する。剥き出しの殺意を直接叩き込まれた感覚に、指一本動かせない。
敵は無手だ。だが、床を踏み抜く程の筋力を持っている。幼女の顔など余裕で粉砕するだろう。破壊の鉄槌、高速で迫るその拳が‶毒蜘蛛‶の顔目掛けて振り抜かれ――
「交代だな」
――直後、‶毒蜘蛛‶は後ろに向かって放り出されていた。グイッと首根っこを掴まれた金髪幼女の鼻を、チリッ! と掠るようにして空振る敵の拳。‶毒蜘蛛‶はそのまま投げ出され、勢いのまま床を滑る。急いで体勢を立て直して前を見れば、両手にナイフを握った契助が敵の攻撃を捌いていた。
「あの……大丈夫、ですか?」
倒れたままの金髪幼女に、七海が手を差し出す。‶毒蜘蛛‶の糸が効かないと分かった瞬間、契助が安全地帯へと下がらせたのだ。‶毒蜘蛛‶はおっかなびっくりその手を取るも、ハッとした顔で手を離した。
「ふ、ふんっ。立ち上がれるもんっ」
「そ、そうですか……」
強がる金髪幼女と、拒絶されたと勘違いしてシュンとする少女。噛み合わない二人は、それでも同じ人を案じた。両手のナイフをクルクル回し、鬼狐の面の下で獰猛な笑みを浮かべる‶殺人鬼‶の身を案じていた。
▽
怪物。
目の前の敵を言い表すのに、これ以上適切な言葉はないだろう。注射器によって打ち込まれたナニカが男を化け物へと変化させた。
皮下に収まりきらぬ程に筋肉が膨張し、皮膚が裂けて血が流れている。床や壁を蹴り抜いた足は破片が突き刺さっているが、男は痛みを感じないのだろう、全く気にする様子はない。
そして、契助を睨むその双眸は正気ではない程に焦点が合わなかった。加えて真っ赤に充血している。まるで理性など持ち合わせていない獣のように。
「クスリか何かでぶっ飛んでんな。ははぁ、対殲滅用の‶狂戦士‶ってとこか。それとも、研究所での実験の一つか?」
「おい、‶殺人鬼‶! 油断するな! 闇市場で出回ってる薬でもこうはならん!」
「『身体強化薬』、それとも『能力増強薬』の重複投与……いや、猟犬も知らない新薬かもな。どちらにせよ、ぶち殺すだけだ!」
契助はナイフを構えると、ギラリと歯を剥き出した。‶殺人鬼‶としての存在理由、人を殺すことで誰かを助ける契助の使命が、鼓動を強くし熱をもたらす。
先に動いたのは敵だった。先程のように強力な踏み込みで契助に迫る。言語化できないような唸り声をあげながら‶狂戦士‶が拳を繰り出すが、契助はスレスレで掻い潜るように回避し、両のナイフを胸と腹に叩き込んだ。すぐさま蹴りに繋げて巨体を吹き飛ばす。
しかし、あまりにも軽い当て感に契助は舌打ちをする。
「身体強化系……純粋な膂力強化の敵は普通に厄介だ、まったく」
敵の肉体に触れたナイフは、膨れ上がった筋肉に阻まれ深く刺せず、繋げた蹴りも有効打にならない。理由は分かる。契助の眼前にある、床の破砕痕だ。‶狂戦士‶は攻撃を受ける直前、床を蹴って全力で後退したのだ。それによって契助のナイフの威力は殺され、蹴りもほとんどダメージを与えられていない。
「ォオオオオオオオオッ!!」
今度はこちらだと言わんばかりに‶狂戦士‶は雄叫びをあげる。武人のようなキレは全く感じさせないが、それでも空気を穿つ勢いだ。
怒涛の連撃に押され、避け損なった攻撃を咄嗟にナイフの腹で受け止める。拳骨を凌ぐ短刀は火花が散り、ミシッと腕の中で嫌な音が鳴る。そのまま衝撃を殺しきれずに契助は吹き飛ばされた。衝撃で痺れ、力の抜けた左腕からナイフがこぼれ落ちる。見れば、床に転がる得物に小さくない亀裂が走っていた。砕けずに原型を留めているのは組織の技術課のおかげか。「また相棒に小言を言われる」と契助は破損寸前のナイフを拾い上げて腰に納めた。
「しッ!!」
「ァアアアアアアア!!」
床を蹴り抜いて突っ込む‶狂戦士‶、その首めがけてナイフを振りかぶる契助。互いの攻撃は、どちらも致命傷に至らない。攻撃を喰らう寸前で見切り、契助は反撃を繰り返す。‶殺人鬼‶としての戦闘経験値が神業にも等しい回避を成立させていた。しかし、‶狂戦士‶は擦り傷こそあるが勢いに衰えは見せない。どちらも決定打を打てないままで、戦闘は膠着状態に陥り掛けていた。
‶騎士団長‶は契助が劣勢になるのを物珍しそうに眺め、金髪幼女は「戦ってる契助しゃま……しゅきぃ……」と、うっとりした顔で眺め、その他の仲間も激しい殺し合いに参加できず‶騎士団長‶の方を見て指示を待っている。
その場で、七海だけが契助のために何かできないかと考えていた。
そんな時、敵の右拳がゆらりと歪む。僅かな違和感、一瞬の出来事。それに気付いていたのは、偶然にも敵の挙動に注目していた七海だけ。契助の立ち位置では、敵の右拳は反対側、つまり、死角だ。
「契助さん! 危ない!」
具体的な内容の無い警告。だが契助は七海の声に反応して攻撃に出ようとした体を反射的に引いた。無理に動かした体は軋み、体のバランスが崩れるが、結果的にそれが契助を救った。
――ドパンッ!
