空から舞い降りて
姫棋は木の上から、屋敷の外の物音に耳を澄ませていた。
どうやら屋敷の門の前で、馬車が止まったようだ。
ほんの一瞬、本当に皇子様が来たのかと思ったが、そんな甘い妄想に長く浸っていられるほど、この辺りの治安はよろしくなかった。
姫棋の住む屋敷はずいぶん荒んでいるとはいえ、見かけだけは立派なのだ。盗賊が金目のものを狙ってやってきたのかもしれない。
手のひらに嫌な汗が滲んでくる。
近所の匪賊とは仲良くやっている姫棋だったが、馬車で乗り付けてくるものとなるとそれなりの盗賊集団だ。さすがにそれは女一人で戦える相手ではない。
姫棋は汗ばむ手を握り締め、じっと門を見つめた。
その門を、何者かがくぐり抜けこちらにやってくる。
(あれは……)
屋敷に入ってきた人物の姿は、盗賊と言うにはあまりにも美麗な姿をしていた。その風貌は、一瞬、姫棋に姐の姿を思い出させる。絶世の美女と謳われた、姐を。
姫棋は静かにその者を観察した。
着ているのは、蠟白色の深衣と薄緑の外衣。男物の装いである。あまりに美しいので女かと思ったがどうやら違ったようだ。
(なんにしても不審者には違いない)
姫棋はその美麗な男を、きつと睨みつけ言った。
「あなた何者? ここへ何しに来たの!」
男は黙ってこちらを見上げているだけで返事をしない。
なんだかぼうっとしている様子である。
(どうして黙ってるんだろう)
聞こえていないのかと身を乗り出して再度問いかけるも、やはり男が口を開く気配はない。
これは木から降りて詳しく問うてみなくては、と思ったそのとき、春の風がうねるように強く吹いた。
枝から身を乗り出していた姫棋は、その風に容易く姿勢を崩される。
あ、と思ったときには身体が枝から投げ出されたあとだった。
(しまった)
必死で枝をつかんだが、腹が減っているせいか思うように手に力が入らない。
身体は地に吸い寄せられるように落ちていく。
(こんなところで)
死ぬのだろうか。こんなにあっけなく。
(不審者なんか、放っておけばよかった)
やっぱり男に関わるとろくなことがないのだ。姐だってそうだった。男に関わったばかりに、彼女は死んでしまったのだ。
だから、自分は絶対男には関わらない。嫁にもいかず、独りで生きていこうと思っていた。なのに、結局――。
姫棋は目を閉じた。
もう、いいじゃないか。もう頑張らなくていい。これで姐のところへいけるんだから。
そう思うと、全身から力がぬけるのがわかった。
そして姫棋は地に落ちた。
だけど痛くはなかった。よかった。案外、死というものは辛くないらしい。
そっと目を開けてみる。
桃源郷でも広がっているかと思われた目前には、先ほど木の上から見たあの美顔があった。
ややあって、姫棋は自分の置かれている状況を理解する。
どうやら自分は、この男に抱き留められたらしい。
(助かった。死なずにすんだみたいだ)
だが姫棋の身体は震えていた。それは木から落ちた恐怖によるものか、それとも男の腕の中という状況にかは分からないが、どうにも震えが止まらない。
男はというと、そんな姫棋を哀れに感じたのか、彼女ににこりと微笑みかける。
姫棋はその顔を目にした瞬間、胸が締め付けられるような思いがした。
それはこの男にほだされたからではない。その顔が、姐そっくりだったのである。遠目に見ても似ていると思ったが、間近で笑った顔は姐そのものだった。
姫棋の頭は混乱した。
大好きだった姐とそっくりな顔。でも相手は男。
こういう時に人の心中に生じる反応は二つ。
逃走か闘争だ。
今、自分はこの男の腕の中であるから逃走はできそうにない。となると残る選択肢は一つ。
姫棋は、男を撃退する呪文を唱えた。
「何笑ってるの。変態」
男はその言葉に目を丸くし、やがてその美しい顔を怒りに塗り替えた。
「助けてもらって何なんだその言いぐさは」
姫棋は男の腕から放り出された。危うく転ぶところだったが、すんでのところで踏ん張る。
(少々言いすぎたか)
確かにこの男は自分を助けてくれたのだ。そんな彼に対して変態とは、いささか不敬だったかと考える。しかし、そもそもこの男が屋敷に入って来なければ木から落ちることもなかったのだ。
