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白銀の水

 門をくぐった先は、荒れ果てた庭が待ち構えていた。

 すでに陽は山の向こうに沈み、辺りは薄暗い。冷宮はいよいよ幽鬼でも出そうな雰囲気になってきた。


(端から順に見ていくか)


 木蓮は、西棟の扉を引いた。悲鳴のような音が響きわたる。

 棟の中から、冷気がすうっと出てきて足の間を流れていった。じめっとかび臭い匂いが鼻をつく。

 西棟は南北に細長く建てられており、奥の北棟に続いている。

 木蓮と姫棋は西棟を北に向かって進んだ。


 冷宮とはいえ、元は妃の住まう殿というだけあって、棟の中にはそれなりに凝った装飾の調度品が置かれたままになっていた。

 ただ、朽ちかけたそれらに華やかな面影はなく、むしろ怖ろしげなこの場の雰囲気を高めているだけだった。

 壁も所々崩れ落ちていて、カビだろうか、薄気味の悪い模様が浮かびかがっている。

 床を踏みしめるたびにギシギシと不気味な音が響いていた。


 木蓮は持ってきた手提灯籠をかざして前を歩いていたが、なぜか姫棋は、不自然なくらいぴたりと木蓮の後ろに貼り付いていた。

 木蓮は立ち止まって、後ろを振り返る。


「歩きにくいんだけど」


姫棋は下を向いたまま返事をしない。木蓮は姫棋の顔を覗きこんだ。


「……ひょっとして、君怖いのか?」

「べっ別にっ。怖くなんかない、けど」


姫棋はやはり下を向いたまま目を泳がせている。


(なるほど)


 すごく怖いらしい。

 これでよくもまあ、一人で乗り込もうなんて考えたものである。


「そんなに怖いなら何でここに来たんだ。美術品なら、他にもっとあっただろう」

「だって、こういう所にこそお宝は眠ってるものでしょ。それに新しい芸術というのはね、非日常を味わうことで生まれるのだよ。木蓮君」


 おそらくこんなことを言っているようだったが、嚙みすぎて半分も聞き取れなかった。


 二人は丸く形どられた飾り壁をくぐり、北棟に入った。

 北棟には、棚や花瓶、円卓やその上のコップまで、当時のまま残っていた。

 そして、姫棋のお目当ての絵画や壺、装飾品の数々も雑多に放置されている。

 木蓮が埃まみれの行燈に火をつけると、姫棋はさっそく放置された美術品を見てまわった。


 木蓮は突っ立ったまま、その様子をぼうっと眺めていた。

 ここに放置されている美術品の中には、確かに国宝級の絵画や装飾品もあった。

 それでも一度不吉な意味がついてしまうと、こうやって廃屋に追いやられるのだから、美術品とは一体何なのだろう。と木蓮は思う。


 (やはり美術品の良し悪しなど、よく分からない)


 そんなことを考えていたらいつの間にか、どこかからともなく香の匂いが漂ってきた。こんな廃墟で香を焚くものなどいるはずがないのに、でも確かに、あの時(・・・)と同じ香りが、する。


