駆け落ちした公主
まさか、姫棋が宮女として後宮にいることが神官に知れたのだろうか。
(もしそうなら)
自分のところに何かしらの沙汰がくるはずである。さすがに妃候補だったものを宮女として潜伏させていたなど、何のお咎めもなしで済むはずがない。
おそらく姫棋のことは露見していない。
となれば単に、次の妃候補が宮女だったというだけ――。
だが、もしそうであったとしても、姫棋が再び妃候補に選ばれている可能性もある。確率は低いだろうが。
木蓮は理部長官室を出てからずっと悶々としながら、目的もなく殿内を歩き回っていた。今すぐにでも神官に妃候補の名を問いただしたいところだが、そんなことをすれば怪しまれるのは必至である。
(彼女を連れて逃げる)
そんな考えがちらと浮かんだが、それも姫棋の同意なくしてできることではない。妃候補のことを盾に迫って彼女が頷いたところで、果たして自分は納得できるのか。
木蓮は葛藤の末、妃候補のことは告げず、絵の落書きをした犯人のことについてだけ、文にしたためることにした。
◇ ◇ ◇
「ねえ、その文誰からもらったの?」
鈴明が手元を覗きこんできたので、姫棋は慌てて読んでいた文を折りたたんだ。仕事後に部屋へ下がろうとしたところ、姫棋のもとに文が届いたのだ。
「別に誰からでもいいだろ」
「ええ、あやしい。私の女のカンがそう告げているわ」
文は木蓮からのものだった。
落書きをしたのが叔父でなかったことに、ほっと胸をなでおろしたものの、昨日彼に言われたことのせいで姫棋の心中は未だ落ち着かなかった。
木蓮とのことは、自分でもどうしたいのかよく分からない。
こんな風に自分で自分の気持ちが分からないなんてことは姫棋にとって初めてであった。出口のない迷宮にでも放り込まれた気分である。
「何、溜息なんかついちゃって。ちょっと私にもその文、見せてみなさいよ」
年中色恋のことばかり考えている親友は、こんな時でもそっとしておいてくれないようだ。文が男からのものと決めつけて、隙あらば文を取ってやろうと迫って来る。
まあ実際、男からの文なわけだが。
「ただの業務連絡だ。鈴明には関係ない」
そう言ったところで鈴明はさらに目をぎらつかせるだけ。結局二人は文を取り合うように、もみ合いになってしまった。
と、ちょうどいいところに厨の扉が開いて誰か入ってきた。宮女長、賀紹である。さらに彼女の後ろにも誰かいるようだ。
「みな励んでおるか」
賀紹がつれてきたのは、姮娥であった。普段厨に姿を現すことなどない人物に、宮女たちは慌てて揖手し頭をたれた。
「姮娥様は今回の火事をうけ、展覧会最終日の宴を縮小するよう、陛下にとりなしてくださいました」
その言葉に、宮女たちからは安堵するような声がもれた。
尚食局では燃え残った竈と、他所にある竈を借りてなんとか調理を行っていたのだが、分散して仕事をするというのは尚食局宮女たちにとって大変な負担であった。
明日の宴が縮小となれば、その負担は幾分か軽減されよう。
「明日で展覧会も終わりじゃ。みなご苦労であったな。あともうひと踏ん張り頑張っておくれ」
姮娥はにんまりと宮女たちに微笑みかけた。
宮女たちが礼を込めてまた揖手したのを見届け、賀紹と姮娥は厨を出て行った。
その瞬間、姫棋は弾かれたように二人の後を追いかけた。
回廊を歩いていく背中に声をかける。
「姮娥様!」
姮娥と賀紹が驚いた様子でふり返った。
「どうしたそんな血相をかえて。部屋がたま手狭になったか?」
「いえ。その、少しお話をお聞きしたく……」
「ふむ。何の話をじゃ?」
「不躾化とは思いますが、姮娥様のお若い頃の。お話を」
具体的には言わなかったが、それでも姮娥は何か察したらしい。いつものにんまりした笑顔になる。