不審者への対応としては間違ってない。
姫棋はそう思い直した。
男の方はというとまだ怒りが収まらないらしく手をわなわなと震わせている。しばらく何か考えているようだったが、ふいに、意地悪く口の端を持ち上げた。
「君、もう少し愛想よくしたらどうなんだ。そんなことだから、嫁にも行き遅れるんだろう」
これには姫棋もカチンときた。
「なんて失礼な人。私は行き遅れてるんじゃなくて、自分で嫁に行かないと決めたんだ」
「へえ、それでどうやって生きていくつもりだったんだ? ここを見る限り、相当金に困っているようだが?」
姫棋は男を睨みつけたものの、ぐうの音も出なかった。まさに男の言うとおりである。
姫棋が歯噛みしていると、男は姫棋と一緒に落ちてしまった紙を拾い上げた。
姫棋はハッとして男の方へ手を伸ばす。
「返して」
しかし、男は返事の代わりにまた嫌味な笑みを返してきたかと思えば、その紙を空高くかかげた。
(この男、挑発しているつもりか)
姫棋は渾身の力を振り絞って飛び跳ね、高くかかげられた紙に手を伸ばした。が、彼と姫棋の身長差では手が届くはずもなかった。
必死な様子の姫棋をよそに、男は空を背景に紙きれをひらと広げる――。
途端、男はすっと顔色を変えた。そのまま微動だにせずじっと絵を見つめている。
(もしかしてこの男……)
絵に興味を示している?
だとしたらこれは、とんでもない機会ではなかろうか。
姫棋は男の身なりを確認する。
この男の着ている物は絹である。だいぶ着古しているのかちょっとくたびれてはいるが、絹は絹だ。絹を着られるものといえば官吏、それも高級官吏もしくは皇族に連なるものくらいだ。まさか共も連れないこの男が皇子ということはないだろう。となればおそらく彼は高級官吏。
十分だ。
皇子じゃなくたって、絵を買ってくれるならそれでいい。
男の腕は今やすっかり下りてしまっていたが、そんなことにも気づいていない様子の男は、顔を上げて姫棋に声をかけた。
「これは…君が?」
男の声はひどくかすれていた。無理やり絞り出した、そんな声だった。
(やはり、どう考えてもわたしの絵が気になっている様子)
なら一枚くらい絵を買ってくれるやもしれない。
(いや、一枚でいいのか?)
一枚売ったところで、その金がなくなったらまた極貧生活に逆戻りだ。
姫棋はふむと考え込む。
「あなたさっき、わたしに聞いたよね。嫁に行かずどうやって生きていくんだって」
「……ううん」
男は明後日の方を向いた。彼も内心では失礼なことを言ったと思っているのだろう。
だが姫棋はそのことについて今さら責めるつもりなどなかった。もっと他のことで頭がいっぱいだったのである。
姫棋は輝く瞳を、まっすぐ男の瞳にすえた。
すうっと息を吸い込む。
「あなた、わたしの絵を売ってくれない?」
その言葉に、男は目を見開いた。
「はい?」
「だから。わたしが描いた絵を、あなたに売ってもらいたいってこと」
言いながら姫棋は男にじりじりと迫った。男はというと姫棋を避けるように顔を背ける。
「何で私が、そんなことしなくちゃならない」
面倒くさそうに言う男の顔を覗き込み、姫棋は首を傾げた。
「何でってあなた退屈なんでしょ。顔にそう書いてある」
さも自明のことのように言ってのけると、男は驚いた様子で姫棋に目線を戻し、厭わしそうに目を細めた。
(図星だったか)
倦んだ目をしていると思ったら、本当にそうだったらしい。
だが、本人は素直にそれを認める気はないようだ。また、ふっと意地悪く口の端を持ち上げた。
「仮に退屈していたとして。君の絵を売ることが退屈しのぎになるとでも?」
「退屈しのぎどころか……きっと、あなたの知ってる世界がひっくりかえるよ」
今度は姫棋がふっと得意げに笑ってみせた。
すると男は、また驚いたように目を見開いたが、やがて声をあげて笑いだした。そしてひとしきり笑った男は、何やらすっきりした顔で息をはき出す。
「いいだろう。その話のってやる。だが、その分の手数料はしっかりもらうからな」
その答えに姫棋は、にんまりと微笑み返した。