強烈な破裂音、同時に契助の視界が『炎』に染まる。‶毒蜘蛛‶の鼻先を掠めたのと同じ右拳のフック。ストレートパンチだったならば、契助は間違いなく顔面から死んでいた。回避した今でも、鬼狐の面越しに伝わる熱で死にそうだ。
「……っ、『発火』能力。てっきり『身体強化』系だと思っていたが……そっちはただのドーピングかよ、くそったれ」
不味い、非常に不味い、と契助の脳内ではガンガンと警鐘が鳴らされる。ただでさえ動きが速く、致命傷を与えきれないこの状況。互いの天秤が釣り合っている中で発生したパワーバランスを崩す一手。
『炎』による熱のせいか、あるいは冷や汗か、契助の額に一筋の汗が流れる。契助がどうにか対処法を考えていると、背後から能天気な声が投げ掛けられた。
「おい、女の子連れて張り切っているのは分かるが、そろそろ時間が押している。早く倒せ、‶殺人鬼‶」
壁に背を預け、腕を組みながら緊張をほぐした体勢で‶騎士団長‶は言う。完全に任せっきりの態度に契助はムッとして「こちとら既に全力だっての!」と敵の拳を回避しながら言葉を返した。
「全力だと? ははは、これがお前の全力とは安いものだな」
仲間の男は心底愉快そうに軽口を叩く。が、それも一瞬。纏う雰囲気は鞘から抜いた真剣の如く剥き出しな殺意となり、契助ですらその重みに頸がチリついた。フェイスアーマーがなければ、その双眸に一切の感情が宿っていないことが分かっただろう。
「建前はいらん。お前が目の前の敵を‶即死‶させたいのは分かっている。分かっているし、理解している。敵に情けを掛けてしまうのも、女の子を気遣って汚さないようにするのも‶殺人鬼‶の特徴だ」
「…………」
「だがな、もう一度あの言葉を言わせてもらおう。『お前の行動によって他人の命が危うくなる』のだぞ。だから言ったのだ。八重波七海は置いていけ、と。だがお前は断った。だったら、つまらん意地を張るな」
「……意地、か」
「今のお前は‶殺人鬼‶だ。周りに対して遠慮などいらん。いつも通り、残虐に殺せ。どうせ結果は変わらんだろう。それとも、自信が無いか?」
「……お節介どうも。‶騎士団長‶」
「ふん……早く終わらせてしまえ」
「はは、そうか。でも……そうだな。どうにも気負い過ぎていた気がするよ、まったく」
七海を妹のように見ていた。妹の幻を重ねて視ていた。妹のような契助に……‶あの時‶と同じように、失望してほしくなかった。汚い姿を見せたくなかった。
契助は息を深く吐き捨てると、肩の力を抜く。気合を入れ直すように首を鳴らし、ナイフをヒュンヒュンとリズムカルに回し始めた。そんな中、七海がいつになく弱い声を出して契助に謝る。
「……契助さん、ごめんなさい。私のわがままの所為で……私が行きたいだなんて言ったから……」
「……そうだな。お前と接していると、どうにも自分が日陰者だってことを忘れてしまう。そして、それを思い出した時に後ろめたさを感じる自分がいる。ははっ、おかしいよな。地下にずっと住んでいた奴が、突然日の光を見たいだなんて。そんなことをしたって……結局、何を見ることも叶わないくせにな」
暗闇に生きる者。それが外の世界の眩しさに目を灼かれるのは必然だ。それを揶揄して契助は笑う。
「ま、暗い話はそこまでだ。悪いな、‶狂戦士‶。待っててくれてありがとよ」