 木蓮はだんだん気分が悪くなってきて、北棟の扉を開けて庭に出た。


 庭には小さな池があった。誰も手入れしなくなったそれは、藻が蔓延はびこりどんより濁っている。

 外に出れば少しでも気分が良くなるかと思ったが、むしろ逆だった。

 香の匂いはどんどん強くなっている。


 ふと目をあげると、東棟が見えた。


 どうやらこの香りは、東棟の方から流れてきているようだ。


 木蓮はその東棟を見つめた。

 格子窓には、花の模様があしらってある。朽ちかけた宮にあってそこだけは、何も変わっていないように感じられた。

 十五年前、木蓮がこの宮に迷い込んだ、いや、自らここへ赴いた時と同じ、窓。


 木蓮は池の上に渡してある九曲橋を渡って、東棟へと歩みを進める。


 あの時、幼い木蓮もこの橋を渡って、李羽りうらんのもとへ向かった。この橋を渡れば、夢が叶うと信じて。



「私の宮へおいで。そうすれば、おまえの望みを何でも一つ叶えてやろう」



 李羽りうらんはそう言って、幼い子どもたちをさらっていた。

 呪いなどではない。

 李羽りうらんは、分かっていたのだ。どういう子が、自分の甘言にのせられるのか。調べて、調べつくして、目星をつけたあとは、その子の耳元で囁くだけ――。



 木蓮は東棟の扉を開けて中に入った。

 中はがらんとしていて、月の光が格子窓を透かし室内を照らしていた。

 部屋の真ん中にある円卓と、その近くの床には、一部焼け焦げた跡があった。


 木蓮は椅子に座って、その円卓の焼け焦げた跡を、そっと指でなぞる。



「来たか、木蓮。さあ、こちらへおいで」



 李羽りうらんは優しい声でそう言った。綺麗な女だった。白い肌が月光に照らされると、この世の者ではないような気さえした。


 幼い木蓮は、黙って李羽りうらんを見上げた。

 彼女は一人で酒を呑んでいたらしい。卓には大きな酒壺が置いてあった。


「ああ、木蓮。なんと美しい子よ。さぞかし、その血も美しいであろうな」


 李羽りうらんは持っていた杯を卓に置いて幼い木蓮を見つめながら、ふっと微笑んだ。


 幼い木蓮には、その言葉の意味が分からなかった。まだ宮廷に来たばかりだったから、それが雅な誉め言葉か何かなのかと思った。

 甘ったるい香の匂いに、胸がチクチク刺されるような気がしていたけれど、それも気づかないふりをした。その胸のチクチクは自分の身体が、必死に警鐘を鳴らしているのだと分かっていながら。


「賢いそなたには、約束通り褒美をやらねばな。さあ、願いを言うてみよ」


 そう言われて、幼い木蓮はおずと、李羽りうらんに問う。


「形のないものでも、いいのですか?」


 李羽りうらんは嬉しそうに、微笑む。


「構わぬ。私は何でも、そなたの望みをかなえてやるぞ」


「では、私に……芸術の才、を授けて下さい」


 幼い木蓮がたどたどしい口調でそう言うと、李羽りうらんは不思議そうに首を傾げた。


「そなたは、天賦の才をもっておると聞いておるが。まだ才を望むのか?」

「他のものでは駄目なのです。芸術、の才で……ないと」


 うつむいて、今にも泣きだしそうな幼い木蓮を、李羽りうらんはじっと見つめていた。次第にその薄い唇は、至極、愉快げに上がる。


「そうか、そなた蔡夭さいようの子であったな。なるほど。母は芸術以外に、興味がなかったか?」


 木蓮はその問いには答えず、うつむいたまま李羽りうらんの足下を見つめていた。

 彼女の足は随分と小さかった。小さな靴に無理やり足を詰め込んで、小さくみせているようだった。


「ふふ、因果なものよの。だが心配せずともよい。私は何でも願いを叶えてやるからな」


 そう言って、李羽りうらんは懐から小さい透明の瓶を取り出した。


「これは神の薬じゃ。これを飲めば、そなたの願いも叶うぞ」


 李羽りうらんの持っている瓶に入っていたのは、白銀に輝く液体だった。月光に照らされきらきら輝くそれは、彼女の肌と同じように、この世のものではないような美しさだった。


 だが。

 幼い木蓮は、それがけっして願いを叶える薬ではないことを、知っていた。

 そして、先ほどの彼女の言葉と、その白銀の液体の示す意味がつながる。


 幼い木蓮は、卓の上にあった酒壺をつかむと、払いのけるようにして勢いよく床に落とした。酒壺は大きな音を立てて割れ、中から多量の酒が飛び散った。

 すかさず燭台をつかんで、ぶちまけられた酒の上に落とす。蝋燭の灯は瞬く間に酒に引火し、室内に燃え広がった。

 李羽りうらんがその炎に驚いている隙に、幼い木蓮は外に飛び出す。

 後ろで李羽りうらんが、人のものとは思えぬ声を上げていたが、幼い木蓮はふり返らず一心不乱に走った。



 怖い。怖くて、悲しかった。



 やっぱり、どうしたって自分の望むものは手に入らない。


 自分に芸術の才があったなら、母は、自分を迎えにまた来てくれるのではないか。そんな夢を見ていた。

 でも、願いは叶わなかった。


 だからもう、芸術のことなんか考える必要はない。その良し悪しも、価値も、喜びも、分からなくていい。



 ――もう願いは、叶わないのだから。




   ◇  ◇  ◇




(木蓮がどこかへ行ってしまった)


 まったく、こんな怪しいところに一人置いていくなんて。なんてひどい奴だろう。


 姫棋は北棟を一通り探し、さらに西棟も覗いてみたが、ここにも木蓮は見当たらない。隙間風がびゅうと吹き抜けていったのに驚いて、さっと北棟に引き返した。


 姫棋は、実体のあるものなら何だって怖くはなかったが、実体のないものは駄目だった。しかも、隙間風にまじって、女のすすり泣く声が聞こえるような……。

 姫棋は背筋がぞくぞくして居ても立っても居られなくなり、まだ確認していない東棟の方へ向かった。


 東棟の中に入って灯籠を高く挙げてみると、卓のところに誰かいるのが見えて、姫棋はひっと小さく声を上げた。

 しかし、よく見てみれば、それは卓に突っ伏して寝ている木蓮だった。


(なんだ、脅かすなよ)


 姫棋は声をかけようと木蓮に近づく。


 悪い夢でも見ているのか、彼はひどく苦しそうな表情をしていた。

 月光が彼の横顔を青白く照らしている。

 姫棋は木蓮の傍らに膝をついて、彼の頬にかかっていいる髪をそっと耳にかけてやった。


「木蓮」


 姫棋が名を呼ぶと、木蓮はゆっくりと瞳を開いた。




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