「よかろう。では、わらわのお気に入りの場所に行こうかの」
姫棋と姮娥は、妃嬪たちの宮殿が立ち並ぶ場所にある、大きなな池のほとりの東屋にやってきた。
日光が当たるとはいえ外は少し寒かったが、賀紹がさっと掛物と温かい茶を用意してくれた。さすが姮娥の元侍女。姮娥が何か言葉を発する前にすべてが分かるらしい。
「そなたが聞きたいことは、わらわの昔の男についてであろう」
姮娥は賀紹の用意した茶を飲みながら、したり顔でニヤニヤとほくそ笑んでいた。
「えっと、はい。おっしゃるとおりです」
姫棋がめずらしく歯切れ悪く返事をすると、姮娥は呵々と笑った。
「そうかそうか。そなたも、とうとう男に惚れたか。して、相手は誰じゃ。言うてみい」
嬉しそうに迫る姮娥に、姫棋は、うっと喉をつまらせた。
「わたしの、ことではなく友人が悩んでいて。何とか助けてやりたいと……」
姫棋は、今まで色恋の話などあまりしたことがなかったから、誰に何と相談してよいか分からなかった。それで、昔官吏と駆け落ちまでしたという姮娥になら何か参考になることを聞けるのでは、と思ったのだ。
が、今になって、勢いで姮娥を呼びとめてしまったことを後悔しはじめていた。
そんな姫棋を見かねてか、賀紹が姮娥にそっと耳打ちする。
「姮娥様、あまり若者をいじめては」
賀紹が諫めるように首を横にふると、姮娥はつまらなそうに口を尖らせた。
「仕方ないのう。まあ、わらわの話が《《その友人》》の役に立つかは分からぬが」
そう言いつつも、姮娥は楽しそうに話しはじめた。
「わらわが昔駆け落ちしたのは、そなたも知っておろう。相手の男はな、医官じゃった。たまたま、わらわが怪我をしたのを診てくれてのう。それから互いに情を通わせるようになったのじゃ」
賀紹も隣に座って姮娥の話を聞いていた。姮娥と賀紹は二人、今まさに同じ情景を思い描いているように見えた。
「じゃが、わらわの降嫁先はすでに決まっておっての。彼との婚姻は許されなんだ。それで駆け落ちしたわけだが、それから一月ほど市井で二人で暮らしたのじゃ」
姮娥は心ときめかせる少女のような顔になる。
「幸せな日々じゃった」
思い出を抱きしめるように言う姮娥に、姫棋は胸が苦しくなった。
その幸せは続かなかったのだ。姮娥はその後宮城に連れ戻されることになるのだから。
「駆け落ちしたことを、後悔されたことはないですか?」
彼女の行いは辛い思いをしただけ、と言うこともできる。結局、彼とは添い遂げられず皇籍も剥奪され、もとの縁談も無効になってしまったのだから。
「それはない。今でも、ああして良かったと思うておる。結果として彼とは一緒になれなんだし、子も授かることはなかった。確かに寂しい思いもしたが」
そこで姮娥は目線を上げて優しく微笑んだ。
「わらわには、木蓮がいたからの」
彼女の目は今まで見たなかで一番優しい目をしていた。そして慈しむように東屋を見渡す。
「ここはのう、木蓮に初めて会うた場所なんじゃ」
血のつながっていない姮娥と木蓮。でも確かに、彼らの間には親子の絆があるのだろう。
「そなたの《《友人》》が何に悩んでいるか分からんが、もしそやつに言ってやれることがあるとすれば、人生何を選んでも良いことは必ずある、ということかの」
そう言って姮娥はまた呵々と笑い、立ち上がった。
「うう。やはり老体にこの寒さは堪えるのう」
姫棋はこの寒空の下、話をしてくれたことに礼を言い、姮娥と別れた。
そして自分の部屋へと歩きながら、姮娥に言われたことを想い返した。
――何を選んでも良いことは必ずある。
自分がもし、木蓮の妻になったら。
もしくは、このまま仕事上の関係を続けたら。
どちらを選んでもきっと自分は満足できるのかもしれない。
だけど、心の底では自分は。