契助に応じるように、‶狂戦士‶の少年は唸る。だが、契助は勘違いしていた。‶狂戦士‶は何も律儀に話が終わるのを待っていたのではない。契助の体勢から、構えから、一切の攻め入る隙が無いのだ。先程までの妙に狙う感覚は無い。
言うなれば、今までの戦闘はウォーミングアップ。殺し合いは、ここから開始すると本能で察した。
「グ……ガァアアアアッ!」
だが、戦況がどうなろうと小難しい戦略の一切は‶狂戦士‶には必要無い。隙が無いなら、真正面から叩き潰すのみ! その気迫でもって、‶狂戦士‶は踏み込んだ。
床を踏み抜く爆発的な脚力で契助の眼前に迫る。繰り出すのは上段回し蹴り。空手家のような美しさは無い。あくまでも無骨、それでいて最速。僅か1秒にも満たない初動からの攻撃に契助は回避もできず契助に直撃し――
「――軽いな」
ズドンッ! と唐突に‶狂戦士‶の右足が地面に叩き付けられる。不自然なまでに垂直落下した足は歪み、膝は横に折れていた。不自然に上がった契助の左腕を見てようやく、左肘を振り落として蹴りを防いだことを理解する。
契助はゆらりと揺れると、ナイフを振り上げる。その動作に反応した‶狂戦士‶が反射的に片足で離脱しようとするが、遅い。契助の左足が敵の逃げ遅れた右足を全力で踏み潰し、その場に縫い付ける。‶狂戦士‶は足を引き抜こうと暴れるが動けば動く程に踏み付けの圧力が増していき、肉が裂けてへし折れた骨が露出しようとも弱まることはなかった。
「抵抗は無駄だ。それとも、まだ打つ手を隠しているのか?」
契助が言い終わるよりも先に、ゴォッ! と敵の拳が発火する。今度の規模は『発火』ではない。『発炎』だ。右腕を全て覆い尽くすような赤い炎がメラメラと揺らぎ、超近距離から爆発的な威力で‶狂戦士‶は右腕を引き、ギチギチと唸る筋肉を開放して渾身の右のストレートを射出する。
苦し紛れの中でも敵の全力であろうそれに対して契助は目を細めると、ゆらりと揺れる炎を意にも介さずに敵の右手首を左手で掴んだ。
手が焼かれ、皮膚が焦げるが構わない。‶狂戦士‶は振り解こうとするが、腕をへし折る力でガッチリと押さえ込む。
「らぁッ!」
裂帛一閃、契助は捕らえた右腕を根元からナイフで断ち切った。そして即座にナイフを逆手に持ち、‶狂戦士‶の右足にナイフを叩き込む。生々しい斬撃音と共に血飛沫が舞った。片腕片足を失いグラリと姿勢を崩した‶狂戦士‶へ追撃する契助の眼が紅く輝き、鬼狐の面越しに敵を睨む。
「――『血気、返還』」
契助は、呟きと共に右手のナイフを‶狂戦士‶の首元へ薙いだ。‶狂戦士‶は最後の力を振り絞ってナイフを防ごうとする。
しかし、動かした左手は対抗するにはあまりにも弱々しかった。能力で『発火』しようとするが、まるで感覚を失ったように火を熾すことができない。
‶狂戦士‶は、悟る。所詮は薬で無理やり力を跳ね上げていただけ。右腕、右足を失い、そして今、薬の効果時間も終わったのだと。
――ズパンッ!
短刀の鋭い刃先が与えるのは、明確な致命傷。‶狂戦士‶は虚ろな目で契助を見た後、僅かに微笑んだ……ように、契助は見えた。
力尽きて床にドサッと倒れ込む‶狂戦士(バーサーカー‶。契助はヒュンッとナイフを回して鞘に収める。紅に染まった双眸は、やがて光を失っていく。
瞬きが終わる頃には、もう元の、‶殺人鬼‶を自称した冴えない少年の黒眼へと戻っていた。