ゆだねてみれば
きんと冷えた風に頬をなでられて、姫棋はそっと目を開けた。
そこは、見知らぬ部屋の中。
遠くで聞こえる笛の音は、茶会で奏でられているものだろうか。
姫棋は横になったまま、辺りの様子をうかがった。
自分が寝ているのは木製の天蓋付きの牀。ただ天蓋付きとはいっても質素なもので飾り気はほとんどない。
左手の頭元の方には窓があり、薄緑の紗の帳が風に揺れていた。他には、文机と燭台、本が数冊。
この部屋にあるのは、それだけだった。
ひどく殺風景な部屋。
でもこれは間違いなく、官舎の、木蓮の部屋なのだと分かった。
なぜなら今自分が包まれている布団は、彼の香りがするから。
理部の次官室と比べるとこの部屋は、あっけないほどに物が少ないので戸惑ったが。
姫棋は上半身を起こしてみる。まだ頭はぼうっとして熱っぽかったが、先ほどよりは幾分楽になっているようだった。
「よかった。目が覚めたか」
その声に顔を上げると、木蓮が部屋の扉を開けて入ってきたところだった。心配そうな顔をしている。
木蓮は傍までやって来て、牀に腰かけた。
「今から医官を呼びに行こうかと思ってたんだ」
気分はどうだ? と顔を覗き込んでくる木蓮に、大丈夫、と答え姫棋はまた部屋を見渡した。
「ここは、木蓮の部屋?」
そう聞かれて木蓮は少し気まずそうな顔をする。
「あそこから一番近いのが、私の部屋だったから」
「そうか、ありがとう」
姫棋がそういうと、木蓮は安心したように小さく嘆息した。
「熱があるみたいだな。昨日池なんか入って、風邪をひいたんだろう」
「うん。朝から頭痛くて……」
姫棋はそう答えながら、足にかけられている布団をぼんやり見つめていた。今度は遠くで琵琶の音が聞こえる。
絵を見に行ったんだな、と木蓮がおもむろに口を開いた。
「刑部も協力してくれると言っていたし、すぐに――」
「木蓮」
姫棋が木蓮の言葉を遮った。
「あれはたぶん、わたしの叔父の仕業だと思う」
姫棋はじっと布団を見つめたまま言った。
今日は姐の命日なのだ。そんな日に、あの啼々夜草を描くものなど、やはり叔父以外に考えられない。
木蓮は怪訝そうに首を傾げた。
「君の叔父殿が落書きを? でも、叔父殿はこの国にはいないだろう。異国の者はそう簡単に夏后国には入れない」
「そうかもしれないけど、他に考えられない。わたしの絵に、あの花を描くなんて」
「花と叔父殿に、何か関係があるのか?」
姫棋は叔父のことを木蓮に告げるか迷った。今まで誰にも話してこなかったことだ。だけどこのまま、ただ叔父の仕業だと言いつのったところで理由が分からねば木蓮とて納得できないのもよく分かった。
それに。
(木蓮になら)
話してもいいような気がした。以前に聞かれたときは、話すつもりはなかったけれど。
姫棋は深く深呼吸する。そして、口を開いた。
「わたしの姐さんは、啼々夜草で殺されたんだ」
姫棋は、姐が叔父の出世に利用され、そして子を成せなかった姐が夫に捨てられたことを話した。
おそらく上手く言葉を紡げていないところもあっただろう。何かが喉につっかえているようで、言葉にするのが苦しかった。
それでも木蓮は、時折頷きながらじっと話を聞いてくれた。
「だから、君は叔父殿の所に行かなかったのか」
姫棋は父が亡くなった時、面倒を見てやるという叔父の誘いを断った。行けるはずがなかった。大好きだった姐を利用して、死なせたのは叔父なのだから。
母は叔父のところへ行ったが、母は叔父が啼々夜草を姐に送っていたことを知らなかったのだ。父が教えなかったから。
「叔父は、わたしが行かないと断ったら、侍女も侍従もみんな取り上げてしまった。一人で生きていけるものなら生きてみろ、…って」
そうやって追い込んで、泣きついてくるのを叔父は待っていた。そういう男だった。
そして彼は、異常なほど執念深い男でもある。
「あの絵の落書きは、叔父の差し金だと思う。たぶん叔父はわたしが逃げ出したと思って探してるんだ。だから、これはわたしが何とかしなきゃいけない。絵のことも――」
そのとき、木蓮の手が肩に触れた。そのまま、そっと抱き寄せられる。
反射的に体が強ばった。
姫棋の脳裏にいつもの言葉が浮かぶ。
男は敵。
男は皆、女を道具のように扱う。出世のための道具。子どもをつくるための道具。そして使えなくなれば、壊れた日用品のようにあっさり捨てる。
姐は、自分勝手で無慈悲な男たちのせいで死んでしまった。
そんな男たちを、姐を苦しめた男たちを、許せない。
だから自分は、男に頼らず自分の力で生きていくと、そう心に誓った。
なのに。どうして。
――この男の腕の中は、こんなにも温かいのだろう。
木蓮はじっと黙ったままだった。
だけど、彼の穏やかな、ゆっくりとした鼓動が耳に響いてくる。
その優しい音に包まれているうち、身体から力が抜けていくのが分かった。
そのまま彼の胸に重みを預けてみれば、木蓮は、ぎゅっと強く抱きしめてくれた。