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自覚のない彦星

 「一緒になろう」


 それはつまり、妻になって欲しい、ということ。

 まさか自分にかけられることがあるとは、夢にも思っていなかった言葉。その言葉に、姫棋はどんな顔をしていいのか分からなかった。

 誰かの妻になるなどこれまで一度も、考えたことすらなかったのである。

 それでも何か返事をしなくては、と口を開きかけたとき。


 宮殿の外が急に騒がしくなった。

 なにやら不穏な気配。


 さすがに無視できない騒々しさに、木蓮が扉を開けて外に出た。姫棋も追って外に出る。

 走っていく男を一人つかまえ何があったのかと問う。


「何って、火の手があがったんだよ! 尚食の方だ」





 尚食局で起きた火事はすぐに消し止められたが、厨の一部が焼け焦げ使用できなくなってしまった。

 おかげで尚食局は大混乱である。展覧会期間のただでさえ忙しい時期に火事まで起こしてしまっては、他局から宮女たちが助っ人に来たところで何の助けにもならないくらい、荒れていた。

 姫棋もその混乱に巻き込まれ、結局あのあと木蓮とはぐれてしまったきりとなった。




 ◇  ◇  ◇




 尚食局で火事があった翌日。

 木蓮は、理部の長官室に呼ばれた。尚食局の様子を見に行こうと思っていたが、理部長官、孫幺そんようが急ぎ来いというのだ。


 木蓮が理部長官室の扉を開けると、そこには執務机の向こうに座る孫幺そんよう長官の他に、羅漢床(ながいす)に中年の女が一人座っていた。 細い筋肉質な手足に動きやすそうな胡服ズボン、真っ黒な髪を後ろできゅっと結んだ出で立ちは、男のようにも見える。

 そんな彼女は、名を鴉梅うめいといい、刑部の次官であった。


「やあっと来たか、木()


 鴉梅うめい羅漢床(ながいす)の上で足を組み、ふんぞり返ったまま木蓮を見上げた。結びきれなかった髪が、顔の両側で揺れる。


「その呼び方は辞めてください。もう私は、後宮にいた頃とは違うんですから」

「ははっ。そうだったな。今は陛下お気に入りの、天才次官様だったか?」


 鴉梅うめいは挑むような笑みを木蓮に向けた。

 木蓮は黙ったっまま、冷めたい目で鴉梅うめいを見つめ返す。

 

 理部長官室の温度がすっと下がったようだった。


 一触即発の雰囲気を漂わせる木蓮と鴉梅うめいに挟まれ、可哀そうなのは孫幺そんようである。温厚な彼は、二人を交互に見ながらおろおろしていた。


「ちょっと鴉梅うめい。また君は人の嫌がること言って。いい歳して、そういうの辞めなさいってば」


「なんだい、これくらい。ただの、あいさつじゃないか」


 鴉梅うめいは階級こそ孫幺そんようより下だが、彼と同期で官吏になっているので物言いはむしろ上からというのが常なのだ。


「要件があるなら手短にすませてもらえますか。《《陛下のお気に入り》》次官は、どこかの次官と違って忙しいんです」


 木蓮は鴉梅うめいから視線を窓の外に向ける。


「ほう、言うようになったな」


 鴉梅うめいはニヤニヤしながら、自分の膝の上に置いていた薄い冊子を手に取り、羅漢床(ながいす)の前にある円卓にぽんと投げた。


 その表紙には『彦星番付』との文字。


「何ですかこれは」


 木蓮が厭わしそうに目を細めると、鴉梅うめいが驚いた表情になった。


「おいおい、お前さん『彦星番付これ』を知らないのかい」


 また馬鹿にされたのかと思い木蓮は少しムッとしたが、どうやら鴉梅うめいは心の底から驚いているらしかった。

 かといって木蓮は鴉梅うめいがこれを見せた意図は分からない。首を傾げていると孫幺そんようが助け舟を出した。


次官はね、蔡君の絵に落書きした犯人をつかまえてくれたんだよ」


 今度は木蓮が驚いた顔になる。


「どこの誰だったのですか?」

「吏部の奴らだ。お前さんに嫉妬して、腹いせにやったんだとよ」

「嫉妬って……まだ科挙のことをとやかく――」


 鴉梅うめいはかぶりを振って木蓮の言を遮った。

 これだよ、これ。と言いながら『彦星番付』と書かれた冊子を人差し指で叩く。


 促され、木蓮はその冊子を手に取って中を見てみた。


「これは……」


 木蓮はパラパラと頁をいくつかめくって、その冊子の正体を察した。


「最年少で次官になって、女からも人気ときちゃあ、嫉妬する奴もいるだろうさ」


 そう言われても、木蓮にはあまりその実感はなかった。

 なぜなら、木蓮は女士じょせいから遠巻きにじろじろと見られることはあっても、直接話しかけられることはほとんどなかったのである。

 仮に話してみても、理学のことについて木蓮が語りだすと、たいてい顔を引きつらせて逃げていくのだ。

 そんなことで自分が女士じょせいたちから人気があると思えるだろうか。強者の自己陶酔者ナルシストでもない限り難しいだろう。


「落書きをした犯人たちはね、蔡君が女の子と歩いてるのを見て、からかってやろうと思ったんだって」


 啼々夜草ててやそうは子どもをつくるための生薬。妻がいない木蓮への当てつけであったというわけだ。


「なんて幼稚な」


 そんなことで人の描いた絵に落書きするなど、官吏のすることだろうか。


「まあ彼らも酒が入っていたみたいだけどね」


 孫幺が眉尻を下げてみせると、鴉梅うめいは不遜な笑みを消して厳しい顔になる。


「酒に酔っていたからって罪は軽くならん。奴らは降格し、地方に左遷してやるよ」


 鴉梅うめいは嫌味な女であるが、仕事には真面目であった。金に目が眩むこともない。彼女に任せておけば、彼らには規則通りの処罰が下るだろう。

 木蓮が内心ほっとしていると、鴉梅うめいはまたニヤリと口角を上げた。


「だが、嫉妬していた相手がまさか『彦星番付』のことを知らなかったとはな。あいつら、肩透かしもいいところだろう」


 そう言って鴉梅うめいがクックと笑う。


「蔡君はこういうの興味ないんだよ」


 孫幺そんようはまた木蓮の機嫌が悪くなると思ったのか、すかさず援護に入る。


「なに言ってんだ。早く妻を娶らないからこんなことになってんだろ。陛下の女なんか探しに行ってる場合じゃないぞ」


 おそらく鴉梅うめいは、姫棋を迎えに行ったときのことを言っているのだろう。木蓮は変に探られないように、機嫌をそこねて黙っている《《ふり》》をした。


「あれは災難だったね。せっかく異国まで行ったのに、選ばれた小姐むすめが死んでいたなんて」


 代わりに孫幺が相槌を打ってくれた。


「そう言う意味じゃ、今回のお迎え役は楽だな」


 今回? 木蓮はその言葉にみぞおち辺りがちりと痛んだ。


「また陛下は妃嬪を迎えられるのですか?」


 木蓮が早口で問いかけると、鴉梅うめいは得意げな顔で木蓮を見やった。


「まだ内密な情報だけどな。次の妃嬪に選ばれたのはどうやらこの後宮にいる、宮女らしいぞ」

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