虹色の鯉
木蓮と姫棋は、後宮の端にある睡蓮の池にやってきた。
姫棋の言ったとおり、今日は十一月にしては不思議なほど暖かい。池の水面をなでる風もまるで春の風のように穏やかだった。
木蓮は、姫棋の後について九曲橋を渡る。
この九曲橋は、池の睡蓮を観賞するために取り付けられたもので欄干はなく、水面と同じくらいの高さにしてあった。おかげで睡蓮の花や葉を間近で見ることができる。
「夜の蓮というのも、乙だなあ」
前を歩く姫棋がつぶやく。
「これは蓮じゃないよ。睡蓮だ」
木蓮がそう、つぶやき返すと、姫棋が後ろを振りかえった。
「え? 蓮も睡蓮も一緒でしょ?」
と不思議そうな顔で首を傾げる。
「いや、蓮と睡蓮は違う花だ。ほら、この花や葉は、どれも水面ぎりぎりに浮かんでいるだろう。これは睡蓮。蓮だったら、水面よりもっと高く茎をのばすはずだ」
姫棋はへえ、と嬉しそうに微笑む。そしてまた前を向いて、酒を呑みながら歩きはじめる。
「ぷはあ」
と時折、酒を呑む合間の呼吸が前から聞こえていた。
歩きながら酒を呑むなんて、とても名家の小姐だったとは思えない素行の悪さである。淑やかさの欠片もない。
それどころか彼女は、木には登るし、匪賊みたいな喋り方だし、人の足を踏んづけ、呪われた冷宮に忍び込もうとする。
およそ、女士としての流麗さを持ち合わせていない。
それでも。
姫棋は――。
美しい女だと思う。
彼女は自身の想いを、誰かの想いを絵にできる。そうやって、人の心に触れることができる。
眩暈がするほどに、羨ましかった。
自分には芸術の才能がなかった。そんな自分を母は認めなかった。母は、詩も音楽もとてもよく教えてくれたけれど、自分はそれに応えられなかった。詩にしろ音楽にしろ、芸術というものが何を表しているのか、何が正解で、何が間違っているのか、理解できなかった。
そして自分は芸術から逃げるように、理学にのめりこんだのだ。
理学なら、その道筋が見える。いかに遠く離れている答えだとしても、そこに行きつくまでの道のりは、一歩一歩確かに辿ることができる。
でも芸術となると、途端、霧の中に放り込まれたようで、どこに向かえばいいかまるで分からなかった。
その分からない、はやがて不安を産み、次第に孤独へと姿を変える。他者と分かり合えない、孤独へと。
そして母もまた、自分が理学にのめり込むことが理解できなかったのだろう。自分が理学にのめり込めばのめり込むほど、不安になるようだった。
自分とは違う生き物を見るような目。
母が何を思って、自分をこの宮廷に連れてきたのかは分からない。ただ単に金が欲しかったのかもしれない。でも自分には、母が、自分の息子を受け入れられなくて、それに耐えられなくなったように思えた。
最初は、苦しかった。他人と分かり合えないことが。
だから、李羽蘭にもすがったのだと思う。
でも、相容れないものは結局、どこまでいっても分かり合えないのだと悟った。自分が芸術を理解し、またそれを表現することも、誰かと心を通じ合わせることも、未来永劫ありえないのだと。諦めた。
なのに姫棋は、彼女の絵は、遠い昔に沈めたはずの憧れを、蘇らせてしまった。
桜舞い散る屋敷で初めて彼女の絵を見た時、頭がくらくらした。まるで窮屈な箱から解き放たれて、眩しい光に目が眩むように。今まで自分が知っていた芸術とは違う。正しさも、あるべき理想も全部横殴りするような、自由。
そして気づいたら、彼女が描く世界に引きこまれていた。
最初はたぶん、どうして姫棋の絵に惹かれたのか分かっていなかった。それに気づいたのが、あの夜だった。
姫棋が皇子に絵を描いてやったとき、皇子を孤独から救ってやった時、自分もまた、彼女に救われていたのだと気づいた。
それが嬉しくて――。
「あ! 今、虹色の鯉が跳ねた!」
姫棋が池の中を指さす。
「虹色?」
木蓮はその指の先を見つめたが、何も見当たらない。首を傾げる木蓮の隣で、姫棋はもどかしそうに背伸びしたり縮こまったりして鯉を探している。
「よし、捕まえにいこう」
え? という暇もなく、姫棋はざぶざぶと池の中に入っていった。池はひざ丈くらいの深さしかなかったが、それでも十一月の池に入るなんてどうかしている。
(ああもう)
姫棋のやつ、だいぶ酔っぱらっているようだ。
裙の裾をまくってはいるが、ばしゃばしゃと派手に水音をたてるものだから、すでに衣が濡れてしまっている。
「何やってるんだよ。そんなところ入って」
と姫棋を橋に引っ張り上げようとすると、逆に腕をつかまれた。嫌な予感がした直後、木蓮も池の中に落ちていた。
結局、二人とも全身ずぶぬれである。
「やっぱり、この時期の水は冷たいな」
姫棋はその言葉とは裏腹に、からからと楽しそうに笑っていた。
それにつられて、木蓮も何だか可笑しくなる。
誰も居ない静かな池に、二人の笑い声が響いていた。
池の水はかじかむほど冷たかったけれど、そんなことはもう、どうでもいいと思えてくる。
自分も虹色の鯉を見てみたい。
木蓮は立ち上がって、姫棋を引っ張り起こす。
二人は気のすむまで、虹色の鯉を探した。