寿桃包
「姫棋、もう出てきて大丈夫なの?」
姫棋が厨に姿を見せると、心配そうな顔で鈴明が駆け寄ってきた。
展覧会二日目。姫棋は午前中だけ休みをもらって、午後から仕事に復帰した。
「うん。もう十分休ませてもらったし。こんな時にいつまでも寝てられないからな」
本当はまだ少し身体がだるかったが、展覧会で忙しい時に自分だけ休んではいられない。
(さて、やりますか)
姫棋は病み上がりということで食べ物には触れず、今日は皿洗いに専念することになっていた。
展覧会期間中であるので厨に返ってくる皿は通常の二倍の量だったが、その皿たちを洗うのは姫棋一人。休んでしまった分だと、自ら申し出たのである。
姫棋は襦裙の袖をまくると、さっそく皿洗いに取り掛かった。
汚れの少ないものは水洗いし、汚れのひどいものは灰汁を使って洗っていく。
灰汁というのは、水に灰をとかしてその上澄みをとったもので、油汚れを落とすのにはうってつけの洗浄剤になるのだ。
木蓮に言わせると”えんきせい”というのが関係しているらしいが、とにもかくにも汚れを落とす効果は抜群である。
どれくらい抜群かというと、薄めて使わないと手まで溶けてしまうほどだ。
姫棋はひたすらに皿を洗いながら、また落書きされた自分の絵のことを考えていた。
やはり、どうしても啼々夜草から叔父のことが頭に浮かんでしまう。だが、木蓮に話を聞いてもらったことで、ずいぶん心は軽くなっていた。知ってくれている人がいる、と思えるだけでこんなに気が楽になるものらしい。
「ほおら、みんな! 差し入れをもらったよ」
先輩宮女が大きな木箱を抱え、厨に入ってきた。
厨で駆けずり回っていた宮女たちは、しばし手をとめその先輩宮女の周りに集まる。
先輩が木箱の蓋をあけると、そこに入っていたのは、大量の寿桃包だった。
厨に歓喜の声が上がる。
「いやあん、美味しそう。誰から頂いたんですか?」
鈴明が両手を頬に当て、腰をくねくねさせながら先輩宮女に尋ねた。
「さあ、あたしは賀紹様から預かってきただけさ。でもどうやら役所の方から届いたらしいよ」
「あら、そうなんですか。どなたが送って下さったんでしょうね」
箱に入っていた寿桃包は、厨で働いている宮女たち全員に十分いきわたる量だった。
姫棋も一つもらう。
ふわふわの寿桃包を二つに割ってみると、中に入っていたのは蓮の実の餡だった。
一口食んでみる。
(丹丹のやつだ)
寿桃包は、ほんのり甘く優しい味がした。
◇ ◇ ◇
姫棋が寿桃包にかぶりついている頃、木蓮は、理部の次官室で論文の査読をしていた。
展覧会期間中とて中断できない実験もあれば、納期が迫っている開発品もある。
加えて、楽しい楽しい茶会や園遊会への参加もしなくてはならず、姫棋の絵に落書きをした犯人捜しは思ったようにはかどっていなかった。
(まあ、刑部に任せておけば、いずれ手がかりは見つかるだろうが…)
木蓮は、落書きの犯人はこの夏后国の者であるとみていた。
姫棋は自分の叔父の仕業だと言っていたが、やはりこの国に、しかも宮城内に異国のものが侵入したとは思えなかった。
そもそも姫棋が夏后国にいるということ自体、彼女の叔父が知るのは不可能だろう。
姫棋だって冷静に考えれば、あの落書きが叔父の仕業である可能性が低いということは分かるはずである。
でも、そう思い込んでしまうほどに、彼女にとって叔父のこと、姐のことは辛い経験だったのだ。
――何か、彼女にしてやれることはあるだろうか。
話を聞いてやって、落書きの犯人を捜して。それだけでもいいのかもしれない。だけどもっと、自分も、彼女を元気づける何かをしてやりたい。と思う。
自分の心を救ってもらったように、自分も彼女に。
こんなとき、きっと姫棋なら絵を描いて相手の心を癒してしまうのだろう。ただ自分にはとてもそんな芸当、できそうにない。
(私にできるのは、理学のことだけ)
理学は人の心と触れ合うものでも、気持ちを伝える手段でもない。ただ世の理を解き明かすためにあるもの。それは人々に利をもたらす一方で、気味悪がられることも多いものだ。
木蓮は朱を入れた論文の束を、執務机の引き出しにしまった。
そしてふと、部屋の端に置いてあった気温計に目がとまる。
いつか、姫棋が理部の次官室にやって来た時の光景が目に浮かんだ。
(あの気温計を見たとき)
彼女が見せた笑顔――。
木蓮は椅子から立ち上がった。
自分にできることをやってみよう。理学でも。彼女になら。
木蓮は役所の朱門をくぐり、李羽蘭の冷宮へと向かう。
「あそこならば、人はこない」