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初契約

「ではここに印章を」

 木蓮は筆を置いて、契約書を常依依じょういーいーに差し出す。彼女はその契約文をふんふんと頷きながら読んでいたかと思えば、そのまま何も言わず押印した。

(太っ腹だな)

 姫棋が驚いたのは、絵の金額にではない。

 木蓮は契約書に、「于計の絵にかかる画具費用の負担」を()()()()()()()文言をしのばせていたのである。

 つまり、常依依が結果的に姫棋の絵を買ってくれなくても、姫棋は損失を被らない。その絵に使用した顔料や紙代など、かかった金は全て出してもらえるのだから。

 そして敏腕侍女の常依依がその文言を見逃すはずはなかった。彼女が何も言わず印を押したということは、もちろんそれも了承の上ということである。

(木蓮、ちゃんと考えてくれたんだな)

 彼に無理難題を押し付けられたように思っていたが、結果として姫棋は、金銭面の心配をすることなく新しい絵に挑戦することができるのだ。

 しかもこの契約は、常依依にも旨味がある。絵が気に入らなかったら買わなくてよい、そういう契約なのだ。画具費用を払ったとて気に入らない絵を買うよりは失う金を最小限に抑えられる。

 まさに描き手、買い手どちらにとってもお得な契約だった。


「では今日はこれでおいとまさせて頂きます」

 姫棋は契約書を貰い受け、木蓮と一緒に応接間を出た。常依依は丁寧にも自ら門まで案内してくれる。

 外廊下から見上げた夜空には、細い三日月が出ていた。

 月を見上げながらゆく姫棋の足取りはいつになく軽い。

 「死者の絵」などという突拍子もない注文ではあったが、それでも初めて正式に絵の仕事をもらえたのだ。嬉しくないわけがない。

 姫棋は歩きながら、ふとあることを思い出し木蓮の顔を覗き込んで聞いた。

「于計殿は戸部で働いてたんですよね? 彼と一緒に働いてた者たちにも話を聞いてみた――」

 姫棋が言い終わる前に、前を歩いていた常依依が急に振り返った。先ほどまでの品の良い彼女はどこかに消え、こちらを向いているのは夜叉だった。

「やめてください!」

 悲痛、とも思えるその声に、姫棋も木蓮も一瞬身動きを止める。

 常依依はそんな二人の反応で我に返ったのか、ハッとした様子で元の品の良い顔に戻る。

「あ、すみません。戸部には……その。于計を苦しめた者が、たくさんいるので……」

「いえ、こちらこそ申し訳ありません。配慮が足りず」

 姫棋がそう言うと、常依依は顔を隠すようにして前を向き、また歩き出した。姫棋と木蓮は互いに目配せし首を傾げたものの、黙ったまま常依依の後をついていった。


 常邸の外に出ると、姫棋は門が見えなくなったのを確認し木蓮に話しかけた。

「さっきの常依依、なんか様子がおかしかったよね」

 道に人影は見当たらなかったが、姫棋は小声で聞いた。誰がどこで話を聞いているか分からない。

「彼女は、于計が陰謀に嵌めらて死んだと思ってるみたいだからな。戸部の官吏たちは彼のかたきなんだろう」

 と木蓮は歯牙にもかけない様子で答えた。

 確かに、なんでも陰謀説にしたがる輩というのはいる。そういう人間は大抵、現実を直視することができない。残酷な現実を、陰謀や謀略という密やかな蜜に漬け込んでしまわないと飲み込こむことができないのだ。

(まあでも、それも悪いことじゃない)

 姫棋は透き通るような夜空を見上げた。

 たとえそれが嘘でも、辛い現実に絶望して生きられなくなるよりはずっと良い。

 生きてさえいればいつか、その嘘が溶ける日も来るから。

 ただ常依依が望む絵を描くためには、彼女が心のそこに隠してしまったものも知らなければならない。

 人が望むものは、そうやっていろんな嘘で塗り固められた、一番奥にしまわれているものだから。

「木蓮さ、戸部に行って于計殿の話を聞いて来てくれない?」

 唐突な頼みごとに、木蓮は驚いたような顔で姫棋を見やった。

「何で私が。それに常依依にはやめろと言われただろう」

「うん。でも買ってもらえる絵を描くには必要なことなんだよ。木蓮だって、どうせなら常依依に絵を買ってもらいたいでしょ?」

 木蓮は横目で姫棋を睨んだ。

 でも姫棋の心は変わらない。

「わたしは常依依に、木蓮は戸部に、手分けして話を聞こう」

 木蓮はまだ不服そうな顔をしていたが、小さく頷いていた。

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